第50話:マリアーレの親書
マリアーレ聖教国の大会議室で、再び怒号が響き渡ったのは、あの決議から一ヶ月が経った頃のことだった。
「どういう事だっ!!」
狂信的な高官たちの顔は、怒りと、そして得体の知れない恐怖で青ざめていた。
異端審問官や特級の刺客を獣人国へ送り込んで一ヶ月。
マリアーレから獣人国の辺境までは、馬を飛ばせば一週間ほどの距離である。
最初の二週間は、連絡がなくとも不思議には思わなかった。
相手は野蛮な獣どもの「偽聖母」。少しばかり手こずっているだけだろうと、高を括っていたのだ。
だが、三週間目でさすがに「おかしい」と思い立ち、催促の魔導通信を送った。
しかし、一向に返信は来ない。
不審に思った高官たちは、仕方なく実力派の第二陣を追加で送り込んだ。
だが、その第二陣からの連絡も、獣人国に入ってわずか一週間ほどで唐突に途絶えた。
――これは、何かがおかしい。
焦った彼らは、隠密に特化した三度目の刺客を放った。
しかし、その刺客が放った「目的地周辺に到着した」という最後の定時連絡を最後に、またしても消息不明になったのだ。
送り込んだマリアーレの精鋭たちが、美和の自宅という名の『底なし沼』に吸い込まれるように入り、そして誰一人として戻ってこない。
刺客たちは全員、美和の家の庭に潜んだ瞬間、遥斗を護衛する【呪われた人形(精霊)】たちのガチ恐怖トラップの餌食になっていた。
衣服を血に染め、関節の折れ曲がった黒の精霊たちが、カタカタと歯を鳴らしながら足元に漆黒の渦――『亜空間』を生成し、刺客たちを悲鳴を上げる間もなく次々と呑み込んで完全に消滅させているのだが、マリアーレ側がそれを知る由もない。
「さて、どうしたものか……。これは早急対策を立てねば、我が国の威信に関わる」
頭を抱えた高位神官は、すがるような思いで、この国の信仰の頂点たる神聖なる聖母へと謁見し、対策を仰いだ。
帳の向こうから、鈴を転がすような、どこまでも慈悲深く優しい聖母の声が響く。
「……そう。そんな事が……それは、心配でしょう」
「はっ……! 我らの不手際、申し訳ございませぬ!」
「……そうですね。では、こんなのはどうでしょうか……」
神の代弁者なる聖母の尊い言葉は、すなわち神の言葉そのもの。
すうっと帳から美しい顔を覗かせ、神官の耳元で策略を耳打ちする聖母。
その体から漂う柔らかな甘い匂いに、神に生涯を捧げたはずの神官ですら、ドクンと胸が高鳴るのを感じた。彼は必死に頭を振り、心の中で自身を戒める。
(清らかな聖母様に対して何たる不貞を! ああ、しかし、お子を産んだとは思えぬほどの美貌とお身体……! 三人ものお子を育てた母親とは思えぬほどの、あの若々しさと色香はあまりにも罪深すぎる……!)
邪念を振り払うように深く深く頭を下げ、神官は聖母から授かった「最悪の策略」を胸に、その場を後にした。
聖母の指示通り、マリアーレ聖教国はすぐさま獣人国へ向け、一通の『外交親書』を作成し、送付した。
その内容は、傲慢で不愉快極まりない一方的なものだった。
『我が国の罪なき使者や旅人たちが、貴国(獣人国)の領内で多数行方不明になっている。これは獣人国による我が国への敵対行為とみなす。どう賠償するつもりだ。誠意ある調査、対応がなければ、我が国は相応の手段をとる用意がある』という、事実をねじ曲げた恐喝状であった。
(――ふふ、これでいい。獣人国がまともに調査などできるはずもないのだ)
書状を送り出した高位神官は、心の内で醜く口元を歪めていた。
形ばかりの調査をさせ、その結果がこちらにとって満足のいく賠償や結果であれば、ひとまずは良し。
だが、もし納得のいかないものであったとしても――「では、我が国の聖母を侮辱した『偽聖母(美和)』の身柄を引き渡せば、我が国が手打ちとしてやろう」と要求する手筈になっている。
最初からマリアーレの狙いは、獣人国の戦力を削ること、そして何より「偽聖母」と呼ばれる女の身柄を合法的に奪うことだった。
◇
ところ変わり――獣人国の王城。
豪華な執室で、ネズミの獣人である王様は、届けられたばかりのその手紙を、細く小さな指先でヒラヒラと弄んでいた。
その顔には、柔らかく、けれど底の知れない笑みが浮かんでいる。
「あの国は、また随分と面白いモノを送ってきたんだけど。
ねぇ、どう思う? ――ルードヴィヒ卿」
名前を口にすることすら忌々しいというように、マリアーレの名を伏せた王様は、誰もいないはずの室内の「影」へとニッコリと微笑みながら問いかけた。
すう、と室内の温度が下がる。
影が揺らめき、そこから現れたのは、美和の目を盗んで王の極秘の呼び出しに応じた、蛇族の長――ルードヴィヒであった。
美和の元で見せる「小さな白蛇」の姿はどこへやら、その切れ上がった双眸には、一族を統べる長としての冷徹な輝きが宿っている。
「……相変わらず、神の名を騙る生臭坊主どもの浅知恵だな。我が国に仕掛けた密偵が一人残らず『消滅』したことに、よほど焦っていると見える」
ルードヴィヒは冷ややかに鼻で笑った。
マリアーレの特級刺客たちを、悲鳴を上げる間もなく亜空間へ放り込んで処理したのは、他ならぬ精霊たちだ。
実は、ルードヴィヒは数週間前から不審な行動をする者達に気が付いていた。
だが、自身が動くよりも早く、動いた精霊達に思わず舌打ちしたのは記憶に新しい。
自身が葬って良かったものを、少しの塵も形跡も残さず消し去られてはどうしようもない。
これではあの女(美和)の化けの皮も剥がれようがないではないか、とルードヴィヒは思わずため息を漏らすのだった。
だが、ルードヴィヒはそれと同時に、美和の本質も見たいと思い始めていた。
もしかしたら、他の人間とは違うかも知れない――それは、この短い期間を美和と過ごしてきて強く思ったことだった。
あの変わり者の猿、もとい美和。
怒ると恐ろしく顔を真面目に変え、種族の分け隔てなく怒り、笑い、一緒に悩み、泣く人間の女。あんな変な人間は見た事がない。
小さくため息を吐き出し、美和の顔を思い浮かべるルードヴィヒを見ながら、小さなネズミの王様は(ふむ……)と考える。
あのルードヴィヒが人間にそんな顔をするとは、これは珍しい、と。
王様は未だ、噂の「聖母(美和)」という人間に直接会ったことはない。
だが、最強の黒龍を従え、そして目の前にいる傲慢極まりない蛇族の長・ルードヴィヒの纏う空気の変化だけで、その女の規格外さは十分に伝わってきた。
「ん〜調査、対応、賠償ねぇ〜。おそらくマリアーレの狙いは、その『聖母』なる女性の身柄かな? 応じねば戦争の口実にされかねない。……まぁ、ボクとしては、あの国が自ら滅びの穴に飛び込んで消えたとしてもどうでもいいんだけどねぇ〜」
王様は手紙をパチリと机に叩きつけると、その愛らしいネズミの瞳を、獲物を狙う猛獣のように怪しく光らせた。
「無視する? どうすべきかな? 一応、『調査する』って送ろうかな? まぁ、あの国がどう出て来るか分かりきってるんだけどねぇ〜」
そう言った王様はニコッと笑う。
事実、外交親書を送り返してすぐ、間をおかずしてマリアーレ聖教国は「自らの者達を使い、現地を直接調査すること」を強く望んできた。
もちろん、美和の所へと向かうのは分かりきってのことだったし、こちらとしても賠償などするつもりははなからなかった。
「さて、聖母様はどうすると思う?」
「ふん……分かりきったことを。……俺は何も言わん。好きにするがいい。だがあの女、いや、周りの者達を怒らせれば、あの国がどうなるか……俺は知らんぞ」
ルードヴィヒはそう言い残すと、再び静かに影へと溶けるように姿を消した。
人間国の汚い罠を、逆にマリアーレを破滅させる呼び水にしようと企む獣人国の王。
何も知らない美和の元へ、国家を揺るがす不穏な輩が訪れるのはもう間もなく――。




