↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦えない母は赤ちゃん抱いて異世界にいた  作者: くじら


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
66/66

第66話:したたかなお菓子外交と、光るたまごっち


アオに案内されて到着したのは、スラムのほぼ中央に位置する広場だった。


 そこにぽつんと佇んでいたのは、石組みが崩れかけ、底が完全に干からびた井戸だった。

 日本の井戸のような深さはなく、浅く大きな楕円形で作られた井戸。美和の膝ほどの高さしかないにも関わらず、その内部の半分以上が嫌な臭いを放つ泥で埋まっていた。


(これじゃあ水が溜まっても、すぐに生活排水や泥が入って汚染されちゃうわね……)


「ここが……スラムの井戸だ。一体何をするつもりか知らないが、余計なことはするな!」


 少年の警戒する声を背に受けつつも、美和は返事を返さず、鼻をつく酷い臭いに思わず眉をひそめた。

 漂うのは強烈な腐敗臭と湿った泥の臭い。レンやノアから聞いていた通り、スラムの病の元凶は衛生環境の破綻と、この汚染された水だったのだ。


(原因が分かれば、やることは一つ……!)


 美和はポケットから、すっとクッキーを一枚取り出した。

 その瞬間、美和の周囲にキラキラとした精霊たちが一気に集まってくる。


(やっぱり、遥斗以外の人間のお願いは普通じゃ聞いてくれないのね……)


 そのための、このクッキーだった。

 狙うは地下水脈の復活。美和は井戸の底に狙いを定め、精霊への「等価交換」を試みた。


「水、水の精霊。居るならこのクッキーと交換で、ここに水を蘇らせて!」


 クッキー一枚でどこまでできるかは分からない。けれど、ありったけの気持ちと愛情を込めて焼き上げた特製クッキーだ。


 グラリ、と足元が揺れる。


 次の瞬間、井戸の底から「ゴボゴボッ!」と凄まじい水音が響き、勢いよく水が湧き上がってきた。


「なっ……!? 水が……水が出たぞ!?」


 アオが目を見張り、驚愕の叫び声をあげる。

 しかし——溢れ出してきた水を目にした美和は、すぐさま苦笑いを浮かべて肩を落とした。

 戻ってきたのは、どろりとした黒ずんだ水。強烈な悪臭を放つ、不純物一〇〇%の泥水だった。


(……汚水。ただ水脈を繋いだだけじゃ、底に溜まった毒や汚れまで一緒に吹き出しちゃうのね。飲むための水にするには、浄化が必要だわ……)


 いつの間にか美和の手から消えていたクッキー。それはしっかり水の精霊が手にしており、美味しそうに頬張る水の精霊を追いかけるように、他の精霊たちまで集まってきていた。

 その光景は、見る者が見れば神々しくも幻想的なものだった。

 だが、水を復活させた美和は浮かない顔で手を合わせる。


「お願い、浄化をして欲しいの……!」


 天に向かって祈るも、返ってくるのは冷たい沈黙ばかり。

 美和をチラッと見つめた高位精霊である「水の精霊」は、青い光を纏ったまま、もう用はないとばかりに、ぷいっと横を向いてそっぽを向いてしまった。


 だが、美和は焦らなかった。

 八方塞がりに見えたその時、美和の肩口でふよふよと漂う一匹の影があった。黒の精霊「黒ちゃん」である。


 実はログハウスを出発する直前、美和は黒ちゃんと密かに『物々交換』の契約を交わしていたのだ。


「仕方ないわね。黒ちゃん、例のモノをお願い」


 美和が呟いてそっと手を差し出すと、手のひらの上に小さな亜空間の亀裂が開いた。

 そこから現れたのは、香ばしく甘いバターの香りを漂わせる、美和特製の『チョコチップクッキー』だった。

 ふわりと広がる甘美な香りに、それまで知らん顔を決めていた水の精霊が再びピクッと反応する。

 青い光が目に見えて輝きを増し、吸い寄せられるようにクッキーの周りをぐるぐると旋回し始めた。


「美味しいお菓子が欲しければ……わかるわね?」


 ニッコリと邪気のない微笑みを浮かべる美和。したたかな「お菓子外交」の開幕だった。

 しかし——そんな美和のやり方に待ったをかけたのは、水の精霊以外の者たちだった。


「美和! どういうことだ!?」


 真っ先に声をあげたのは、美和を心配するレオだった。

 精霊を使うということは、何かしらの代償やリスクを伴うということ。美和の身を案じたレオは、焦ったように美和の肩をぐっと掴み寄せる。

 レオの腕の中では、遥斗がすやすやと気持ちよさそうに寝息をたてていた。


「大丈夫よレオ、減ったのはクッキーだけだから!」


 美和はそう言ってニッコリと笑ってみせた。

 その言葉に嘘はない。嘘はなかったけれど——隠していることはあった。このマリアーレの件が終わった後、黒ちゃんと交わした『真の契約』のこと。


(……ごめんねレオ。伝えるのは、みんなで無事に帰ってから)


 美和はその事実を今は口にできずにいた。知れば絶対にレオは怒り、止めるだろう。だけど、自分の中に後悔はなかった。

 美和が密かに決意を秘めていたその頃、さらに深刻な攻防戦が繰り広げられていたのは、彼女のリュックの中だった。


(おのれ〜! 精霊共め! 我もクッキーが欲しいぞ!)


(馬鹿! やめろ! 今飛び出せば大惨事間違いなしだ! せっかく潜り込んだのに、マリアーレの聖騎士たちがここになだれ込んでくるぞ!)


(離せ蛇野郎! 我は今すぐ行かねばならぬのだ!)


 あまりの羨ましさに、今にもリュックから飛び出しそうになるルゥ。それを必死で押し留めるルードヴィッヒ。

 そんなリュックの隙間へ、美和は背中に手を回してそっとクッキーを滑り込ませた。

 途端に「むぐっ!?」と声が上がり、静まり返るリュック内。あまりの美味しさと美和の気配りに、ルゥは感動のあまり言葉を失って押し黙ったのだった。

 そこまで計算していた美和は、満足そうに精霊を見上げる。


「さ、今のうちに井戸を……」


 美和が再び井戸に向き直ると、そこにはすでに澄み切った清流が満ちていた。

 水の精霊は「もう仕事は終わっただろ!」と言わんばかりに、クッキーに抱きつきながら青白い光を点滅させている。

 美和の目から見れば、それはただの「青く光るたまごっち」のような可愛らしい光の塊に過ぎない。

 だが——本来の姿は、カタカタと骨の鳴るような音を響かせ、呪詛に似た青白い光を放つ禍々しい生き人形。


(ヒッ……な、なんだあの不気味な人形は……!? 見間違いか……?)


 後ろでビッツが恐怖に顔を引きつらせているのも露知らず、そんな呪いの人形フォルムの精霊が、たった一枚の手作りクッキーに釣られて夢中でモグモグと光を散らしている。

 一方、レオは最初から精霊の真の姿が見えていた。ビッツの怯えに気づくとそっと向き直し、「美和には言うな」と無言の圧力をかける。美和を幸せな勘違いのままいさせようという、彼なりの気配りだった。


(……なんだかよく分からないけど、すっごく可愛いからいっか)


 周囲の冷や汗混じりの視線も知らず、能天気に光を見つめていた美和は、井戸の縁に落ちていた古びた木杓をサッと水ですすぐと、透き通った井戸水を汲み上げた。


「アオ、見て! 水が綺麗になったわよ!」


「なっ…………!?」


 汚泥の沼だったはずの井戸から湧き出る、クリスタルのように輝く水。

 アオは言葉を失い、ゴクリと唾を飲み込みながら、震える瞳でその美しい水面を呆然と見つめていた——。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。