第64話:ただの女に何ができるか、見せてやろうじゃない
馬車を使っても優に一週間はかかる距離を、美和たちはわずか二日で走り抜けていた。
それが可能だった理由は——他でもない、本来の姿に戻った黒竜・ルゥの存在である。
美和たちを気遣い、上空の猛烈な風圧や気圧の変動を感じさせないよう、密かに風の結界を張り巡らせていたルゥ。当の本人はといえば、久々に大きな姿で大空を飛べることが嬉しくてたまらなかったらしく、終始ご機嫌な空の旅となったのだった。
陸地を進むマリアーレの暗殺部隊ともすれ違うことなく、一行は安全に目的地へと到着する。
険しい崖の上から見下ろした先——そこに広がっていたのは、異様な光景だった。
「あれが……マリアーレ……」
遠くに見える国の中央には、美和の呟きを吸い込むような、贅を凝らした煌びやかな宮殿風の神殿が鎮座している。門の細部に至るまで巧みな意匠が施され、高く雄大な白い塀が国全体を厳重に取り囲んでいた。
しかし、その輝かしい白い塀の陰——見えない端っこに、まるで国の恥を隠すようにへばりついていたのは、言葉を失うほど惨状を極めたスラム街だった。
マリアーレ聖教国が光り輝けば輝くほど、その足元に広がる闇は深く、黒い。
美和たちは、すぐには乗り込まなかった。
出撃前、レンとノアから託された『お願い』があったからだ。
『美和さん、マリアーレがどうなろうと俺はどうでもいい。むしろ塵も残らないくらい潰れてほしい。……だけど、スラムに残してきた半獣の仲間たちは別なんだ。あいつらは弱くて、真っ先に犠牲になる。だから、お願いだ……あいつらを助けてほしい!』
精霊の圧倒的な力、黒竜の禍々しいオーラ、レオたち獣人の強者の風格。
自分たちにはない『強さの塊』である美和たちに、レンは涙ながらに仲間の命を託したのだ。
そんなレンに対し、美和は正面から真っ直ぐな瞳で答えていた。
『私は、私にできることをするわ。突然現れた私が何を言ったって、あなたの仲間たちは信じてくれないかもしれない。私一人では、できないことだってある。だから、助けられると簡単に約束はできない。でも、私にやれることは、最後まで精一杯やるつもりよ』
『できないこともある』と誤魔化さずに口にした美和の誠実さに、レンはボロボロと涙をこぼし、消え入りそうな声で呟いていた。
『……そんな美和さんだから、俺たちはアンタを信じるって決めたんだ』
そして、ノアもまた——。
『一つだけ聞かせて。聖母カサンドラは、あなたにとって何?』
もし少しでもカサンドラへの親愛や情が残っているなら、平和的な解決も探るつもりだった。しかし、ノアは迷いなく言い切ったのだ。
『アイツは……聖母の皮を被った悪魔だ!!』
『……わかった。大丈夫、悪い悪魔は私がやっつけてあげるから』
ノアの頭を優しく撫でた美和の笑顔には、一切の迷いがなかった。
美和たちが去った居間で、ノアはレンの手をギュッと握りしめ、ポツンと呟いた。
「レン兄ちゃん……これで良かったのかな……」
カサンドラが憎くて憎くて、美和に言った言葉は本物だった。
だけど――ルチアは違う。
彼女のことを考えなかったわけではない。
ノアの脱出を手助けしてくれた、大切な義姉。
カサンドラに情なんて微塵もない。けれど、ルチアにとってカサンドラは実の母親だ。
自分を庇って逃がしてくれた大好きなルチア姉ちゃん。
いくら歪んだ親であっても、実の母親を「悪魔だ」と吐き捨て、美和に打ち倒してもらうことを、ルチアはどう思うのだろうか。
「……ルチア姉ちゃん、傷つかないかな……」
ぽつりと漏れたノアの呟き。
カサンドラへの強い憎しみと、義姉への申し訳なさ。その狭間で揺れる小さな背中を、レンは黙って力強く抱きしめることしかできなかった。
◇
マリアーレを見下ろせる崖の上、美和の胸の高鳴りは最高潮に達していた。
それを感じ取ったのか、遥斗は美和の胸の中で静かに顔を上げ、美和を見つめていた。
「……行くよ」
美和の静かな合図とともに、一行は歩き出す。
レオたち獣人は目立つ容姿を隠すため、深いケープを頭からすっぽりと被っていた。
なお、再び小さな姿に戻ったルゥは、美和の背中のリュックサックへと押し込まれることとなったのだが——。
(……お前っ!?)
(ルゥ! 静かに! シーっ!!)
リュックの奥深くでトグロを巻いて潜んでいた白蛇とバチッと目が合い、もう少しで大声を上げそうになったルゥ。
ルードヴィッヒは「シャーッ、シャーッ」と必死に威嚇……いや、目配せをしながら、冷や汗を流していた。
そんなリュックの中の攻防を知る由もない美和たちの前に、立ち塞がる声が響く。
「止まれっ! ここをどこだと思っている!」
マリアーレ聖教国の門番だ。
美和はケープのフードを深く引っ張り直し、渾身の演技を開始する。
「あ、あぁ……私……聖母様に会いたくて……私の子に、洗礼を……っ」
吃りながらモゴモゴと狼狽え、挙動不審さとみすぼらしさを前面に出して「お恵みを〜」と汚れた布で包んだ遥斗を抱えて手を差し伸べる美和。抱えられた遥斗も、ママの雰囲気を察したのか「うぁ……?」と不安そうに目を丸くしている。
(……おい、この門番。美和にそんな汚らわしいものを見るような目を向けやがって……)
ケープの影で、レオの拳がギリッと音を立てた。ビッツの瞳にも冷たい殺気が宿り、リュックの中では二頭の最強生物が「いつでも飛び出す準備」を始めていた。
そうとは知らず、門番は心底嫌そうな顔で鼻を鳴らし、しっしっと手を振った。
「ハッ、洗礼だぁ? どこから湧いて出たか知らんが、汚い乞食が聖母様に会えるわけなかろうが。ここは身分の高貴なお方々が通る場所だ。さっさと失せろ!」
「そこをなんとか!一目だけでも聖母様に!」
「しつこい! 物乞いはスラム街がお似合いだっ!」
門番はそう怒鳴りつけると、美和の肩を荒っぽく押し込み、そのままスラム街側へと乱暴に放り投げた。
「きゃっ……!」
「ハッ、二度と高貴な聖教国の敷居を跨ぐなよ、乞食共が!」
背後で大きな重い門が、バタンと無情に閉ざされる。
完全にスラム街へと追いやられた格好となった美和たち。
周囲に人気がないことを確認した瞬間、ケープの影で今にも門番を叩き潰しそうだった過保護な仲間たちは、ようやく荒い息を吐き出した。
彼らが寸前で踏み止まれたのは、美和が間一髪で送っていた『手出し無用』の強い視線があったからに他ならない。
ケープの影で静かに拳を握りしめていたレオが、低い声で問いかけた。
「……美和、マリアーレに着いたは良いが、ここからどうするつもりだ?」
門番を力ずくで叩き潰さず、おとなしくスラム街に放り込まれた意図。
レオの問いかけに対し、美和はゆっくりと振り返った。
哀れな母親を演じていたはずのその顔には——今世紀最大とも言える、悪どく不敵な笑みが浮かんでいた。
「ただの女に何が出来るか、見せてやろうじゃない」
ゾッとするほど不敵に言い放つ美和の言葉に、リュックの中からヌッと顔を出したルゥとルードヴィッヒ(白蛇)が、思わずゾクッと背筋を震わせる。
マリアーレ聖教国が光で塗りつぶし、見ない振りをしていたこのスラム街こそが、彼女たちの『反撃の拠点』となる。
聖母の皮を被った悪魔を打ち倒すための、美和の静かなる反撃が、今ここから始まろうとしていた。




