第45話:聖母のひんやりマフラーと、お留守番の犬たち
奇妙なことに、あれほどルードヴィヒの脳を内側から破壊していた「耐え難い頭痛」や、目の前が暗くなるほどの酷い眩気、全身の泥のような疲労感が、今朝は嘘のようにスッキリと消え失せていた。
だが、カゴの中で目を覚ましたルードヴィヒは、それどころではなかった。
天井を見上げれば、あの悪戯好きな赤の精霊どもが、何かを期待するようにソワソワ、ワクワクと身を揺らしている。
いつでも致死量の毒は己の牙に準備万端で、それが精霊に効くとは到底思えないが、やらないよりマシだと己に言い聞かせる。
警戒心が極限まで跳ね上がっているルードヴィヒは、自分の体調の劇的な快復にすら気づく余裕がなかった。
しかし、そんな白蛇を余所に、朝食の時間はやってくる。
なんとこのルードヴィヒ、持ち前の図太さか本能か、ちゃっかり美和から差し出された朝ごはん(パン)までしっかりと堪能していた。
「へぇ〜、こっちの白蛇様はパンまで食べるんだ〜、不思議! 私の世界だと、蛇って生きた鼠とかを丸呑みするイメージだったからさ!」
美和が何気なく放ったその呟きに、リビングにいた全員の動きがピタッと止まった。
一番激しく反応したのは、当然、カゴの中でパンを咀嚼していたルードヴィヒである。
(なっ……!? この猿、今なんと言った……! 俺が、い、生きた鼠を食すだと……っ!?)
蛇族のプライドが音を立ててへし折れ、白い身体を真っ赤に染めながら「シャーシャーーッ!!(俺は鼠など丸呑みせぬ!)」と全力で抗議の威嚇を繰り出す。
が、掌サイズなのでただの可愛い玩具にしか見えない。
「み、美和さん! なんと言う恐ろしいことを……!」
「え〜、だって私の世界では蛇ってそんな感じなんだよ?」
「……どんな世界だよ」
ビッツが素で引き、レオが呆れた声を出す中、一人だけ顔を青白くしてガタガタと震えている者がいた。
国から派遣されている隠密のコハクである。
コハクは青い顔のまま、手元の紙へ猛烈な勢いで何かを書き殴り始めた。
(経過報告! 聖母の危ない発言について。生きたままの鼠を丸呑みにする趣味がある模様。至急、我が国(鼠族の王)は警戒を――)
そこへ、背後から影のように伸びてきた手が、ヒョイとその紙を持ち上げた。
ビッツである。
「おっと、これは没収な?」
「あ! 私の仕事……!」
「はいはい、他の事なら報告していいぞ?」
「た、例えば?」
コハクが縋るように見上げると、焦げ茶の髪を揺らしたレオが口を開いた。
「そうだな〜。遥斗がもうすぐ一歳になるとか、掴まり立ちを卒業する寸前だとかでどうだ?」
「え〜……」
どっちかと言うと聖母様(美和)の情報を報告したいコハクは、少し嫌そうに不満げな声を漏らす。
そんなコハクの頭を、レオはフッと優しく笑って撫でた。
「コハク、遥斗は美和にとって、かけがえのない大切な宝だろ? 聖母の美和の『唯一無二』が遥斗だ。俺の言いたいこと、分かるか?」
その瞬間、ハッとしたコハクの目に鋭い光が戻った。
ハルくんをじっと見つめ、凄まじい高速の運筆で報告書を書き直し始める。
(経過報告書、隠密ナンバー589号。
聖母の一粒種のご子息、遥斗殿の報告。
髪はフワフワの猫族の毛質と同等の質感で手触り抜群。
大きく黒い瞳は母親譲りで大変神秘的であります! なお、ご子息に何かあれば『世界が滅ぶこと間違いなし』。
追加報告:どこからともなく白蛇を保護した聖母様。
レオ殿たちが調べてもただの蛇だということしか分からずじまい、どうやら精霊たちが何かを隠している模様。
私はこれが、獣人なのではないかと踏んでおります)
そんな、思い思いの賑やかな朝の風景が過ぎ
――やがて、美和がお店に行く準備を始めた。
当初、美和は白蛇をお留守番させるつもりだった。
「よし、行ってきます! あ、レオ。今日は昼からでおねがい!」
店番として一緒に行こうとしたレオだったが、美和にピシッと止められる。
「何故だ」
「……顔、疲れてるよ? 昨日寝てないでしょ」
レオはビクッと肩を揺らした。
実は昨夜、犬族の長(レオの父親)の使いが急にやってきて、ろくに眠れていなかったのだ。
気付かれていないと思っていたレオは、動揺を隠せない。
「ゆっくり休んで、お昼からお願いね〜」
にこやかに気遣う美和に、レオは「……わかった」と胸をジーンと熱くさせて感動していた。
「あ、お昼ご飯は棚に入れてるから! 白蛇様にも、ヒャァ!?」
美和が言いかけた、その瞬間だった。
カゴから解き放たれた白い閃光が、一瞬で美和の首元へと巻き付いたのだ。
「「美和!!」」
「聖母様!!」
(お、置いてなど行かせるものか……ッ! 俺も行く! もしかしたら、店先で何か問題を起こす(弱みを握れる)かもしれんからな!)
必死に意思表示をするルードヴィヒだったが、レオとビッツが慌てて引き剥がそうと手を伸ばす。
「離れろっ!」
「くっ……なんと言う力だ……!」
掌サイズとは思えない大蛇の締め付け(ルードヴィヒにとってはガチのホールド)に、犬族の2人は「こいつ、本当にただの蛇か?」と顔を見合わせた。
だが、当の美和はといえば、首元のひんやりした感触に顔をほころばせている。
「あはは、びっくりした〜! ええと、白蛇様? なんだかマフラーみたい〜、冷たくて気持ちいい!」
「「…………何を呑気な」」
一同が揃って呆れ顔になる中、美和はハルくんを抱っこし、首に白蛇を巻いたまま笑った。
「ん〜、大丈夫! 大人しいし、白蛇様も連れていくよ! さぁ、お店に出発だ〜!」
(※こうして、主役のルードヴィヒは意気揚々と現場から連れ出されたのだった。)
――そして、美和たちが家を出てから、わずか数時間後のこと。
充分に休み、リビングで寛いでたレオの耳が、ピクッと不穏な音を捉えた。
「……ッ!? おい、ビッツ! 誰か来る、それも……かなりヤバい気配だ!」
「えっ……!? 嘘、美和さんに客?それにしては……殺気がダダ漏れ!?」
2人が身構えた、その直後だった。
ガシャアァァァァン!!!
「坊っちゃまァァァァァァァーーーーーーっ!!!」
激しい音を立ててリビングの窓ガラスが木っ端微塵に割れ、そこから一人の老猿が凄まじい勢いで突入してきた。
使用人頭のナニー――ジィである。
「な、なんだお前っ!? 不審者か!?」
「美和の家を荒らすな!!」
レオとビッツが鋭い牙を剥いて威嚇するが、ジィは彼らなど目にも入らない様子で、鼻息を荒くしながら部屋中の匂いをクンクンと嗅ぎ回った。
そして、テーブルの上に残されていた、さっきまでルードヴィヒが寝ていた『空っぽのカゴ』に飛びついた。
カゴに残った、微かな、だが確かな主人の匂い。
ジィはその場にガタガタと崩れ落ち、空のカゴを抱きしめながらブルブルと激しく震え出した。
「ま、間違いない……ッ!! 坊っちゃまの尊い香りが、こんなところから……!!
嗚呼、可憐で美貌の坊っちゃまは、本当にここに監禁され、毛をむしられ、ひどい拷問を(注:妄想)……ッ!!」
限界突破した勘違いと怒りで、老猿の顔が般若のように歪んだ。
「おのれぇ……犬族の不届き者どもめ……! 坊っちゃまをどこへやった……ッ!!
……来い」
ジィが低く冷たい声で床を叩いた瞬間、割れた窓から、天井の隙間から、シュババババッ!と音もなく【影の暗殺集団】が部屋を埋め尽くした。
「おい!家具を壊すな!俺が怒られる!」
「あぁん!? やる気かよ、このクソジジイ!!」
「美和さんの家は、私たちが守る……ッ!!」
お互い一歩も引けない、勘違い100%のガチバトルの火蓋が、ついに切って落とされた。
(※なお、お目当ての坊っちゃまは現在、聖母のマフラーとして市場で涼を提供しております)
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