第四話「旅立ちの朝」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおり
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【02】ゆめ
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【03】ななみ・リリカ
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【04】ユウリ・セシリア
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【05】ステラ
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【06】リナ・ミナ
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【07】レイナ
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【08】カレン
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「……本当に、行っちゃうんだね」
八百屋のおばさんが、目尻を少し下げて言った。
村の入り口には、朝の光が斜めに差していた。
長く伸びた影が土の道を横切り、吐く息はかすかに白い。
いおりの背には、昨日まとめた革のリュックサック。
肩にかかる重みは軽くないのに、不思議と足元はよく定まっていた。
「はい。……少し、確かめたいことができたので」
いおりはそう答えて、丁寧に頭を下げた。
左手には、いつもの白いレースの手袋。
その下にある六本目の指は、今朝も冷たい。
けれどもう、その冷たさを嫌だとは思わなかった。
怖いだけの異形ではない。
これはきっと、自分が何かを守ろうとした痕跡だ。
「また、帰ってくるんでしょう?」
おばさんの問いに、いおりは一瞬だけ口を閉ざした。
記憶はない。
この村で過ごした時間も、人生全体から見ればきっと短い。
それでも、朝になると漂ってくる煮えた野菜の匂いも、床板のきしむ音も、広場で笑う子どもたちの声も、もう確かに自分の中へ積もっていた。
空白の上に、新しい時間が地層のように重なっている。
「はい」
いおりは、今度は迷わず言った。
「……また、帰ってきます!」
おばさんはゆっくり頷くと、手にしていた包みをいおりへ押しつけた。
「じゃあ、これを持っていきなさい。お腹を空かせちゃダメだよ」
竹の皮に包まれたそれは、まだほんのり温かかった。
ずしりとした重みが、掌にやさしく収まる。
「ありがとうございます」
「ゆめちゃんも、いおりちゃんをよろしくね」
「はい、任せてください!」
隣で、ゆめが少しだけ胸を張る。
「……私が、ちゃんと食べさせるから」
銀色の髪が、朝の風にさらさらと揺れた。
足元には、彼女の小さな荷物がきちんとまとめられている。
その時、広場のほうからぱたぱたと足音が近づいてきた。
昨日、ゆめの髪に花を差した女の子が、息を弾ませて駆け寄ってくる。
「ゆめちゃん、これ……持っていって」
差し出されたのは、小さな布にはさんだ押し花だった。
黄色い、名もない野花。昨日、銀色の髪に灯っていた色の名残。
「……ありがとう」
ゆめはしゃがみこみ、目線を合わせて微笑んだ。
「大切にするね」
その笑顔は無垢で、まっすぐで、見ているだけで胸の奥が少し温かくなる。
いおりは、その横顔を見てほんの少しだけ息をついた。
ちゃんと、帰ってこよう。
その思いが、言葉になるより先に胸の奥で形を持つ。
二人はゆっくり歩き出した。
井戸のそばを通る。
干し場のある家の前を通る。
朝の光を受けた石壁、見慣れた屋根、何度も歩いた細い道。
いおりは、そのひとつひとつを目に焼きつけるように見た。
記憶を失った自分にとって、風景はただ流れていくものだった。
けれど今は違う。
失くしたくないものとして、一つずつ輪郭を持ちはじめている。
村の境界を越えたところで、いおりはふと足を止めた。
振り返る。
朝靄の向こうに、村の屋根が小さく並んでいる。
(……帰る場所)
音にはならないまま、唇だけがその言葉をなぞった。
自分がどこで生まれ、誰に名を呼ばれてきたのかは分からない。
けれど、今は分かる。
ここは、戻りたいと思える場所だ。
こんなふうに、戻りたいと思える場所ができたのは、初めてかもしれない。
それは、記憶のあるなしとは別のところで、確かに胸へ根を張る感覚だった。
いおりはそっと左手を胸に当てる。手袋の下の硬い指先が、心臓の鼓動を冷たく、確かに伝えてきた。
「いおり」
ゆめが静かに呼ぶ。
「……いこう」
差し出された手のひらは驚くほど温かかった。
「うん。……いこう、ゆめ」
二人は前を向いた。
北西から吹いてくる風は冷たい。
冬の気配を含んだその風の向こうに、自分の過去がある。
夢に見た銀色の大剣があり、孤独な誰かの背中がある。
それでも、もう迷いはなかった。
土を踏む音が、朝の静けさに規則正しく重なっていく。
◇
日が落ちる頃には、風は朝よりずっと鋭くなっていた。
二人は街道を少し外れた場所で足を止めた。
背の高い岩が風よけになっている。
近くには枯れ枝も落ちていて、夜を越すには悪くない場所だった。
いおりは荷物を下ろすと、ほとんど考える間もなく動き始めた。
枝を選び、石の位置を見て、風の流れを読む。
火打ち石を打つ角度も、火種へ息を吹き込む加減も、最初から知っていたみたいに迷いがない。
ぱち、と小さな火花が散る。
やがて乾いた草が赤く染まり、細い煙が立った。
「……ついた」
いおりは呟いて、火を囲むように石を並べ直した。
風を逃がし、熱を留める順番まで、身体が覚えている。
この荒れた土地でどう夜を越すか。
それを自分は、何度も繰り返してきたのだろう。
そう思っても、もう朝ほどは動揺しなかった。
知らないことより、身体が覚えていることのほうを信じてみようと、出発の時に決めたからだ。
「……いおり。これ、温めよう」
ゆめがリュックから、竹の皮に包まれたものを取り出した。
おばさんが持たせてくれた包みだ。
紐を解くと、中には白く丸い肉まんが二つ並んでいた。
「わあ……」
いおりの声が、少しだけ弾む。
「まだ、ほんのり温かい」
「火のそばに置いたら、もっとふわふわになるよ」
ゆめは平たい石を火の近くへ寄せ、その上に肉まんを並べた。
しばらくすると、小麦の甘い匂いがふわりと立ちのぼり、続いて中の具の香ばしい匂いが混じりはじめる。
その瞬間、いおりの胸の奥がきゅっと鳴った。
「……ゆめ。私、この匂い」
懐かしい。
そう言い切るには曖昧なのに、心のほうが先に反応している。
ゆめは焚き火越しに、やわらかく目を細めた。
かつて、記憶を失ったばかりのいおりと、「今度一緒に食べよう」と指切りをした、あの日の約束。
たとえ言葉としての約束を忘れていても、それを望んだ時の「心」だけは、匂いに誘われていおりの元へ帰ってきたようだった。
「うん。覚えてなくても、きっと心は知ってるんだと思う」
その言い方が、責めるでもなく、押しつけるでもなく、ただ静かで、いおりは少しだけ救われる。
「はい。半分こ」
温まった肉まんを、ゆめが器用に二つに割る。
白い湯気が立ちのぼり、夜の闇にほどけていった。
いおりはそれを受け取り、一口かじる。
「……おいしい」
熱が舌に触れ、喉を通り、胃のあたりへ落ちていく。
素朴で、やさしくて、泣きたくなるほど温かい味だった。
「すごく、温かい」
「当然だよ」
ゆめは小さく笑った。
「おばさんが、一生懸命作ってくれたんだから」
焚き火の向こうには、もう村の灯りは見えない。
けれど、口の中に残る味だけで、自分たちがどこから来たのか分かる気がした。
いおりは肉まんを持ったまま、暗い北西の空を見た。
「ねえ、ゆめ」
「なに?」
「……あの剣を見つけたら、何が分かると思う?」
無意識に、左手を右手で包む。
手袋の下の六本目の指は、夜になるといっそう冷たかった。
ゆめは少しだけ考えてから答えた。
「分からない。でも」
焚き火の光が、琥珀色の瞳に揺れる。
「いおりの身体が覚えていることは、本当のことだよ」
声は小さいのに、風に負けない強さがあった。
「記憶がなくても、この指が冷たいことも、誰かを守ろうとしたことも、消えない事実。……私は、それだけでいおりを信じられる」
いおりはゆめを見た。
自分のことを、自分より知っている少女。
“当然”という言葉で何度も自分を支えてくれる存在。
その言葉があるたびに、足元のぬかるみが少しずつ固まり、歩ける道へ変わっていく気がした。
「……そうだよね」
いおりは小さく頷く。
「私も、私の身体が覚えていることを信じてみる」
そう言って、焚き火を挟んでいた距離を少し詰める。
肩が触れそうな近さに座ると、ゆめの体温が風の冷たさをやわらげてくれた。
夜は深くなっていく。
火の明かりの外側では、荒野がどこまでも暗い。
リュックの奥には、押し花がしまってある。
それだけで、見えない場所にちゃんと帰り道が残っているように思えた。
「おやすみ、ゆめ」
「おやすみ、いおり」
最後の薪が、ぱちりと小さく爆ぜる。
二人の呼吸が、静かに重なった。
北西の風はまだ吹いていた。
けれど今夜のいおりは、昨日のようにただ怯えてはいなかった。
怖くても、進むと決めた自分がいる。隣には、ゆめがいる。
目を閉じかけた、その時だった。
風の音に混じって、どこか遠くで、金属がかすかに鳴った気がした。
澄んでいて、冷たい、銀色の音。
いおりははっと目を開けた。
だが、焚き火の向こうにはただ闇が広がっているだけだ。
「……どうしたの?」
眠りかけた声で、ゆめが囁く。
「ううん。……今、何か聞こえた気がして」
そう答えながら、いおりは北西の暗がりを見つめた。
気のせいかもしれない。
けれど、胸の奥の何かは、確かにその音へ反応していた。
呼ばれている。
あの剣のほうへ。
まだ名前のない過去のほうへ。
焚き火の赤が、夜の底で小さく揺れる。
その光の届かない先で、何かが静かに待っている。
第一章:第四話「旅立ちの朝」――完
第三作『銀色の旅路』は完結編です。
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、第一作『銀色の結晶』、第二作『銀色の産声』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/
■銀色の産声――人願で綴る、明日のための戦記。
https://ncode.syosetu.com/n6938mi/
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