第56.5話:牙なき混血。(名も無き半獣(ラズ)視点)
※今回は半獣の青年視点の過去回想となるため、スラム街の劣悪な環境描写、差別、一部残酷な描写(回想)が含まれます。
大丈夫な方のみ、お進みください!
――
ドブの臭いと、何かが腐った臭気。
日すら届かないマリアーレ聖教国の端にあるスラム街は、人間にも純血の獣人にもなれなかった俺たち『半獣』にとって、死ぬまで這い出せない巨大なドブ溜まりだった。
俺たちに名前なんてない。
奴らに呼ばれる名前は決まってひとつ――『ラズ』。
この国の古い言葉で『ゴミ』『出来損ない』を意味する蔑称だ。
仲間同士でも『ラズの4号』だの『灰色狐のラズ』だの『片耳ラズ』だのと、識別記号のような呼び名で誤魔化して生きてきた。
「……ハァ、ハァ……っ」
冷たく薄汚い石畳の上で荒い息を吐き出す。
俺には獣人のような強靭な筋力も、敵を切り裂く鋭い爪も牙もない。
人間の瞳と獣の瞳を持つこのオッドアイは半獣の証、どこへ行っても差別の標的だった。
爪も牙もない俺がこの地獄で生き残るために使ったのは、人より少し優れてる『頭脳』と『器用な手先』だ。
スラムの抜け道や下水道の構造をすべて叩き込み、鍵開けや罠の解除、スリに情報売り――スラムの裏社会で、大人の『汚い汚れ仕事』を何でもこなしてきた。
人を騙し、陥れ、泥水を啜りながら金を稼ぐ。
俺の手は、とっくに汚れきっている。
だけど……そんな泥塗れの中で、俺が唯一死守してきた誇りがある。
『仲間の半獣だけは絶対に裏切らない、見捨てない』
かつて、自分の無力さのせいで弟を飢え死にさせた。
あんな絶望は二度と御免だった。
だから俺はどんな泥を被ってでも、手先を汚してでも、仲間を生かすための『毒』になってきたんだ。
――だが、その平穏は崩れ去る。
気を抜けば、ふとした時に奴隷として売られていく仲間。
どれだけ逃げようとしても逃げられない環境。
減っていく仲間と、新しく放り込まれてくる新しい半獣。
スラム街は、そうやって暗闇に根を張っていった。
この国は、俺たち半獣の血と涙を吸い上げて栄えてきたんだ。
何が神聖なマリアーレ聖教国だ。
聖母国家など、名前だけの腐った人間どもの巣窟じゃないか。
煌びやかな神殿の裏でどんな惨劇が行われようと、高貴な人間たちのすることだと、誰もが目を閉じ、無かったことにする。
そして――その頂点に君臨する『聖母カサンドラ』が、ある日呟いた。
どこかの視察に行く際、ほんの少し通り過ぎるだけだったスラム街を見て、鼻を摘まみながら。
『……臭いわ』
そのたった一言で、俺たちの運命は決まった。
神聖な我が国に不浄は必要ない――。
俺たちはここでしか生きられないのに、一人、また一人と捕まっては文字通り『排除』されていく。
今ではスラムも半分に縮小され、半獣の数も半数以下にまで減らされた。
それでも、奴隷としての需要はあるからと、一部だけを生かされる歪な現状。
そんな地獄の中で聞いたのが、『獣人国に本物の聖母が現れた』という噂だった。
限界を迎えていた仲間たちがスラム街を抜け出し、逃げ出すのは早かった。
だけど、まだ多くの同胞がこの地獄を寝床にしており、俺はどうしてもスラムを捨てて出るわけにはいかなかった。
……だが、昔から一緒に生きてきた仲間の一人が、その噂を信じてスラムを出ていくと言い出した。
何人かがそれに賛同し、ついて行こうとする。
そいつは昔から夢見がちで、「いつか自分たちを助けてくれるヒーローが現れる」「この現状を救ってくれる神様がいるはずだ」なんて本気で信じているバカ野郎だった。
(ハッ……そんなお伽話みたいな神様がいてたまるかよ)
そんな噂を信じるなどバカのすることだと、俺は必死に追いかけた。
説得しようとしたが、奴らは聞く耳を持たない。
……結局、放っておけば途中で野垂れ死ぬのが目に見えていたから、俺は仕方なく同行することにしたんだ。
そして――逃避行の最中、暗い森の中で出会ったのが『ノア』だった。
死んだ俺の弟と、まったく同じ歳の、人間の少年。
森の奥から現れたその少年は、フラフラで、体中傷だらけでボロボロだった。
そして、俺たちの目と鼻の先で――ガクッと膝を折り、バタリと泥の上に倒れ込んだ。
「……行こうぜ。関わるな」
仲間の一人が、冷めた声で言った。
当たり前だ。
人間にかかわればロクなことにならない。
皆、倒れた少年を無視して足を早め、先へ進もうとする。
だが――俺の足だけが、ピタリと地面に張り付いて動かなくなった。
泥に顔を埋め、ピクリとも動かない小さな背中。
あの日、冷たくなっていった弟の姿が、目の前の少年の影と重なって脳裏に焼き付く。
(……チッ! 汚い手を使ってでも生き残るって決めたろ、俺は……!)
俺は心の中で毒づきながら、仲間たちの制止を振り切り、倒れた少年へ歩み寄った。
「……おい、生きてるか」
冷徹な自分が頭の中で叫ぶ。
『こいつは人間だ』
『囮に使えるかもしれない』
『損得勘定だ』と。
そうやって必死に言い訳をしながら、俺は傷だらけの少年――ノアの体を、抱き上げた。
この時、俺はまだ知らなかった。
このバカな仲間が信じた『お伽話の神様』が――
自分たちを地獄から救い出し、汚れた俺の手を温かく握り返してくれる『本物の聖女』として、すぐ目の前で待っていることを。




