第66話:したたかなお菓子外交と、光るたまごっち
アオに案内されて到着したのは、スラムのほぼ中央に位置する広場だった。
そこにぽつんと佇んでいたのは、石組みが崩れかけ、底が完全に干からびた井戸だった。
日本の井戸のような深さはなく、浅く大きな楕円形で作られた井戸。美和の膝ほどの高さしかないにも関わらず、その内部の半分以上が嫌な臭いを放つ泥で埋まっていた。
(これじゃあ水が溜まっても、すぐに生活排水や泥が入って汚染されちゃうわね……)
「ここが……スラムの井戸だ。一体何をするつもりか知らないが、余計なことはするな!」
少年の警戒する声を背に受けつつも、美和は返事を返さず、鼻をつく酷い臭いに思わず眉をひそめた。
漂うのは強烈な腐敗臭と湿った泥の臭い。レンやノアから聞いていた通り、スラムの病の元凶は衛生環境の破綻と、この汚染された水だったのだ。
(原因が分かれば、やることは一つ……!)
美和はポケットから、すっとクッキーを一枚取り出した。
その瞬間、美和の周囲にキラキラとした精霊たちが一気に集まってくる。
(やっぱり、遥斗以外の人間のお願いは普通じゃ聞いてくれないのね……)
そのための、このクッキーだった。
狙うは地下水脈の復活。美和は井戸の底に狙いを定め、精霊への「等価交換」を試みた。
「水、水の精霊。居るならこのクッキーと交換で、ここに水を蘇らせて!」
クッキー一枚でどこまでできるかは分からない。けれど、ありったけの気持ちと愛情を込めて焼き上げた特製クッキーだ。
グラリ、と足元が揺れる。
次の瞬間、井戸の底から「ゴボゴボッ!」と凄まじい水音が響き、勢いよく水が湧き上がってきた。
「なっ……!? 水が……水が出たぞ!?」
アオが目を見張り、驚愕の叫び声をあげる。
しかし——溢れ出してきた水を目にした美和は、すぐさま苦笑いを浮かべて肩を落とした。
戻ってきたのは、どろりとした黒ずんだ水。強烈な悪臭を放つ、不純物一〇〇%の泥水だった。
(……汚水。ただ水脈を繋いだだけじゃ、底に溜まった毒や汚れまで一緒に吹き出しちゃうのね。飲むための水にするには、浄化が必要だわ……)
いつの間にか美和の手から消えていたクッキー。それはしっかり水の精霊が手にしており、美味しそうに頬張る水の精霊を追いかけるように、他の精霊たちまで集まってきていた。
その光景は、見る者が見れば神々しくも幻想的なものだった。
だが、水を復活させた美和は浮かない顔で手を合わせる。
「お願い、浄化をして欲しいの……!」
天に向かって祈るも、返ってくるのは冷たい沈黙ばかり。
美和をチラッと見つめた高位精霊である「水の精霊」は、青い光を纏ったまま、もう用はないとばかりに、ぷいっと横を向いてそっぽを向いてしまった。
だが、美和は焦らなかった。
八方塞がりに見えたその時、美和の肩口でふよふよと漂う一匹の影があった。黒の精霊「黒ちゃん」である。
実はログハウスを出発する直前、美和は黒ちゃんと密かに『物々交換』の契約を交わしていたのだ。
「仕方ないわね。黒ちゃん、例のモノをお願い」
美和が呟いてそっと手を差し出すと、手のひらの上に小さな亜空間の亀裂が開いた。
そこから現れたのは、香ばしく甘いバターの香りを漂わせる、美和特製の『チョコチップクッキー』だった。
ふわりと広がる甘美な香りに、それまで知らん顔を決めていた水の精霊が再びピクッと反応する。
青い光が目に見えて輝きを増し、吸い寄せられるようにクッキーの周りをぐるぐると旋回し始めた。
「美味しいお菓子が欲しければ……わかるわね?」
ニッコリと邪気のない微笑みを浮かべる美和。したたかな「お菓子外交」の開幕だった。
しかし——そんな美和のやり方に待ったをかけたのは、水の精霊以外の者たちだった。
「美和! どういうことだ!?」
真っ先に声をあげたのは、美和を心配するレオだった。
精霊を使うということは、何かしらの代償やリスクを伴うということ。美和の身を案じたレオは、焦ったように美和の肩をぐっと掴み寄せる。
レオの腕の中では、遥斗がすやすやと気持ちよさそうに寝息をたてていた。
「大丈夫よレオ、減ったのはクッキーだけだから!」
美和はそう言ってニッコリと笑ってみせた。
その言葉に嘘はない。嘘はなかったけれど——隠していることはあった。このマリアーレの件が終わった後、黒ちゃんと交わした『真の契約』のこと。
(……ごめんねレオ。伝えるのは、みんなで無事に帰ってから)
美和はその事実を今は口にできずにいた。知れば絶対にレオは怒り、止めるだろう。だけど、自分の中に後悔はなかった。
美和が密かに決意を秘めていたその頃、さらに深刻な攻防戦が繰り広げられていたのは、彼女のリュックの中だった。
(おのれ〜! 精霊共め! 我もクッキーが欲しいぞ!)
(馬鹿! やめろ! 今飛び出せば大惨事間違いなしだ! せっかく潜り込んだのに、マリアーレの聖騎士たちがここになだれ込んでくるぞ!)
(離せ蛇野郎! 我は今すぐ行かねばならぬのだ!)
あまりの羨ましさに、今にもリュックから飛び出しそうになるルゥ。それを必死で押し留めるルードヴィッヒ。
そんなリュックの隙間へ、美和は背中に手を回してそっとクッキーを滑り込ませた。
途端に「むぐっ!?」と声が上がり、静まり返るリュック内。あまりの美味しさと美和の気配りに、ルゥは感動のあまり言葉を失って押し黙ったのだった。
そこまで計算していた美和は、満足そうに精霊を見上げる。
「さ、今のうちに井戸を……」
美和が再び井戸に向き直ると、そこにはすでに澄み切った清流が満ちていた。
水の精霊は「もう仕事は終わっただろ!」と言わんばかりに、クッキーに抱きつきながら青白い光を点滅させている。
美和の目から見れば、それはただの「青く光るたまごっち」のような可愛らしい光の塊に過ぎない。
だが——本来の姿は、カタカタと骨の鳴るような音を響かせ、呪詛に似た青白い光を放つ禍々しい生き人形。
(ヒッ……な、なんだあの不気味な人形は……!? 見間違いか……?)
後ろでビッツが恐怖に顔を引きつらせているのも露知らず、そんな呪いの人形フォルムの精霊が、たった一枚の手作りクッキーに釣られて夢中でモグモグと光を散らしている。
一方、レオは最初から精霊の真の姿が見えていた。ビッツの怯えに気づくとそっと向き直し、「美和には言うな」と無言の圧力をかける。美和を幸せな勘違いのままいさせようという、彼なりの気配りだった。
(……なんだかよく分からないけど、すっごく可愛いからいっか)
周囲の冷や汗混じりの視線も知らず、能天気に光を見つめていた美和は、井戸の縁に落ちていた古びた木杓をサッと水ですすぐと、透き通った井戸水を汲み上げた。
「アオ、見て! 水が綺麗になったわよ!」
「なっ…………!?」
汚泥の沼だったはずの井戸から湧き出る、クリスタルのように輝く水。
アオは言葉を失い、ゴクリと唾を飲み込みながら、震える瞳でその美しい水面を呆然と見つめていた——。




