第二話「ゆめの葛藤」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおり
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【02】ゆめ
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【03】ななみ・リリカ
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【04】ユウリ・セシリア
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【05】ステラ
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【06】リナ・ミナ
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【07】レイナ
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【08】カレン
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夜明け前の静けさの中で、いおりは左手の手袋を外した。
白いレースがするりと落ちる。
薄青い闇にさらされた左手には、やはり六本目の指があった。
「……やっぱり、冷たい」
独り言は、眠った家の空気に小さく溶けた。
その指は、肉ではなかった。
他の五本よりわずかに青みがかり、石とも骨とも違う、結晶めいた硬さを帯びている。
右手の指先でなぞると、感覚はある。
だがそれは皮膚に触れる温度ではなく、磨かれた鉱物の表面を確かめるような、ひどく静かな手応えだった。
思い出せない。
いつからこうなったのか。
何を代償にして、この指を得たのか。
昨夜の夢が脳裏をよぎる。
鈍い銀色の大剣。
その傍らに立つ、顔の見えない孤独な背中。
そして、夢の縁から滲み出してきた、名を持つ前の災厄のような冷たいもの。
あれは夢では終わらない。
そんな確信だけが、目覚めたあとも胸の奥に残っていた。
隣のベッドでは、ゆめがまだ眠っている。
銀色の髪が薄明の気配を吸い、枕の上にやわらかく広がっていた。
ゆめがいれば、いおりは生きていけた。
記憶がなくても、この村で名前を呼ばれ、食事をして、眠って、朝を迎えることができた。
ゆめは、いおりの空白に形を与えてくれる存在だった。
けれど、だからこそ思う。
このまま何も知らないままではいられない。
いおりは六本目の指をそっと握った。
痛みはない。あるのは、確かな重みだけだ。
まるでこの指だけが、いおりの失った過去とまだ繋がっているみたいだった。
「……おはよう、いおり」
不意に声がして、いおりは顔を上げた。
ゆめが上半身を起こし、こちらを見ていた。
琥珀色の瞳は、まだ眠気を残しているのに、いおりのわずかな動揺だけは見逃さない。
「おはよう、ゆめ。……起こしちゃった?」
「ううん」
ゆめは小さく首を振った。
「いおりの匂いが、少しだけ変わったから。……冷たい雨の匂いがした」
そう言って、ゆめはベッドを降り、いおりの隣に腰を下ろした。
視線が、手袋を外した左手に落ちる。
けれど、驚きも嫌悪もなかった。
ただ、いつものように静かにその異形を受け入れて、温かな手を重ねてくる。
その温度に触れた瞬間、いおりの胸の奥で張っていたものが少しだけ緩んだ。
「ゆめ。私……行きたい場所があるの」
ゆめは何も言わず、続きを待った。
いおりは昨夜の夢を話した。
銀色の大剣のこと。
その傍らにいた孤独な誰かのこと。
そして、北西の方角から、自分を呼ぶような感覚があること。
地名は分からない。距離も分からない。
なのに確信だけがある。
「そこに行けば、この指のことが分かるかもしれない」
ゆめは黙って聞いていた。
否定もしない。すぐに励ましもしない。
ただ、いおりの言葉ひとつひとつを、匂いまで確かめるように慎重に受け止めている。
「方角だけは分かる気がするの。……北西。あっちに、私の“何か”がある」
「北西……」
「夢の中で、誰かが泣いている声がするんだ。何度も同じ場所に立って、同じ声を聞く。その声の正体を知りたい」
ゆめは窓の外を見た。
夜と朝の境目がまだ曖昧な地平線の向こう。
鼻先がわずかに震える。
しばらくの沈黙のあと、ゆめは静かに言った。
「……分かった。今日は、村の周りを少し歩こう」
「うん」
「いおりが何を感じるのか、もう少しだけ教えて」
声は穏やかだった。
けれど、その奥にあるものまでは、いおりには読み切れなかった。
◇
昼を過ぎる頃には、北西から吹く風がはっきりと冷たくなっていた。
村の周りを歩くあいだ、いおりは何度か足を止めた。
森の切れ目。丘の向こう。
乾いた草の匂いが混じる風の通り道。
そうした場所に立つたび、胸の奥の何かがかすかに脈打つ。
呼ばれているような、試されているような、不思議な感覚だった。
そのたびにゆめは何も言わず、いおりの隣に立っていた。
問い詰めも、慰めもせず、ただ一緒に風の向こうを見つめる。
家へ戻って簡単な昼食をとったあと、ゆめは「少し風に当たりたい」とだけ告げて、一人で村はずれの丘へ向かった。
いおりは素直に頷いた。
その頷き方が、少し前までのいおりとは違って見えた。
誰かの顔色をうかがうのではなく、自分で納得して受け入れる人の動きだった。
それが嬉しいはずなのに、ゆめの胸の奥はひどく冷えていた。
丘の上は、村よりずっと風が強い。
乾いた草が波打ち、北西の空には薄い銀色の雲が長く棚引いていた。
ゆめは立ち止まり、自分の右手を見つめた。
(……レミエル)
心の中でその名を呼ぶ。
かつてこの手のひらから生まれた、小さな光の玉。
いおりを守るための光。
道を照らし、痛みを喰らい、暗がりから引きずり出されるものすべてを焼き払ってきた力。
あの頃のゆめは、まだ人ではなかった。
いおりのそばに寄り添う、けれど守るための力だけは確かに持っていた。
実体を持たなかった自分が、人の姿を得た。
いおりと同じ目線で並んで歩けるようになった。
その代わりに、光は失われた。
分かっている。何度確かめても結果は同じだと。
それでもゆめは右手に意識を集めた。
鼓動を指先へ送るように、祈るように拳を握る。
何も起きない。
沈黙だけが、手のひらに残った。
そこにあるのはただの少女の手だ。
やわらかくて、温かくて、無力な手。
(もう、出ないんだ)
知っていたはずの事実が、あらためて胸の底へ沈む。
いおりは北西へ行こうとしている。
記憶を失った原因へ。
夢の中で触れた何かへ。
そしてたぶん、アムネシアの影――ハザードレイヤーの気配が濃くなる場所へ。
あの“冷たいもの”が本当に動き出しているのなら、旅の先で何も起きないはずがない。
なのに自分には、もう光がない。
「……いおり」
名前を呼ぶ声は、風にさらわれて消えた。
守れないかもしれない。
その恐怖は、ゆめの足元に見えない泥となってまとわりつく。
いおりが強くなっていくことは、望んでいたことのはずだった。
自分のために笑って、自分の足で立って、自分で道を選べるようになることを、誰より願っていた。
けれど、いざその時が来ると、ゆめは思ってしまう。
強くなったいおりの隣に、今の自分は立てるのだろうかと。
光を失った自分は、もう“守る側”ではいられないのではないかと。
◇
丘を下りて家へ戻ると、いおりはすでに準備を始めていた。
居間のテーブルには、古い革のリュックサックが開かれている。
水筒、保存のきく乾パン、包帯、火打ち石、替えの靴下。
棚の奥に眠っていた品々が、迷いなく並べられていた。
「……早いね、いおり」
声をかけると、いおりは顔を上げて笑った。
「なんだか、手が勝手に動くの。不思議だよね」
そう言いながら、いおりは紐を締める。
重心が偏らない位置に荷物を詰め、歩いたときに音が鳴らないよう布を噛ませる。
水筒の位置まで、身体の癖で決めているとしか思えない手際だった。
記憶はないはずなのに。
指先だけが知っている。
軍用ナイフを鞘に収める角度。
長時間歩いても足を傷めにくい靴紐の締め方。
すぐ取り出すものと、奥にしまうものの順番。
それらは、この村で穏やかに暮らす娘が身につける知識ではなかった。
もっと過酷な場所で、何度も生き延びるために叩き込まれた“正解”だ。
ゆめは黙ってその様子を見つめた。
鼻先をひくつかせる。
部屋にあるのは、革の匂い。
乾いた布の匂い。金属の匂い。
そして、いおりの身体から立ち上る、細く鋭い決意の匂い。
「……いおり。本当に、行くんだね」
「うん」
いおりは迷いなく頷いた。
「行かなきゃいけない気がするの。私を呼んでる何かが、あの方角にあるから」
窓の向こう、北西の空を見上げる瞳は澄んでいた。
村へ来てからのどの瞬間よりも、強く、まっすぐに。
(強い……)
ゆめは胸の奥がちりりと痛むのを感じた。
その強さは喜ぶべきものだ。
なのに同時に、自分との断絶を照らし出してしまう。
ゆめは背中の後ろで右手をぎゅっと握った。
手袋越しに伝わるのは、ただの体温だけだ。
かつてならこの温もりが光に変わり、いおりに降りかかる痛みを焼いていた。
けれど今の手にできるのは、髪を梳かすことと、鍋を持つことと、こうして震えを隠すことくらいだった。
「ゆめ?」
いおりが不思議そうに覗き込んでくる。
「どうしたの、立ったままで」
その眼差しに、もう昔のような“守られる側”の甘えはない。
対等な相手として、ゆめの顔色をうかがっている。
それが少しだけ眩しくて、少しだけ苦しかった。
「……何でもないよ。荷物の重さが気になっただけ」
とっさに、ゆめは嘘をついた。
いおりを安心させるための嘘。
それはきっと、昔から変わらない。
痛みを代わりに食べていた頃も、こうして不安を胸の内に隠していた。
「いおりの身体はまだ小さいんだから、無理しちゃダメ」
ゆめは努めていつもの声を作る。
「……私が、半分持ってあげる。一緒に行くよ!」
いおりは少し目を丸くして、それから柔らかく笑った。
「ありがとう、ゆめ。頼りにしてるね」
その言葉が、ゆめの胸に静かに刺さった。
頼りにしてる。
嬉しいはずなのに、今は鎖のように重い。
もし旅の途中で、ハザードレイヤーが現れたら。
もし北西の闇から、いおりを傷つける何かが這い出してきたら。
(私は、どうやっていおりを守ればいいの?)
ゆめは視線を落とした。
床に伸びる自分の影が、夕暮れの光の中で細く揺れる。
かつては形を持たず、いおりの記憶の中にだけいた自分。
いまはこうして実体を持ち、一人の少女として息をしている。
もし、その代償が“守るための光”を失うことだったのなら。
自分は何を選んだのだろう。
いおりの隣に立つことを願った、その願いは間違いだったのだろうか。
答えは出ない。
けれど、出ないままでも一つだけ確かなことがある。
「……当然だよ」
ゆめは、自分に言い聞かせるように小さく呟いた。
「いおりの隣にいることは、私の当然。……光があっても、なくても」
声はかすかで、いおりには届かなかった。
外で、夕暮れを告げる鐘が鳴る。
低く長い音が村全体に広がっていき、家々の屋根と空のあいだに沈んでいく。
明日の朝には、二人はこの家を出る。
この村の匂いも、穏やかな食卓も、朝の鳥の声も、いったん背にして進まなければならない。
いおりは黙々と荷物をまとめている。
ゆめはその横顔を見つめた。
思い出せない過去へ向かう顔。
それでも前を向こうとする顔。
その横に立つと決めたのは、自分だ。
守れるかどうかは、もう分からない。
光はない。昔のようにはできない。
それでも、たとえ無力でも、置いていかれるほうがずっと怖かった。
ゆめはそっと、握りしめていた右手を開いた。
空っぽの掌。
何も生まれない手。
それでも、いおりの手を取ることだけはできる。
「……明日、早く出よう」
ゆめが言うと、いおりは振り向いた。
「うん」
「北西の風が強くなる前に、村を抜けたい」
「分かった」
短い返事だった。
けれど、その一言だけで、もう後戻りはできないのだと知れる。
夕闇が部屋の奥から満ちてくる。
ランプに火を入れる前の、世界がいちばん曖昧になる時間。
その曖昧さの中で、ゆめは思った。
明日から先、いおりが取り戻していくのは、記憶だけではないのかもしれない。
剣を握る手。戦うための勘。失ったはずの強さ。
そして、北西で待つ何か。
ならば自分も、変わらなければならない。
光を失ったままでも、隣に立てる自分へ。
鐘の余韻が消える頃、村は静かな夜に沈み始めていた。
その夜が明ければ、二人は旅に出る。
いおりはまだ知らない。
ゆめもまた、同じだけ怖がっていることを。
そしてゆめ自身も、まだ知らない。
北西で試されるのが、いおりの過去だけではなく、
“守れない自分でも隣にいていいのか”という、自分の願いそのものなのだということを。
第一章:第二話「ゆめの葛藤」――完
第三作『銀色の旅路』は完結編です。
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、第一作『銀色の結晶』、第二作『銀色の産声』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/
■銀色の産声――人願で綴る、明日のための戦記。
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