第二話「セシリアとカレン」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおり
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【02】ゆめ
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【03】ななみ・リリカ
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【04】ユウリ・セシリア
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【05】ステラ
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【06】リナ・ミナ
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【07】レイナ
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【08】カレン
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◇ ――ステラが生まれた頃
すずの記録帳には、その日に限って、ひどく穏やかな色の波形が浮かんでいた。
「対象記録――セシリアとカレン。最初の交点。記録者、すず。協力者、もか」
資料室の片隅で、もかが袋から干し林檎をひとつ取り出し、前歯で小さく齧る。
甘酸っぱい香りが、乾いた空気の中へじんわりと広がった。
「カレンさん、この頃はまだ十四歳だったんだね。……今の廃墟にいる時とは、全然ちがう匂いがする。石鹸と、お日様の匂い」
すずは眼鏡の位置を整え、静かに頁をめくった。
「はい。アムネシアがまだ壊れる前、あそこには確かに、ただの少女と、ただの母親として過ごせる時間がありました。――それでは、始めます」
◇
街の喧騒から少し離れた場所にある託児所「ひだまりの家」は、その名の通り、午後の光が床を柔らかな黄金色に染める場所だった。
当時十四歳だったカレンは、学校が終わるとまっすぐここへ向かうのが日課になっていた。
幼い頃、自分も預けられていたこの場所が好きだったし、園長の手伝いをしながら子どもたちに囲まれて過ごす時間は、彼女にとって何より息のしやすい時間だった。
洗い立てのシーツを中庭に干していると、石鹸の匂いと、走り回る園児たちの熱を含んだ風が頬を撫でる。
「カレンちゃん、今日も来てくれたのね。助かるわ」
「いいえ。私が来たいだけですから」
控えめに笑いながら籠を置く。
小さな命の世話をしていると、父がよく語る「人々の痛みをなくす」という理想に、自分も少しだけ触れられている気がした。
難しい言葉の意味はまだよく分からなくても、泣いていた子が笑うこと、眠れなかった子が安心して目を閉じることの尊さなら、カレンにも分かった。
そんな午後だった。
託児所の扉が静かに開き、一人の女性が姿を現した。
白いコートを羽織り、背筋を凛と伸ばしたその人――セシリアは、アムネシアの若き技術者として知られていた。腕の中には、生後間もない赤ん坊が、幾重にも重ねた柔らかな産着に包まれて眠っている。
「……すみません。少しの間、この子をお願いできますか」
落ち着いた声だった。
けれど、その奥には拭いきれない疲労と、我が子を預けて仕事に戻らねばならない母親の、かすかな痛みが滲んでいた。
「もちろんです。……ステラちゃん、ですね」
カレンが両腕を差し出すと、セシリアは壊れものを手渡すように慎重に赤ん坊を託した。
腕に伝わる体温は、驚くほど高く、力強かった。
まだ病の影などどこにもない、ただ生きていることそのものが眩しい鼓動。
「ありがとうございます。調整作業が長引いてしまって……夕方には、必ず迎えに来ます」
そう言って背を向けかけたセシリアは、揺り籠に寝かされたステラの顔をもう一度見て、ほんの一瞬だけ唇を噛んだ。
その迷いを見た時、カレンはこの人がただ忙しい技術者なのではなく、今もずっと、母親であろうとしているのだと知った。
「大丈夫です。ちゃんと見ています」
その一言に、セシリアはわずかに目を伏せた。
「……お願いします」
短く礼をして、彼女は足早に去っていく。
白いコートの裾だけが、夕方の光の中で少し寂しそうに揺れた。
扉が閉まったあと、カレンは揺り籠の傍らに腰を下ろした。
ステラは眠りながら、小さな指をかすかに動かしている。
何かを掴もうとしているような、あまりに無防備な仕草だった。
「ステラちゃん。お母さん、すぐ戻ってくるからね」
カレンは小さな掌を指先でそっとなぞり、気づけば歌を口ずさんでいた。
それは家族に伝わる、静かで穏やかな旋律だった。
幼い頃、眠れない夜に父がよく歌ってくれたものだ。
「――ねんね、ステラ。大丈夫。……守ってあげるからね」
声は陽だまりの中に溶け、託児所全体をやさしく包み込む。
ステラは目を覚ますことなく、けれど安心したように小さく息を吐いた。
数時間後。
約束通り戻ってきたセシリアは、扉の隙間からその歌を耳にした瞬間、足を止めた。
仕事の緊張で固まっていた心が、指先からほどけていくようだった。
中では、揺り籠のそばでカレンが静かに歌い、ステラは何も知らない顔で眠っている。
その光景を壊したくなくて、セシリアはしばらく声をかけられなかった。
「……その歌、心が安らぎますね」
ようやく零れた声に、カレンは少し照れたように歌を止める。
「家族の歌なんです。私が眠れない時、父がいつも歌ってくれて」
「そう……」
セシリアは揺り籠の中の娘を見つめた。
「とても優しい響きですね」
そう言ってステラを抱き上げると、その小さな耳元で、今聞いたばかりの旋律を不器用に辿るように、そっと鼻歌にした。
「ステラ、よかったわね。こんなに素敵な歌を聴かせてもらえて」
その横顔には、後に管理者として纏う冷たい仮面はまだない。
ただ、娘の未来を信じたいと願う、一人の母親の顔だけがあった。
カレンは、その親子が夕暮れの中を帰っていく背中を見送った。
長く伸びた二つの影は寄り添い、抱かれた小さな命は、まだ何の不安も知らない。
どうか、この歌があの子を守りますように。
どうか、あの人がもう、あんな顔で唇を噛まなくてすみますように。
そう願った時にはまだ知らなかった。
この旋律が、守るための祈りであると同時に、失われたものを呼び戻そうとする痛みの始まりにもなることを。
それが二人と、一本の歌の、静かな最初の交点だった。
◇ ――ステラが結晶病を患っていた頃
もかが袋の中から最後の干し林檎を取り出し、名残惜しそうに唇へ当てた。
「……匂いが変わった。さっきまでの石鹸の匂いが消えて、鼻の奥がつんとする。冷たくて、重い、銀色の匂い」
すずは記録帳の縁を指先でなぞり、静かに頷く。
「はい。ステラが結晶病を発症し、アムネシアが『病室』から『管理施設』へと変わり始めた頃です。二人が再会したのは、嵐の直前のような時間でした。――それでは、続けます」
◇
空は厚い鉛色の雲に覆われ、地平線さえ灰色に溶けていた。
アムネシアの外縁部。
かつて父が「誰も怯えずに眠れる場所」にすると語ったその場所は、今や冷気と銀色の粒子に侵された荒野へ変わっていた。
二十代半ばになったカレンは、ひとり岩場に立ち、地を這うように滲む銀色の澱みを見つめていた。
それは通常のハザードレイヤーよりも重く、粘りつくように地中から滲み出している。
(お父さんは……本当に、これを作りたかったのかな)
彼女の胸にあるのは、幼い日に父の膝の上で聞いた「誰もが怯えずに眠れる場所」という穏やかな言葉だけだ。
目の前の禍々しい銀色と、記憶の中の温かな声。
そのあまりの距離に、彼女は名状しがたい不安を覚えていた。
「何を調べているのですか」
背後から落ちてきた声に、カレンは振り返った。
そこに立っていたのは、漆黒の軍服を隙なく着こなしたセシリアだった。
あの日、赤ん坊を抱いていた母親の面影は、今の彼女にはほとんど残っていない。
背筋は張り詰め、瞳は鋭く、近づく者を拒む硬さを宿している。
けれど、その右手は無意識のうちに左手首を強く押さえていた。
冷徹さより先に目につくのは、逃げ場のない疲弊だった。
カレンは一瞬、その威圧に言葉を失いかける。
それでも彼女の纏う「葬礼の百合」の香りの奥に、かすかな石鹸の記憶を見つけた瞬間、胸の奥で何かが結びついた。
「……あの時の方、ですよね。託児所で、ステラちゃんを預けに来た」
セシリアの眉が、ごくわずかに揺れた。
「……そうです」
それだけだった。
認めはしても、そこから先へは踏み込ませない。
そう告げるような、短い肯定。
それでもカレンは、訊かずにはいられなかった。
「ステラちゃんは……元気ですか」
その瞬間、空気が凍った。
セシリアは答えない。
答えられないのだ。
アムネシアの深部で、銀色の結晶に蝕まれ、長い時間を病床の上で過ごす娘。
それを救うために禁忌へ足を踏み入れ、母であることと技術者であることの境界を削り続けてきた日々。
沈黙が、風の音より重く二人の間に横たわる。
やがてセシリアは、唇を引き結んだまま口を開いた。
「……気をつけてください」
それは管理者の命令ではなかった。
むしろ、自分自身へ向けた警告に近かった。
「ここは、一人で向き合っていい場所ではありません。これ以上深入りすれば、あなたも、この重さに押し潰されます」
カレンはその声の底に、自分を追い返したいのではなく、これ以上同じものを背負う人間を増やしたくないという痛みを聞いた。
「分かっています」
そう答えながらも、カレンは目を逸らさない。
「でも、私しか知らないことがある気がするんです。……調べなければ、きっと後悔する」
「後悔で済むと思っているのですか」
セシリアの声が、初めてわずかに揺れた。
鋭さの奥で、別の感情が軋んでいた。
「好奇心で近づけば、戻れなくなる。何かを知るたび、知らなかった頃には戻れない。あなたはまだ――」
言いかけて、セシリアは止まる。
まだ何だと言いたかったのか、自分でも言葉にできなかったのかもしれない。
まだ若い、まだ引き返せる、まだ壊れきっていない――そのどれを口にしても、今の自分には刃のように返ってくると知っていた。
カレンは小さく息を吸った。
「それでも、行かなきゃいけないんです」
声は震えていない。けれど強さだけでもなかった。
恐れているからこそ、立ち止まれない者の声だった。
「お父さんが何を残したのか、何を間違えたのか……知りたいんです。知らないまま、見なかったことにしたくない」
その瞳に宿る執着を見て、セシリアはようやく理解した。
止められない。
目の前の少女は、好奇心でここに来たのではない。
失われたものの根に触れなければ、自分自身が立っていられないところまで来ている。
それは、かつて自分がステラのために踏み越えた線と、よく似ていた。
「……好きになさい」
吐き出すような声だった。
「それしか道がないというのなら」
言葉は突き放しているのに、その眼差しだけがほんの一瞬、悲鳴のようにやわらぐ。
止められなかったのは冷たいからではない。
同じ絶望の形を知っているからこそ、止める資格がないと分かってしまったからだ。
セシリアは踵を返し、軍靴の硬い音を残して去っていく。
その背中は真っ直ぐだった。
けれどそれは強さではなく、崩れれば二度と立てない者だけが保てる、痛々しい均衡にも見えた。
カレンは、その姿が灰色の向こうへ消えるまで見送った。
託児所で聞いた、あの穏やかな家族の歌。
あの時、娘の耳元へ確かに歌を返していた母親の声。
それが今は、この荒野を吹き抜ける風のどこにも残っていない気がして、たまらなく悲しかった。
守りたかったはずのものが、人をここまで変えてしまうのなら。
それでもなお、人は守ろうとしてしまうのなら。
自分もまた、その場所へ歩き出しているのではないかと、カレンは初めてはっきり恐れた。
◇
すずが記録帳を閉じると、資料室の明かりが少しだけ冷たく感じられた。
空気はしばらく、銀色の粒子が沈殿するみたいに重く沈んでいる。
もかは空になった袋をくしゃりと丸め、膝を抱えた。
「セシリアさん、止めたかったんだよね……。でも、自分ももう、ステラちゃんのために戻れないところまで来てたから、ちゃんと止められなかった」
「はい」
すずは静かに頷いた。
「二人とも、すでに孤独の中で選び始めていました。セシリアさんは娘のために。カレンさんは父の残したもののために。向かう先が同じ闇だと気づいていても、引き返すことはできなかったのでしょう」
もかは窓の外、闇の向こうにある廃墟の方角を見た。
「カレンさんって、本当にずっと一人だったんだね。……あの歌だけを持って」
すずは次の頁に指をかける。
「ええ。だからこそ、歌は慰めであると同時に、彼女を過去へ繋ぎ止める鎖にもなりました」
「つらいね……」
もかは小さく呟いた。
「優しいものって、なんでそのまま優しいまま残ってくれないんだろ」
すずは少しだけ目を伏せ、それから答えた。
「残らないからこそ、人は記録し、縫い留めようとするのかもしれません」
資料室に静寂が落ちる。
「次の記録で、カレンさんが一人で何を背負うと決めたのか――その核心に触れます」
もかは黙って頷いた。すずの指先が、次の頁を開く。
回想第三部:第二話「セシリアとカレン」――完
第三作『銀色の旅路』は完結編です。
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、第一作『銀色の結晶』、第二作『銀色の産声』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/
■銀色の産声――人願で綴る、明日のための戦記。
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