第37話:黒龍のイジイジと、ハンバーグの密偵
勢いよく宿の窓から飛び出したものの、実は美和の作るご飯が恋しくて、街からあんまり離れられない黒龍ルゥ。
彼は街外れの静かで綺麗な川原にたどり着き、水面に映る自分の姿を凝視していた。
「……確かに、苔がすこーし生えておるが、ほんの少しぞ! それに酷い! 臭いなど……!」
水面をペシペシと短い前足で叩きながら、イジイジと独り言を呟く。
「ほんの少〜〜し臭うが、これは野生の誇り高き匂いぞ! 断じて黴や埃や沼地の匂いじゃないわ!
だいたい、我が眷属どもめ、我にあのような口を聞くなど! ここはガツンと威厳を見せるべきか!」
ハッと我に返ったルゥは、短い両前足を腰のあたりに当て、エッヘンと小さく胸を張った。
「よし、あ奴らが泣く泣く迎えに来たら、我の偉大さを知らしめてやる!
それまで我は絶対に戻らぬぞ! 今頃我が居らず、寂しがっているが良い!」
フンッと鼻を鳴らすルゥ。
しかし、どれだけ待っても、街の方向から美和たちが血相を変えて走ってくる気配はなかった。
一方その頃。
狐族の若き密偵――コハクは、激しい葛藤と戦っていた。
(家出した黒龍様が非常に気になる……。
だが、今は任務中! 対象者(主婦)から目を離すべからず……っ!)
ブンブンと狐の頭を振り、新居の窓に望遠鏡を向けて覗き込む。
ちょうど窓の向こうでは、美和が楽しそうに昼ご飯の料理をしている最中だった。
コハクはそれを、生唾を飲み込みながらガン見する。
窓の隙間から、信じられないほどジューシーで香ばしい、肉の焼ける匂いが風に乗って漂ってきた。
「あぁ〜……いい匂いがします……。
アレはなんと言う食べ物でしょうか。……くっ、私もお腹が空きました。
この匂いをおかずに……」
コハクが懐から取り出したのは、カチカチに干からびた携帯用の干し肉。
密偵の任務中に食すべき、携帯性に優れた、しかし味っ気の全くない食べ物だ。
その固い肉を口に放り込み、顎が痛くなるほど何十回と噛み砕いて柔らかくする。
コハクはそっと目をつぶり、五感をすべて美和の料理の匂いに集中させながら、自身の干し肉を咀嚼した。
「あぁ〜いい匂いです……食が進みます……。ここまで美味しそうな匂いがっ……! これだけで、この不味い干し肉が三枚は食べられます……!」
フフ、と幸せな恍惚感に浸り、パチッと目を開けた瞬間。
コハクの目と鼻の先に、信じられないほどふっくらと焼き上がった、肉汁の滴る謎の肉塊が浮いていた。
「……あぁ。とうとう、空腹のあまり幻覚まで見えますぅ〜」
コハクはトロンとした目で呟いた。
もちろん幻覚ではない。
美和の周りにいた精霊たちが、お肉のいい匂いに釣られて木の上にいたコハクを見つけ、悪戯で美和の作った料理をフワフワと目の前にチラつかせているのだ。
「あぁ〜……とてもいい匂いです。とっても美味しそう……」
フラフラする頭。
魅惑的な匂いに完全に思考を奪われ、コハクの手が吸い寄せられるように伸びる。
だが、精霊たちはそれを見越したように、コハクの手をすり抜けて手料理を浮かせる。
目の前に来たと思ったら、スカッと手からすり抜けるフワフワ。
「くっ……おのれ……幻覚と言えど腹が立ちます!」
あぁ、食べたい! 食べたいです! あの茶色くて丸い、魅惑の肉の塊――『ハンバーグ』とやらを!
コハクが必死に手を伸ばし、届きそうになると、精霊たちは「クスクス」と楽しそうに笑いながら料理を遠ざける。
「待ちなさい、幻覚……っ!」
徐々に離れていくハンバーグを追いかけるように、フラフラと木を降り、塀をよじ登り、気付けば新居の窓枠に手をかけ――。
部屋の中へ入り、テーブルへピョンと登って、その料理に手を伸ばしたところで、コハクはハッと正気に戻った。
目の前には、出来立て熱々の美和特製ハンバーグ。
そして、自分に集まる、複数の刺さるような視線。
天井付近では、精霊たちがお腹を抱えて大爆笑している。
「「「…………」」」
やってしまった。
完全に不法侵入である。密偵として万死に値する大失態――。
コハクが恐怖で硬直した、その瞬間だった。
「か、可愛いぃぃぃーーー!」
美和の黄色い悲鳴が響き渡った。
「キャー! 可愛すぎる! ハンバーグ食べたいの? てか狐ってハンバーグ大丈夫かな!? 異世界だから大丈夫なのかも! レオ、どう思う!?」
「こ、こーん……っ!」
想定外の熱烈な歓迎にパニックになったコハクは、獣の姿のままなので人間の言葉が喋れない。
アタフタとハンバーグを一瞬だけ名残惜しそうに見つめ、猛スピードで窓から逃げ出していく。
「あ〜! 待って狐ちゃーん! モフらせて〜!」
美和はスリッパをパタパタ鳴らしながら窓辺に駆け寄り、名残惜しそうに遠ざかるコハクの背中を見つめた。
――その姿を、少し離れた大木の陰から見つめる、一対の鋭い瞳があった。
家出龍のルゥである。
中々迎えに来ない美和たちに痺れを切らし、「様子を見てやるだけぞ」とコッソリ街に戻ってきていたのだ。
窓辺の美和は、逃げ出したコハクの進行方向に視線を向け、優しく声を張り上げた。
「子狐ちゃーん! ここにハンバーグ置いとくから、よかったら食べてねー!」
近くで見守っていたら、怖がって戻ってこられないかもしれない。
そう気遣った美和は、お皿を窓の外のウッドデッキに置き、部屋の奥へと引っ込んだ。
数分後。
そっと茂みから這い出てきたコハクは、ハンバーグの圧倒的な誘惑に負け、ゴクリと生唾を飲み込むと、周囲を警戒しながらも勢いよくハグハグと食べ始めた。
それを見つめるのは、もちろん木の上の黒龍。
小さな黒い身体を、フルフルと激しく震わせる。
(な、な! なんだアレはぁぁぁ!)
美味しそうに美和の料理を貪る子狐を凝視し、ルゥの瞳に嫉妬の炎が灯る。
(美和の料理……っ! 我の料理……っ! 我のハンバーグではないのか!!)
新居の部屋の中からは、美和たちのヒソヒソ声が漏れ聞こえていた。
「キャー、食べてる食べてる! 可愛いぃ!」
「お、おい、美和。あの獣は……」
「ちょっと待ってレオ! ほら、ハルくん見てごらん、狐さん! 可愛いねぇ……ハルくんの次に!」
その言葉が、ルゥの逆鱗に完全に触れた。
(な、何だと……!? ハルの次に可愛いのは、断じて我ぞ!!)
(おのれ〜〜! あの新参の泥棒狐めぇ!!)
満足そうにハンバーグを完食したコハクは、ハッと我に返り、「大変な機密を摂取してしまいました……」と急いでその場を後にする。
それを見下ろしながら、ルゥの脳内で恐ろしい結論が弾き出された。
(さては、あの狐……!
美和のペット(家族)の座を狙っておるな!?)
「くっ……許せん!!」
ルゥの小さな胸に、かつて世界を震撼させた災厄の黒龍としてのプライド(※ただし方向性は迷子)が蘇る。
「美和とハルのペット……いや、家族は我ぞーーーっ!!!」
バサッと翼を広げたルゥは、もはや現役時代の豪速球ばりのスピードを叩き出し、空気を切り裂いて突撃を開始した。
目指すは、今まさに逃走中のあの子狐!
その頃コハクは、近くの藪の中に身を隠し、「(緊急報告です! 対象の放つ謎の肉塊『ハンバーグ』の美味さは、我が隠密スキルを無効化するほどの精神汚染兵器……っ!)」と、興奮冷めやらぬ手つきで必死に報告書を書き殴っていた。
そこへ、シュンッ!!! と凄まじい風の音を響かせ、上空から何かが舞い降りる。
それは天災級の魔物か、はたまた黒き神と崇められる絶対的な存在か。
凄まじい眼光(と、ほんのり野生の苔の匂い)を纏い、目の前に現れたその者の名は――黒龍ルゥ!
「こ、こーん……!?(な、何奴ですかー!?)」
筆を止めた子狐コハクの前に、最強のライバルが立ちはだかった。




