第65話 今日からあなたは、アオよ!
いつも『戦えない母は赤ちゃん抱いて異世界にいた』をお読みいただき、本当にありがとうございます。
この度、作者の確認不足により、第63話が下書き状態のまま投稿されず、飛ばして第64話・第65話を公開してしまっていたことが判明いたしました。
楽しみに読んでくださっていた読者の皆様には、物語の繋がりが分かりづらくなり、ご混乱とご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。
門番に投げ出された先——そこに広がっていたのは、想像を絶する光景だった。
倒れかけた小屋とも呼べないような木屑の山、泥と汚物に塗れた路地、そして鼻を突く異臭。通りに力なく座り込む人々はみな骨が浮き出るほど痩せこけ、その瞳には生気というものが一切宿っていなかった。
「こんな……」
美和は言葉を失い、呆然と周囲を見渡す。家と呼ぶことすら憚られる泥の住処と、生ける屍のような人々。レンたちから聞いてはいたものの、現実の惨状は美和の想像を遥かに超えていた。
ショックで立ち尽くしていた美和たち一行に、突如として低い怒号が飛んだ。
「お前ら! どこから来たんだよっ!」
不意に飛んできた小石が、美和の足元に当たってコロコロと転がった。狙ったわけでもなさそうな、幼い不器用な投石。
振り返ると、ボロ布を纏った幼い少年が、怒りと恐怖に満ちた目で美和たちを睨みつけていた。
「出てけよ! 何しに来たんだ! お前ら、貴族か何かだろっ!」
美和たちはスラムに溶け込めるよう、ボロの服を纏い、髪も乱し、顔に泥まで塗っていた。それでも——スラムの住人から見れば、その姿はあまりにも浮いていたのだ。
どれほど身なりを汚そうとも、しみついた身のこなしや立ち振る舞い、健やかな育ちが滲み出る雰囲気は隠せない。そして何より、隠しきれない肌の美しさ。美和の胸に抱かれた遥斗のぷっくりとした可愛らしい頬と、輝くような瞳は、スラム街の赤子たちとは雲泥の差だった。
「それにお前ら……!」
少年が激しい敵意を向けて指をさしたのは、ケープを被ったレオたちだった。
「獣人だろ! 匂いでわかるんだよ! 俺たちを笑いに来たのか!? それとも、残った俺たちを売り飛ばしに来たのかよ!」
少年は全身を激しく震わせながらも、声を荒らげるのを止めなかった。
まだ幼さの残る少年だ。きっと恐ろしいはずだ。ケープ越しからでも伝わってくるレオたちの圧倒的な強者の風格。それでも引かないのは、残された数少ない仲間——自分と同じ『ラズ』を守るため。怖かろうが相手が格上だろうが立ち向かえと、心が奮い立っているのだ。
(この子……恐ろしいはずなのに、必死で後ろの人たちを守ろうとしてる……)
美和たちの正体を知らない少年は、警戒心を剥き出しにして噛み付き続ける。
「おい、よせ!」「やめろ!」と周囲の大人たちが怯えたようにざわめく中、少年は叫び続けた。
「半分は同じ血が流れてるのに! とうとうこんなところまで——」
「片羽のラズ!!」
割って入るように、しわがれた大声が響いた。
身を乗り出してきたのは、脚が不自由そうで杖をついた老人だった。老人は冷や汗を流しながら美和たちから少年を庇うように立ち塞がり、その小さな背で少年を隠して必死に頭を下げた。
その背中は少年より遥かに細く、痛々しいほど小さかった。
「すみません、すみません! どうかお許しください! こいつはまだ幼くて、何も知らんのです……!」
そんな老人の手を取り、美和は膝を折って申し訳なさそうに眉を下げる。
「大丈夫です。謝らないでください。この子は誰も傷付けてなんていませんから」
投げられた石も、あえて外すように投げられたものだった。美和は、この少年の不器用な優しさと、人一倍強い仲間思いの心を感じ取っていた。
老人の白い瞳を見つめながら、美和は「どこか静かに話せる場所はないか」と問いかけようとする。
すると、美和の意図を察したレオがすっと前に出た。
「俺たちはお前たちを傷付けに来たんじゃない。今はまだ信じられないだろうが、どうか、話をさせてくれ」
レオの真っ直ぐな言葉を受け、老人はうまく映らない真っ白な瞳でじっとレオを見つめた。
しばらく無言で見つめ合う両者。先に口を開いたのは老人だった。
「……わかりました……あばら家へとご案内致します」
「なっ! ラズジィ!」
抗議の声をあげる少年だったが、ラズジィと呼ばれた老人の無言の圧に押し黙る。その身のこなしに、レオは(この老人、半獣ながら若い頃はさぞ身体を鍛えていただろうな)と密かに感心していた。
案内されたのは、一軒の、家と呼ぶには小さく荒れ果てたあばら家だった。
「ここなら、ゆっくり話が出来ます……」
テーブルはおろか座る場所もなく、薄いゴザが敷いてあるだけの狭い空間。レオやビッツといった大柄な獣人たちは中に入れず、入口のすぐ外で佇んでいた。
リュックの中ではルゥたちが大人しく聞き耳を立てている。
そして、老人の口から語られたスラム街の現状は——事前に聞き及んでいたものよりも、遥かに凄惨で絶望的なものだった。
「悪いことは言わん、あんたらもすぐに出て行った方がいい。……いま、ここは病の温床なんだ」
老人は惨状を嘆くように首を振る。
「くそっ! あいつが……兄ちゃんが居てくれたら、まだこんなことには……!」
「よせ、片羽のラズ! それを言うな!」
「でもっ! ラズジィちゃん!」
かつて中心となってスラムを支えていた『ある青年』が姿を消した後、残されたのは動けない老人や幼い子供、そして病気や怪我を負った者たちばかりだった。
そこへ追い打ちをかけるように蔓延し始めた奇病。住人は一日また一日と数を減らし、いまや半数以下にまで落ち込んでいたのだ。
惨状の理由と、少年が抱える深い傷と絶望を知った美和は、ゆっくりと立ち上がった。
「私……行かなくちゃ」
「……美和?」
レオが心配そうに問いかける。美和は静かに振り返ると、抱いていた我が子をレオに託した。
「レオ、ハルくんをお願い」
「美和、お前……」
美和はログハウスを出る前、できる限りの情報を集めるため、レンやノアに様々な問いを重ねていた。何も知らず乗り込むなど愚者のすること。相手はマリアーレという巨大な国家なのだ。
(蔓延する病気、酷い悪臭、人々の体力低下……環境の劣悪化の根本にあるのは、間違いなく水質の汚染か枯渇……!)
「まずは……水よ!」
きっぱりと言い切る美和。その突拍子もない言葉に、周囲の空気は一瞬で凍りついた。
「「「水ぅ……!?」」」
レオやビッツはもちろん、リュックの中で聞き耳を立てていたルゥやルードヴィッヒまで
「何を言っているんだ?」と顔を見合わせる。
「そうよ! 水だけじゃないけど、とりあえず水!」
向き直った美和が迫っていくのは、未だ敵意を剥き出しにしている少年の前だった。
その少年はといえば、急に近寄ってきた美和に警戒心を全開にし、後ずさりする。
「な、なんだよお前……っ」
美和はニコッと微笑むと、少年の前に屈み込んでその目を見つめた。
「ねぇ、君。名前……まだ、ないんでしょう?」
『片羽のラズ』——それは個人の名などではなく、彼らを嘲笑い縛りつける呼び名だ。スラムの彼らには自分だけの名前がないことを、美和はレンから聞いて知っていた。
美和は泥に汚れた少年の顔を覗き込み、その奥に潜む、吸い込まれそうなほど澄んだ色彩を見つけ出す。灰色の絶望に包まれたこのスラムで、そこだけが抜けるような美しさを放っていた。
「瞳が空のように真っ青ね。……決めた、今日からあなたはアオよ!」
「は? えっ……今なんて?」
「うん。あなたは『片羽のラズ』なんて嫌な呼び名で縛られる筋合いはないもの。今日からあなたはアオよ! 綺麗な空の色……私の、大好きな色!」
「すき……? 俺の、この目が……?」
呆然と呟き、赤面する少年の冷たく痩せこけた手を力強く握りしめ、美和は迷いなく歩き出した。
「アオ、この街の井戸に案内して!」
「は? 井戸? なんで井戸なんかに……」
「行けばわかるから、とりあえず案内して! ……ビッツは私の護衛をお願い! さあ、行くわよ!」
「な、おい! どこ行くんだよ!?」
嵐のように動き出した美和に、レオたちは呆気にとられつつも苦笑いを浮かべる。
アオの手を引いたまま、躊躇なくスラムの奥へと突き進んでいく美和。
マリアーレ聖教国が捨て去り、闇に沈めたこの街を救うための——美和のスラム街巡りが、いま始まった。
いつも『戦えない母は赤ちゃん抱いて異世界にいた』を読んでいただき、本当にありがとうございます!
現在、本業の仕事が多忙な時期に入っており、これまで通りのペースで執筆時間を確保することが難しくなってまいりました。
大変恐縮ですが今後の更新ペースを【週1回(毎週土曜日21時頃)】に変更させていただきます。
ペースはゆっくりになりますが、美和さんたちの物語はまだまだこれから面白い展開が盛りだくさんですので、ぜひこれからも温かく見守っていただけると嬉しいです!
今後とも『戦えない母』をどうぞよろしくお願いいたします!




