第四話「いおりとゆめの匂い」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおり
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【02】ゆめ
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【03】ななみ・リリカ
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【04】ユウリ・セシリア
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【05】ステラ
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【06】リナ・ミナ
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【07】レイナ
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【08】カレン
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真っ白なタオルがひとつ、アムネシア中央資料室の机の上で、朝そのものみたいに光っていた。
窓のない壁に映る疑似の朝焼けが、その綿の繊維を淡い茜に染める。
冷えた資料室の空気の中で、その一枚だけが、誰かの体温をまだ覚えているようだった。
もかは吸い寄せられるように身を乗り出し、タオルに顔をうずめる。
「くんくん……うん。やっぱりそう。お日様とお布団の匂い。いおりちゃんたちの村の朝だ」
顔を上げると、乾いた室内に、懐かしい生活の匂いがやわらかくほどけていく。
すずは眼鏡の位置を静かに直し、古い記録帳の新しい頁を開いた。
万年筆の先をインクになじませ、淡々と告げる。
「いおり、およびゆめ。匂いの変遷記録を開始します」
◇
「まずは、いおりちゃん」
もかはタオルの端を、壊れものに触るみたいに指先でなぞった。
「最初のいおりちゃんの匂いはね、『空白の匂い』だったの」
すずのペン先が止まらないまま、短く問い返す。
「空白」
「うん。大事なものがあった場所だけ、ぽっかり抜けちゃったみたいな匂い。風が通るたび、そこだけ少しひんやりするの。でも、からっぽじゃないんだよ」
もかは自分の胸の前に手を置く。
「底のほうには、ちゃんと温かいものが残ってた。誰かからもらったものを、怖がらずに受け取れる匂い。忘れてても、壊れてても、目の前のやさしさをちゃんと抱えられる子の匂い」
「……失われた記憶を埋めるのではなく、失ったままでも前に進める素地があった」
「そうそう」
もかはうれしそうに頷いて、それから少しだけ目を細めた。
「でもね、いおりちゃんの匂いって、最初は自分から何かをつかみに行く匂いじゃなかったの。差し出されたものを大事に抱える匂いだった。やさしいけど、まだ、生まれきってない感じ」
すずのペン先が、そこでわずかに重くなる。
「生まれきっていない」
「うん。声になる、ひとつ手前」
短い沈黙のあと、すずが頁を変えずに問う。
「では、ゆめは」
もかの鼻先が小さく動いた。
「ゆめちゃんはね、『静かに待ってる匂い』だった」
「待っている」
「ずっとだよ」
もかの声から、さっきまでの弾みが少しだけ消える。
「いおりちゃんが、いつか自分を見つけてくれるのを待ってるの。急かしもしないし、奪いもしない。ただ、ずっと隣にいて、名前を呼ばれるのを待ってる匂い」
タオルを抱く腕に、もかは少しだけ力を入れた。
「だから、ひとりの時のゆめちゃんは、ちょっとだけ強ばってるんだよ。きれいで、静かで、やさしいのに、どこか息を止めてるみたいな匂い。でも、いおりちゃんのそばにいる時だけ、それがふっとゆるむの」
すずが眼鏡の奥で目を伏せる。
「存在の根拠を、常に他者の認識に預けていたからですね」
「……うん」
もかは否定しない。
「待ってる匂いって、やさしいけど、ちょっとだけさみしいんだよ。『ここにいていいよ』って誰かに言ってもらうまで、自分から場所を取れない匂いだから」
その言葉に、資料室の空気がわずかに沈んだ。
すずは記録帳に数行書きつけてから、低く言う。
「つまり二人とも、最初から温かさは持っていた。ですが、その温かさはまだ不安定だった。いおりは受け取ることに、ゆめは待つことに、形を寄せすぎていた」
「そうなの」
もかの顔が、ぱっと明るくなる。
「だから面白かったんだよ。旅をしてるうちに、二人の匂いが少しずつ似てきたの」
「転写ですか」
「ううん、もっと深いの」
もかは首を横に振る。
「いおりちゃんの匂いの中に、ゆめちゃんの静かさが混ざって。ゆめちゃんの匂いの中に、いおりちゃんのやわらかい陽だまりが混ざって。ずっと隣で呼吸して、笑って、同じ景色を見てるうちに、匂いが移るっていうより、ふたりで新しい匂いを作り始めた感じ」
すずはその表現を咀嚼するように繰り返した。
「新しい匂い」
「うん。お揃いになるための匂い」
もかはおどけず、まっすぐ言った。
「でもね、お揃いって、ただ仲良しってことじゃなかったんだよ」
その一言で、朝焼けめいた光が少しだけ冷たく見えた。
「……あの廃墟ですね」
「うん」
もかはタオルから手を離し、自分の両手を見つめる。
「ゆめちゃんの体が透けて、本当に消えそうになった時。あの時の匂い、今でも忘れられない。ふわっと消える花びらみたいで、でもその奥に、ずっと我慢してきた怖さがぎゅうって詰まってた」
すずが静かに息を呑む。
「ゆめは、恐怖を表に出しませんでした」
「出せなかったんだよ」
もかは小さく首を振る。
「出したら、いおりちゃんが困るって思ってたから。最後まで、いい子でいようとしてた」
そのやさしさの残酷さに触れたように、しばらく誰も喋らなかった。
やがて、もかが自分の手首を片手で強くつかむ。
「その時、いおりちゃんが手を握ったの。ぎゅって。離さないって、体ごと決めるみたいに」
すずの視線が、もかの手に落ちる。
「ええ」
「それまでのいおりちゃんって、受け取るのが上手な子だった。でもあの瞬間、はじめて自分から『手放したくない』って匂いになったの」
もかの声が、少しだけ震える。
「空白の器じゃなくなったの。待ってるだけの匂いじゃなくて、自分の足で立って、自分の声で呼び返す匂いになった。『いて』って、ちゃんと言える匂い」
「……それが、あなたの言う“産声”ですか」
「うん」
もかは笑った。泣きそうな笑い方だった。
「はじめて、自分の意志で誰かに届こうとした声の匂い。あの時、いおりちゃん、ほんとに生まれ直したんだよ」
すずは長く黙ったあと、青いインクを一行ずつ置くように記していく。
「記録。いおりは欠落を抱えた受容者から、喪失を恐れてもなお手を伸ばす主体へ変化。ゆめは記憶に依存する身代わり――レセプターとしてではなく、自ら掴み返されることで、存在を受け身のまま終わらせなかった」
もかが静かに頷く。
「ゆめちゃんも、あの時ただ守られただけじゃないよ」
すずが顔を上げる。
「……どういう意味ですか」
「だって、手を握り返してたもん」
その返答は小さかったのに、まっすぐだった。
「消えそうで、こわくて、それでもちゃんと握り返してた。待ってるだけだった子が、『ここにいたい』って返した匂いだったよ」
すずはその言葉に、わずかに目を見開く。
「つまり、依存の固定ではない」
「うん。片方だけが片方を支えたんじゃないの。二人で同じだけ必死だったの」
もかはタオルを胸に抱き寄せる。
「だから、今の二人の匂いはあったかいんだよ。ただ甘いだけじゃなくて、ちゃんと一回こわかった匂い。消えそうだった匂い。離れかけた手を、もう一回つないだ匂い」
疑似の朝焼けが白いタオルを照らす。さっきよりも色が深くなった気がした。
すずは記録帳を見つめたまま、静かに言う。
「……役割を脱いだのですね」
「うん」
「いおりは“受け取る者”であることを、ゆめは“待つ者”であることを。どちらも、それだけでは足りなかった」
もかはやわらかく笑う。
「そうしたら、やっと半分こじゃなくなったのかもね」
「半分こ」
「足りないものを埋めるための半分じゃなくて、隣に立つためのお揃い」
すずはそこでようやくペンを置いた。表情はいつも通り静かだったが、声だけが少し深い。
「……記録、完了。互いを補填する関係ではなく、互いを選び直す関係へ移行したことで、二人は本当の意味で同じ朝を迎えた――そのように結論づけます」
もかは抱いていたタオルを丁寧に畳み、机の上へ戻す。真っ白な布は、もうただの布ではなく、たしかに誰かの帰る場所みたいに見えた。
表紙が閉じる小さな音が、資料室の静けさへ落ちていく。
その時、自動ドアが廊下の風をはらみ、かすかに軋んだ。
もかの動きがぴたりと止まる。鼻先が、また小さく震えた。
「あ……」
「どうしましたか、もか」
もかは廊下の先を見つめたまま、少しだけ眉を下げる。
「冷たい石みたいに凍ってるのに、その奥の奥に、ずっと消えなかった子守唄の匂いがある」
すずは眼鏡の位置を直した。その仕草はいつも通りなのに、声はほんの少しだけやわらぐ。
「……カレンさん、ですね」
「うん。たったひとりで、あんなに長く待ってた匂い」
もかは小さく息を吸う。
「でも、ひとりだったのに、ひとりの匂いじゃないんだよ。家族の匂いが、まだちゃんと残ってる」
すずは記録帳の表紙をそっと撫でた。
「了解しました。次回の記録項目として仮保存します」
廊下の向こうから、冷たい風の匂いと、遠い家族の歌の残り香が、ゆっくりと重なって流れてくる。
スピンオフ:第四話「いおりとゆめの匂い」――完
第三作『銀色の旅路』は完結編です。
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、第一作『銀色の結晶』、第二作『銀色の産声』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/
■銀色の産声――人願で綴る、明日のための戦記。
https://ncode.syosetu.com/n6938mi/
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