第五話「誰かの気配」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおり
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【02】ゆめ
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【03】ななみ・リリカ
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【04】ユウリ・セシリア
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【05】ステラ
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【06】リナ・ミナ
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【07】レイナ
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【08】カレン
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「……ゆめ。今、何か聞こえなかった?」
いおりが足を止めた。
旅の三日目。
北西へ伸びる道は、朝からずっと乾いていた。
草はまばらになり、土の色は薄く、ところどころ剥き出しの岩肌が陽を照り返している。
風は冷たい。
その風の音に混じって届いたのは、鳥の声でも、葉擦れでもない。
もっと細く、もっとかすかな――何かがひび割れるような音。
ゆめも立ち止まり、鼻先をひくつかせた。
「……うん。聞こえる。それに、変な匂いもする」
「変な匂い?」
「古い石と、濡れてないのに冷たい雨みたいな匂い。……それから、すごく寂しい匂い」
琥珀色の瞳が、道の先にできた灰色の影を捉える。
廃村だった。
石造りの家々が、肩を寄せるように並んでいる。
けれど、そこにはもう“生活”の体温がなかった。
窓は割れ、屋根は崩れ、壁の隙間からは白い霧が不自然なほど静かに這い出している。
村全体が、息を止めたまま放置されたように見えた。
「……ハザードレイヤー」
その名を口にした瞬間、いおりの胸の奥で何かが冷たく鳴った。
記憶はない。
それでも、その銀色の霧が人の心を沈め、足を止め、放っておけば命まで削る災厄の名残だということを、身体の芯は知っている。
見た目だけなら、規模は大きくない。
無理をしなければ、処理できるはずだと、知らないはずの感覚が告げていた。
けれど、ゆめは眉を寄せる。
「……いつもの匂いじゃない」
「いつもの?」
「怒ってるとか、苦しいとか、そういう強い匂いじゃないの。もっと静かで……古い。ずっと、誰にも呼ばれなかったみたいな匂い」
その言葉に、いおりも霧の向こうを見つめた。
白い。冷たい。
なのに、ただ危険なだけではない。
そこには確かに、人が置いていかれた気配があった。
その時だった。
霧の奥で、また音がした。
今度は、ひび割れる音ではない。
「……っ、……けて……」
声だった。
いおりの表情が変わる。
「誰かいる」
返事を待つより早く、いおりはリュックの肩紐を引き締めた。
「ゆめ、行くよ」
「待って、いおり」
ゆめはすぐに腕をつかむ。
「匂いが変だよ。見た目より深い」
「分かってる。でも、放っておけない」
その声に迷いはなかった。
記憶を失っているからこそ、今、目の前で消えそうになっているものへ、いおりは過剰なほど敏感だった。
ゆめは一瞬だけ唇を噛み、それから頷いた。
「……離れないで」
「うん」
二人は並んで、霧の中へ踏み込んだ。
◇
一歩目から、空気が変わった。
見えていたより濃い。
白い霧はただ漂っているのではなく、粘り気を持って肌へまとわりついてくる。
呼吸が浅くなり、胸の奥へ冷たい粒子が入り込んでくるようだった。
いおりは反射的に左手を押さえる。
手袋の下の六本目の指が、じわりと存在感を増していた。
(……知ってる)
ふいに、そんな感覚が胸をよぎる。
霧の流れ。密度の偏り。
どこが薄く、どこに核があるのか。
頭ではなく、指先が先に理解していく。
いおりは右手を前へかざし、流れを探るように白い靄へ触れた。
霧がわずかにほどける。
「……こっち」
自分でも驚くほど確信のある声だった。
ゆめがすぐ背後につく。
足元の石の位置まで読み取るように、いおりは迷いなく進んだ。
崩れかけた家の壁際で、ようやく人影が見えた。
一人の旅人が、膝を抱えるようにして座り込んでいる。
顔色は悪く、足元には銀色の結晶が茨みたいに絡みついていた。
「大丈夫ですか!」
いおりが駆け寄る。
旅人はかすかに顔を上げた。瞳が焦点を結ばない。
「た、すけ……」
「今、外します」
いおりが手を伸ばした、その瞬間だった。
霧の中央が、不意にを脈を打つ。
どくん、と。まるで心臓でもあるみたいに、村じゅうの白が一斉に収縮する。
次の瞬間、渦を巻いた霧がいおりを避け、その背後にいたゆめへ殺到した。
「ゆめ!」
いおりの声が裂ける。
ゆめは反射的に右手を前へ突き出した。
(……レミエル)
心臓の鼓動を指先へ集める。何度もそうしてきた。
いおりを守るたび、痛みを焼くたび、この手から光は生まれていた。
なのに。何も起きない。
手のひらにあるのは、ただの温もりだけだ。やわらかくて、無力な、ただの少女の手。
霧が視界を覆い始めた瞬間、横から強い衝撃がぶつかった。
いおりだった。
ゆめを抱き込むようにして身を投げ出し、二人まとめて地面へ転がる。
頭上を、銀色の刃がかすめて散った。
「……っ、ゆめ、大丈夫!?」
ゆめは地面に手をついたまま動けなかった。
自分の両手を見下ろす。
泥に汚れ、震えているだけの手。
光は生まれなかった。守れなかった。
その事実が、じわりと胸の底へ沈んでいく。
その時だった。
霧の圧迫感の隙間に、ふっと別の気配が混ざった。
鼻先がかすかに動く。
廃村の「寂しさ」の匂いでも、霧の冷たさでもない。
もっと深く、重く、けれど驚くほど穏やかな何かだった。
ゆめの記憶の底から、何かが滲み出してくる。
名前は出てこない。顔も出てこない。
ただ、大きな手に頭を撫でられた感触だけがあった。
日向の匂いがする膝の上に顎を預けていた時間。
守ろうと力まなくていい、ただそこにいるだけで許される、受け止められる温かさ。
いおりのそばにいる時の「守りたい」という感情とは、全く質が違った。
もっと受け身で、もっと幼く、誰かに包まれていた頃の記憶の断片。
それが何なのか、ゆめにも分からない。
でも、その温かさのおかげで、震えが少しだけ止まった。
「下がってて」
いおりの低い声がする。
ゆめを背後へかばい、霧に向き直る。
その動きに迷いはない。
村で笑っていた少女ではなく、もっと別の場所で、別のやり方で生き延びてきた誰かの身体だった。
いおりは右手を霧の中心へ差し込んだ。
流れを押し返すのではなく、見えない糸を探るように、密度の偏りへ指先を滑らせる。
どこを解けば崩れるのか、身体が知っている。
白い渦の一角が歪んだ。
いおりはそこへ踏み込み、左手で旅人を庇いながら、右手で霧の核を掴むように握り込む。
耳の奥で、きん、と細い悲鳴が鳴った。
次の瞬間、霧が弾ける。
砕けた銀色の粒子が、雪のようにほどけて宙へ散っていった。
◇
圧迫感が、すっと消えた。
旅人が激しく咳き込み、足元の結晶がぼろぼろと崩れ落ちる。
「……助かった、のか……?」
「はい。もう大丈夫です」
いおりはできるだけ穏やかな声で言い、旅人の肩を支えた。
その横顔は、焚き火のそばで見せるものより、ずっと鋭く、大人びて見えた。
ゆめはしばらく立ち上がれなかった。
まだ胸の奥が冷たい。自分の右手に視線を落とし、それを左手でそっと隠す。
助けられたのは旅人だけではない。
さっき、守られたのは自分だ。
その事実が、痛いほどはっきり胸に残っていた。
二人は旅人を霧の外まで連れ出し、水を飲ませ、呼吸が落ち着くのを待った。
幸い近くの分かれ道に、人の行き来がまだあることを旅人は知っていた。
そこまでなら歩けると言うので、休ませながら送り出す。
旅人が何度も礼を言って去ったあと、廃村にはまた静けさが戻った。
けれど、さっきまでの静けさとは違う。
何かが去ったあとの静けさだった。
いおりは崩れた民家のそばで足を止めた。
「……ゆめ。これ、見て」
呼ばれて近づく。
家の壁の陰、小さな石で囲まれた跡があった。
焚き火の跡だ。炭になった枝が灰の中に形を残している。
しかも、そんなに古くない。
周囲の地面だけが、不自然に平らで、何度も同じ場所に座っていたみたいに踏み固められていた。
「誰か、ここにいた……?」
いおりの声が自然と小さくなる。
ゆめはしゃがみこみ、鼻先をひくつかせた。
炭の匂い。乾いた布。
長く人が座っていた土のにおい。
そして、その奥に、かすかに残る別の気配。
それは、さっき霧の中で一瞬だけ感じたものと同じだった。
寂しさではない。怒りでもない。
もっと深くて、もっと古いのに、驚くほど穏やかなもの。
名前も顔も思い出せない。
けれど、身体だけがその気配を知っていた。
(……知ってる)
どこで知ったのかは分からない。
それでも、知っているとしか思えなかった。
「ゆめ?」
いおりが心配そうに覗き込む。
「……ううん。なんでもない」
ゆめは首を振って立ち上がる。
けれど、自分の右手はまだ左手の中に隠したままだった。
ここには、誰かがいた。
長いあいだ、一人で。
そしてたぶん、ただここで怯えていただけじゃない。
守っていたのだ。
この場所を。あるいは、ここを通る何かを。
そんな気がした。
◇
その夜、二人は廃村から少し離れた場所で火を熾した。
焚き火の明かりが、岩肌を赤く染めている。
風は相変わらず北西から吹いていたが、昼間ほど刺すようではない。
いおりは火を見つめながら、何度か無意識に右手を開いたり閉じたりしていた。
霧に触れた感覚が、まだ指先に残っているのだろう。
あの処理のしかたを、自分はどこで覚えたのか。
誰と、何度、同じことをしてきたのか。
問いたいことは山ほどあるはずなのに、不思議と今は胸の内が静かだった。
分からないことがあるのではなく、分からないことへ近づいている実感があるからかもしれない。
向かいでは、ゆめがじっと炎を見ていた。
「ゆめ」
「なに?」
「今日は、ごめん。急に入って」
ゆめは目を瞬かせた。
「……どうして、いおりが謝るの」
「ゆめの言う通り、あの霧は見た目より危なかった。私、誰かがいると思ったら、周りが見えなくなってた」
いおりは苦く笑う。
「また、無茶してたかもしれない」
しばらく沈黙があった。
火の中で薪がはぜる。
ゆめは視線を落とし、自分の膝の上で指先を握りしめた。
言いたいことが喉元まで上がる。
自分はもう、前みたいに守れない。
光は出ない。あの時、何もできなかった。
でも、その言葉は最後まで形にならなかった。
代わりに、ゆめは静かに言った。
「……それでも、助けに行ってよかったと私は思う」
いおりが顔を上げる。
「いおりは、そういう時に立ち止まれない人だよ」
「それ、褒めてる?」
「半分だけ」
ほんの少し、二人の間に笑いが落ちた。
けれど、ゆめの胸の奥のざわめきは消えない。
いおりにはまだ言えない。
光を失った自分はもう"守る側"ではいられないのではないか。
そして、あの温かさのことも。霧の中で一瞬だけ感じた、名前のない気配。
いおりへの「守りたい」とは全く違う、受け止められる感覚。
それが何なのかを、ゆめはまだ言葉にできない。
もっと幼く、もっと受け身で、誰かに包まれていた記憶の断片だった。
北西の風が、焚き火の煙をさらっていく。
その煙の向こう、闇の奥に、誰かの視線がある気がした。
敵意ではない。
けれど無関心でもない。
見定めるような、静かな眼差し。
ゆめはそっと顔を上げ、北西を見た。
暗闇の向こうに何かがいる。そんな予感だけが、はっきり胸を打つ。
そして、その予感に応えるように。
どこか遠くで、金属がかすかに鳴った。
澄んでいて、冷たい、銀色の音。
いおりも同時に顔を上げる。
「……今の」
「うん」
二人は言葉を失ったまま、闇の向こうを見つめた。
火は小さい。夜は深い。
けれど、そのさらに先で、何かが確かに自分たちを待っている。
誰かの気配がした。
それは脅威のようでいて、どこかひどく静かで、懐かしかった。
第一章:第五話「誰かの気配」――完
第三作『銀色の旅路』は完結編です。
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、第一作『銀色の結晶』、第二作『銀色の産声』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/
■銀色の産声――人願で綴る、明日のための戦記。
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