第51話:歪んだ白亜の神殿
マリアーレ聖教国の端にある、貧しい小さな片田舎。
かつて、そこで泥に塗れて生まれ育った一人の女がいた。
女には母親しかいなかった。父親の顔など知らなかった。
そんな女に転機が訪れたのは、十歳の頃だった。
唯一の肉親であった母親を病で失い、幼い女は途方に暮れた。
このままでは飢え死にするか、それとも身体を売って生き延びるしかない。
そのどん底の絶望の淵に現れたのが、貴族の、それも血を分けた父親だった。
女は父親へと引き取られ、その後、幸せに暮らしたかどうかは――女自身だけが知ること。
それから数十年の時が経ち。
泥をすすっていたあの少女、カサンドラは、いまやこの大国の信仰の頂点――【聖母】という地位まで登り詰めることに成功していた。
女は幸運だった。
引き取られた先で、自身に突如として目覚めた『癒しの力(奇跡)』。それを利用し、教会の上層部を取り込み、のし上がるまでに時間は掛からなかった。
母親に似た美貌と、3人の子の母親とは思えぬほどの若々しい肉体、そして神聖なる力。
それら全てを使って、彼女は今の絶対権力を掴み取ったのだ。
◇
マリアーレ聖教国の中心地に聳え立つ、白亜の神殿。
ステンドグラスから美しい光が降り注ぐ中、聖母カサンドラは、民に向けて慈愛に満ちた眼差しで祝福を施していた。
――しかし、その内面は、言葉に言い表せないほどの激しい怒りで溢れかえっていた。
何度刺客を送っても、決まって音信不通になる現状。
刺客がどうなろうとカサンドラにとってはどうでもよかったが、自分の計画がスムーズに運ばない現状へのイライラが、限界まで積み重なっていた。
獣人国へと送った外交親書ものらりくらりと躱され、調査団の行方も分からず、賠償を命じても「証拠がない」と無下にされる始末。
さらに、カサンドラには絶対に許せないことが、ここ数日立て続けに起こっていた。
曰く、獣人国へ立ち寄った旅人が言うには、獣人国で『本物の奇跡』を見たという。
さらに、赤子の泣き声がしたかと思ったら嵐が起こり、逃げ惑う人々が天使の歌声にふと足を止めたところ、嵐がピタリと止んで、神々しい光の道から天使が舞い降りたとか。
なんの変哲もない屋台の不思議な飲み物(※美和の作ったスープ)を飲んでから、身体の不調が完全に完治したとか。
「獣人国には、今、本物の奇跡を起こす聖母がいる――」
その噂のせいで、マリアーレの足元であるスラム街の半獣どもや孤児、浮浪者が騒ぎ始めていたのだ。
浮浪者たちが国から居なくなること自体は、街の外観が良くなるから構わない。
だが、自分以外の人間を「聖母」と祭り上げ、敬い慕うことなど、彼女の肥大化したプライドが絶対に許さなかった。
さらに、神官の中にまで、そんな巫山戯たことを抜かす輩が出てくる始末だった。
見習いだろうと神官は神官だ。
自分に生涯を捧げて死んでいけば良いものを、「死にかけを救ってもらった」「あれこそ奇跡だ」などと……。
(ふざけるな! 聖母は私一人で十分だ……っ!!)
民への祝福の儀を終え、豪華絢爛な自身の私室へと戻った瞬間、カサンドラの表情から慈愛が消え失せた。
ガシャーーーン!!!
下々の民が何ヶ月も必死に働いた拝金でようやく買えるだろう、精巧な造りの硝子のグラスを、カサンドラは躊躇いもなく床に叩きつけた。
それも、何度も、何度も。
バリン! ガチャン! と、耳を劈くような激しい破砕音が室内に響き渡る。
その狂気に満ちた行動を、部屋の隅で、怯えながら見つめている者がいた。
「か、母様……」
「ハァ、ハァ……っ……!」
そこにいたのは、カサンドラが産んだ次期聖母候補の娘と、容姿が優れていたため、対外的な見栄えのために養子にして育ててやった元孤児の息子が2人。
カサンドラは、肩で息をしながら自身の娘へと向き直ると、恐ろしいほどに綺麗な笑みを浮かべた。
「私の可愛いルチア。母様はこの2人(兄、弟たち)にお話があるから、お部屋へ戻ってなさい」
その言葉が発せられた瞬間、2人の幼い息子たちはビクッと身体を震わせ、完全に硬直した。
そのうちの1人、まだ幼い弟の方はカタカタと哀れに震え、その瞳は絶望的な恐怖に支配されている。
「っ……でも……私っ……」
娘のルチアは両の手を胸の前で組みながら、兄たちを庇おうとモゴモゴと口を動かした。
「ルチア? 母様の言うことが聞けないの? ――それとも、貴女がこの子たちの代わりになると言うのかしら?」
「っ……あ、う……」
すう、と細められた冷酷な瞳が上からルチアを睨みつける。
その声音には、実の娘すらただの道具としか思っていない、底知れない冷たさがあった。
これ以上言葉を重ねれば、次は自分が、あるいは兄たちがもっと酷い目に遭う。
カサンドラの放つ圧倒的な威圧感に、ルチアは完全に萎縮し、涙目を浮かべて小さく首を振ると、逃げるようにその場を後にするしかなかった。
パタン、と重々しく閉じられた扉。
その向こうでこれから何が行われようと、その扉は決して開けてはならない。
そう決められているかのように、ルチアは廊下で唇をギュッと噛み締めた。
すぐに、扉の向こうから、小さな子供たちの悲鳴が聞こえてくる。
何かを激しく叩く、鈍い音。
ルチアは両耳を小さな手でギュッと押さえ、強く目を瞑った。
「っ……ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
助けを求めて伸ばされた兄たちの手を、振り払って逃げてしまったことへの罪悪感なのか、それとも、何もできない自分の無力さへの絶望なのか。
ルチアの小さな、聞き取れないほどの叫びが、冷たい廊下に虚しく響いていた――。




