第三話「レミエルの記憶」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおり
https://mitemin.net/imagemanage/top/icode/1233188/
【02】ゆめ
https://mitemin.net/imagemanage/top/icode/1233190/
【03】ななみ・リリカ
https://mitemin.net/imagemanage/top/icode/1233192/
【04】ユウリ・セシリア
https://mitemin.net/imagemanage/top/icode/1233193/
【05】ステラ
https://mitemin.net/imagemanage/top/icode/1233195/
【06】リナ・ミナ
https://mitemin.net/imagemanage/top/icode/1233196/
【07】レイナ
https://mitemin.net/imagemanage/top/icode/1233197/
【08】カレン
https://mitemin.net/imagemanage/top/icode/1233199/
旅立ちの前夜は、息を吸うだけで胸の奥が痛むほど、澄みきっていた。
村の小さな家には、いおりの穏やかな寝息だけが満ちている。
ゆめは、眠るいおりの首元まで毛布をそっと引き上げ、その寝顔をしばらく見つめた。
起こさないように立ち上がり、足音を忍ばせて縁側へ出る。そして、月光の下で右手を静かにかざした。
白い掌には、何もない。
かつて戦場を照らしたあの光の粒子は、欠片ひとつ浮かばなかった。
(……やっぱり、もう出ない)
分かっていたはずの事実なのに、確認するたび、胸の底に冷たいものが沈んでいく。
旅に出る覚悟は決めた。
けれど、守るための力を失ったまま本当に隣に立てるのか――その恐れだけは、どうしても消えない。
夜気の冷たさに指先が震えた時、意識の奥で、古い記憶がゆっくりと口を開いた。
◇
最初に残っているのは、光ではなく、温もりだった。
小さなクリーム色のチワワとして生きた日々の、終わりの記憶。
世界は激しい雨に呑まれていた。視界は泥で濁り、身体は鉛みたいに重く、もう自分の足がどこにあるのかさえ分からない。
それでも鮮明だったのは、いおりの腕の中だけだった。
強く、震えながら抱きしめる両手の温かさ。
自分を呼ぶ泣き声。
行かないで、置いていかないで、と言葉にならない願いが、濡れた空気ごと胸に流れ込んでくる。
応えたかった。
まだ、そばにいたかった。
けれど、温もりは急速に遠ざかっていった。
命の糸が、指先から一本ずつ千切れていく。
耳の奥で鳴っていた雨音も、いおりの声も、自分の鼓動さえも、最後の一音を残して沈んでいく。
そして、何もかもが途切れた瞬間。
世界は、音のない漆黒へと還った。
◇
次に訪れたのは、深い暗闇だった。
重力のない海を漂っているような、冷たい宇宙の底に沈んでいるような感覚。
上も下も分からない静寂の中で、ひとつの声だけが、まっすぐに意識を貫いた。
『あなたはいおりの浄化槽として目覚めました』
硬質で、けれどどこか慈しみを含んだ声。
セシリア――かつてアムネシアを管理していたその人が、混濁するゆめの意識へ、逃れようのない事実を静かに告げていた。
『あの子のそばにいなさい。……あの子には、あなたが必要だから』
レセプター。浄化。
言葉の意味はよく分からなかった。
けれど、理由はそれで十分だった。
いおりのそばにいられる。
それだけで、暗闇に沈みかけていた意識は、もう一度浮かび上がれた。
そこで初めて、自分の手を見た。
もう、あの小さな前脚ではない。
月光みたいに白く、細く、五本の指を持つ人の手。
戸惑いより先に、その手で誰を探したいのかだけがはっきりしていた。
「……いおり」
初めて喉を震わせて出た声は、かすれて、頼りなくて、それでも確かに自分のものだった。
その声が暗闇に溶けた瞬間、新しい“ゆめ”という存在は、ようやく息を始めた。
そして、あの光が生まれたのは、いおりと再び歩き始めて、そう遠くない頃だった。
◇
アムネシアの最下層に近い地下階層。
湿った空気の中、剥き出しの配管を銀色の結晶が血管のように這い、絶えず、ぱき、ぱき、と嫌な音を立てている。
そこは生き物の体内のようでいて、熱のまるでない、冷たい戦場だった。
「いおり、危ない――!」
叫んだ時には、もう遅かった。
巨大な結晶獣の牙が、氷の刃のような鋭さでいおりの喉元へ迫っていた。
守るはずだった大剣は、ひとつ前の衝撃で遠くへ弾き飛ばされている。
死の気配が、冷たい風となってその場を支配した。
(だめ――いおり!)
考えるより先に、身体が動いた。
四本の足で地を蹴り、何度でもあの子を庇おうとした、本能の記憶が少女の身体を突き動かす。
無意識に差し出した右手。
次の瞬間、視界が真っ白に弾けた。
爆ぜるような白光。
レミエル。
それは痛みも絶望もまとめて焼き払うように、いおりの身体を包み込んだ。
迫っていた銀色の牙は跡形もなく弾かれ、結晶獣は、想定の外から生まれた純粋な“願い”の熱に貫かれて、霧のように虚空へ散っていく。
何が起きたのか分からなかった。
ゆめは息を呑み、自分の右手を見つめた。
そこには確かに、理論でも計算でも説明できない光が宿っていた。
管理者であるセシリアの緻密な計算にさえ存在しなかった、奇跡の形。
「……ゆめ」
いおりに名前を呼ばれた時、ようやく我に返った。
その声には驚きと、助かった安堵と、ゆめを失わずに済んだことへの震えが、全部混ざっていた。
その日から、ゆめは何度もその光を灯した。
いおりが傷つくたび。いおりの心が折れそうになるたび。
右手をかざし、白い光を分け与える。
光があれば、いおりは生き延びてくれる。
光があれば、いおりの笑顔を守れる。
その実感だけが、ゆめの中で少しずつ積み重なっていった。
自分がこの姿でここにいる意味。
ただ隣にいるだけではなく、守るために在るのだという確信。
その熱が、レミエルの記憶と一緒に、胸の奥へ深く刻まれていった。
◇
……気づけば、ゆめはまた月光の下で、自分の右手を見つめていた。
意識は静かな縁側へ戻っている。
そこにあるのは、何の光も宿さない、ただの少女の手だった。
指を握り、また開く。
掌に伝わるのは、いおりを想うたびに早くなる、自分の鼓動だけ。
(もう、出ない……)
今日、一人で丘に立った時に自分へ言い聞かせた言葉を、ゆめは胸の中で繰り返す。
――光があっても、なくても、いおりの隣にいることは私の当然。
その言葉に、嘘はない。
けれど、嘘がないことと、不安が消えることは違う。
光のない自分に、何ができるのか。
いおりが過酷な過去へ手を伸ばそうとする時、その隣に立つのが本当に自分でいいのか。
守れないかもしれない。
いつか、自分だけが置いていかれるかもしれない。
その恐れは、今も胸の底に残っている。
だが、その時。
ふすまの向こう、隣の寝室で、いおりが小さく寝返りを打った。
続いて聞こえてくる、規則正しく穏やかな呼吸。
その微かな気配が、ゆめの胸の奥に溜まっていた冷たい澱を、少しずつ溶かしていく。
かつては、いおりの腕の中で息絶えることが世界の終わりだった。
いまは、いおりの隣で朝を迎えることが、新しい世界の始まりになっている。
その事実だけは、光が消えても失われなかった。
ゆめはゆっくり拳を握り、そっと目を閉じた。
誰かを安心させるためでもない。
誰かに誇るためでもない。
ただ、自分が逃げないためだけの、静かな誓いとして。
「……当然だよ」
零れた声は小さく、夜の空気に溶けていく。
それでも、その言葉は消えなかった。
胸のいちばん深い場所に、約束として残った。
◇
朝が来れば、二人は村を出る。
失った光の代わりに、手の中へ残った確かな体温を抱えたまま。
守る力の形が変わってしまっても、それでも隣に立つと決めたまま。
まだ見えない過去へ、まだ終わらない記憶へ。
ゆめは、いおりと一緒に歩き出す。
第一章:第三話「レミエルの記憶」――完
第三作『銀色の旅路』は完結編です。
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、第一作『銀色の結晶』、第二作『銀色の産声』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/
■銀色の産声――人願で綴る、明日のための戦記。
https://ncode.syosetu.com/n6938mi/
■専用Xアカウント
https://x.com/gin_no_sakura_y?s=21




