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戦えない母は赤ちゃん抱いて異世界にいた  作者: くじら


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第43話:蛇の長の憂鬱と、二時間並んだクッキー





――毛のない猿め。


 窓の隙間から、丘の上の屋敷に何度も何度もやってくるその『人間』を見下ろし、ルードヴィヒは冷淡にそう呟いた。


 無視しても、居留守を使っても、翌日にはまたやってきては門扉の向こうで一方的に何かを喋っている。


「……煩い猿だ」


その諦めの悪い根性だけは認めてやらんこともないが、如何せん、相手は大嫌いな人間だ。関わる価値もない。


「……わ、ワタクシめを……うるさい猿と……っ。坊っちゃま、ジィのことがそんなに鬱陶しかったのですな……!」


「しまっ――」


 背後から聞こえた涙声に、ルードヴィヒは慌てて振り返った。


 そこには、部屋に入ってきたばかりの使用人頭のナニー――人間で言う70を過ぎた老いた猿の獣人が、ショックのあまり耳をペタンと伏せ、シワの刻まれた顔を歪めていた。


「いや、ジィ、お前のことではない。今のは門の前の人間のことで――」


「はっ! 左様でしたか!


いやはや、ジィとしたことが、同じ『猿』ゆえに、てっきり自分のことかと勘違いしてしまいましたじゃ。お恥ずかしい!」


 すぐに涙を引っ込めてカカカと笑う老猿に、ルードヴィヒはドッと疲労を覚える。


 だが、ナニーはすぐに真面目な顔になり、心配そうに門の方向を見つめた。


「しかし坊っちゃま、あそこまで何度も来られては、万年寝不足の御身体に障ります。そんなにお嫌いなら、次からはジィがガツンと対応して追い返しますぞ?」


「……いや、ほっとけ。そのうち諦めるだろう」


 わざわざジィの手を煩わせるまでもない。そうぶっきらぼうに告げると、ナニーは「左様ですか」とそれ以上は追及してこなかった。


 だが、ルードヴィヒの予想通り、それから数日して本当にあの煩い猿は来なくなった。


 それで良かった。


俺の静穏が戻ってきた、ただそれだけのことだ。


 ――だが、煩い猿が消えても、この脳を内側から破壊するような「耐え難い頭痛」は消えてくれない。


(……酷い眩気だ。頭が割れる……)


 蛇族は本来、夜行性の種族だ。


だがルードヴィヒは、定期的に襲いかかるこの発作のような激痛のせいで、まともに眠ることすらできない。


万年寝不足。イライラは募る一方だった。


 この広大な屋敷には、数人の使用人しかいない。


ただでさえ人手が足りず仕事が滞っているというのに、外に目を向けば、失敗ばかりの新人、傲慢な同僚、足を引っ張ることしか脳のない無能な上司。


 この国(お役所)の面倒な書類整理など、正直好かん。


だが、俺以外にこれを捌ける者がいないのも事実。


イラ立ちと共に、満身創痍のまま書類にペンを走らせる日々。


 そんなある日の昼下がりのこと。


「坊っちゃま、最近働きすぎですぞ! ジィは心配ですじゃ!」


 仕事を止めない俺に、ナニーが鼻息を荒くして詰め寄ってきた。


差し出された小さなとうのバスケットを持つナニーの手は、長年この屋敷を支えてきた証のようにシワシワで、小さくかすかに震えている。


「それに昼も抜いてるのを知っておりますぞ! ほら、血の気が引き、頬が真っ白ですじゃ!」


「……ジィよ。俺を幼獣の時から知っているからと、その『坊っちゃま』呼びはやめろと言っているだろう。それに頬が白いのは元々だ。蛇族だからな……」


 ふん、と視線を逸らすが、ジィの目が「食べるまで引き下がりませぬぞ」とギラリと輝く。


「坊っちゃま!これは3日間限定試作品クツキーなるものですぞ!ジィは2時間も並び貰ってまいりました!」


 仕方なく、軽食にと差し出された『クッキー』なるものを一枚、口に放り込んだ。


甘い物は苦手なのだが、ジィ曰く「程よい甘さ」らしい。


(……、……確かに。ほんのり甘く、どこか優しい味わいだ)


 どこか懐かしいような、尖ったところが一切ない味。


満足そうにホッとした顔をするジィを見ながら、無意識にもう一枚、口へ運んでいた。


 そのクッキーが、あの「毛のない猿」が市場で配っていた物だなどとは、知る由もなく。


 不思議なことに、それを食べてから、いつも重かった身体が少しだけ軽くなったような気がした。


 ――その、3日後。


「なに? それは本当か?」


 俺が尽く【不可】を突き付けていた、あの人間の出店申請書類が、どうやら受理されたという報告が入った。


 調べると、どうやらあの『鼠の王』が裏から直々に動いたらしい。


王が相手では、一介の長である俺がどうこうできる問題ではなかった。


「……俺に関わらなければそれでいい。どうせ王の気まぐれだろう」


 重いため息と共に、再び書類に視線を落とす。


関わり合いたくない。


そう思いながら、日々は過ぎていった。


 さらに数日後。


恐れていた「その時」が訪れた。昼下がりのことだった。



「ぐぁぁぁぁぁ――っ!!」



 年に数回訪れる、我慢の限界を超えた激痛。


 凄まじい頭痛に人化を保つことすらままならず、俺は部屋中の高級な家具をビタンビタンと尾で振り乱し、破壊しながらのたうち回る。


シューシューと苦しい息を吐き出し、俺の身体は巨大な白蛇へと獣化した。


こうなればもう、誰の手も付けられない。


他の使用人はすべて本邸から避難させ、残ったのはジィだけだ。


ジィは、俺が狂ったように暴れ、悶え苦しむ様を、三日三晩、寝ずに見守り続けた。


「……坊っちゃまっ……、坊っちゃま……っ」


心配そうな、俺以上に苦しそうなジィの瞳。



3日後。ようやく暴れ尽くし、獣化が解けた俺は、骨の髄まで憔悴しきっていた。


ジィはそんな俺を甲斐甲斐しくベッドへ運び、世話を焼いてくれる。


「……ジィ……少し、寝る。お前も、少し……休め……」


掠れた声で告げると、普段なら頑として傍を離れないジィが、今日ばかりは限界だったのか、大人しく部屋を出ていった。


静まり返る寝室で、俺は深い昏睡へと落ちていく。


――だけど、事件はその数時間後に起こった。


(……!?)


微かな気配に、琥珀色の目がカッと見開かれる。


まだ頭痛の残滓で意識が朦朧とする中、鼻腔をついたのは、ここ数日嗅ぎ慣れていた、あの独特な――


(っ……人間……っ!? なぜここに、)


飛び起きようとしたルードヴィヒの視界の先。


ベッドの横で、見慣れたエプロン姿の女が、信じられないほど能天気な笑顔で首を傾げていた。


「あ、起きた〜」

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