稲森篤子の我儘
「はぁぁぁぁ……」
稲森 篤子は憂鬱そうな顔をしながら大きくため息をついていた。
「あれ? どうしたんですか、稲森さん」
その声を聞きつけた同僚の西 敬之が稲森に声をかける。
「んー? いや、言わなくても分かるでしょ?」
そう言って稲森は目の前に置かれたゲージを指さした。
稲森と西はある製薬会社に勤めており、彼女たちは入社してからずっと、実験に使うマウスの世話係を任されていた。
6年間大学で必死に勉強し、SやAの評価で成績表を埋め続けた稲森にとって、この仕事は決して満足が出来るものではなかった。彼女としては色々な薬を混ぜて、マウスを使う側の仕事がしたかったのだ。
「明けても覚めてもマウスマウスマウス……いい加減嫌になるわ」
「そうですか? 僕は好きですけどね、こういうの」
そう言って西はネズミを掴んで、空の別のケースに移していく。増え過ぎたネズミは住むスペースを得るために共食いを起こしてしまうため、このように定期的に別のケースに移していく必要があるのだ。
「いいねぇ、西くんにはこれが天職で」
ニコニコとしたままネズミを掴む西を見て、稲森は皮肉を吐いた。
この仕事に就いてから3年。最初は研究のためだけに生かされているネズミに一種の同情の念も覚えていた。しかし最近では……
「全く……こんなネズミなんかさっさと死んでしまえばいいのに。そうすれば私もちゃんとした実験が出来る部署に異動出来るのに」
殺意すら覚えていた。
「まあまあ。こうやって僕たちが世話をしてないと新薬ができてもちゃんと効くのか判断することは出来ないんですから……」
「私は! 裏方じゃなくて表舞台をやりたいの! 実験に使う道具を用意するんじゃなくて、実験で使う側をやりたいの!!」
なだめてくる西に逆ギレした稲森は机を思いっきり叩いて立ち上がった。
「い、稲森さん!? どこに行くんですか!?」
「今日は早退する! そう主任に言っといて!」
手にはめていたビニール手袋を脱ぎ捨て西にむかって放り投げると、稲森はさっさと部屋から出て行ってしまった。取り残された西はため息をつくと先ほどの衝撃で慌てふためいているネズミにむかって話しかけた。
「全く……あんな癇癪を起こしても何も変わらないのにな」
その言葉の意味が分かったのか、そのうちのネズミの一匹が西の顔を見るとチチッ、と小さく鳴いた。
ーーー
それから6時間ほど経った頃。稲森はヤケ酒のせいで少しだけ赤くなった顔をしながら、最寄りの駅に降りたっていた。
「……また行方不明者増えたんだ」
普段は絶対に見ないであろう交番横の掲示板を見ると行方不明者の写真は7人に増えていた。この行方不明者の共通点は普段ニュースを見てない稲森でも知っていた。
「あのぅ……」
振り返るとそこにはまだ警官になって間も無いのか、オドオドした様子の若い警官が稲森を見ながら自転車から降りていた。
「なんですか?」
「実はその事件について色々な方に話を聞いているのですが……いつもこの時間の頃にここに降りてますか?」
「いや……いつもはもう少し早く帰ってきてます」
「あ、では3日前にこの近くで不審な方を見ませんでしたか?」
「不審な人、ねぇ……」
稲森は首を捻りながら、昔見た怪しげな人物を思い出そうとした。そして……思いあたった。
「そうだなぁ……。3日前ではないんだけど、1週間前になら……」
「1週間前ですか?」
「はい……なんか駅の前で品定めをするように人を見てる男性がいたんです」
「品定め……ですか。ちなみにその男性の服装とかは覚えていますか?」
「あ、それは覚えてます。白衣を着てました」
「白衣……そうですか。情報ありがとうございました!」
警官は敬礼しながらはじけるような笑みを稲森に見せると、自転車に再び乗ってその場から去っていった。おそらくこの後も、他の人に同じ質問をするのだろう。
(……私にもあんなキラキラしていた時期があったなぁ)
稲森は物思いにふけながら、若い警官を見送った。
鼻歌混じりに住宅街の路地を歩いている稲森の後ろを気づかれないように1人の、白衣を身につけた男が近づいていた。
音を出すことなく稲森をつけている男は懐から注射器を取り出すと一気に走り出した。
そして稲森の口を後ろから塞ぐと、羽交い締めにしながら押し倒した。
「ん、ん〜〜!!」
稲森は抵抗しながら後ろを見ようとした。しかしその刹那、頚動脈めがけて注射針がうたれた。
「んぐっ」
「動かない動かない。そーそー、素直が一番だよー」
刺されたショックで動きを止めたのをいいことに、男は注射器の中の液体を稲森の体内に注ぎ入れた。そして中身が空になったのを確認すると注射器を抜き、懐に戻しながら立ち上がった。
体を押し付けていた物がなくなったことで自由を取り戻した稲森はすぐに起き上がると即座に男から距離をとった。
「はぁっ、はぁっ……!」
「ふふふ。そんなに警戒しないで大丈夫だよ。すぐに終わるからさ」
「な、何が終わるのよ」
「んー、君が人間でいられる時?」
男がそう笑いながら言った瞬間、稲森は背中に何とも言えない寒気を感じ、その場から走り出した。ここにいたら危ない、その直感が稲森を駆り立てていた。
しかしその抵抗も25メートルもたたないうちに終わった。心臓が飛び上がるような感覚に襲われた稲森は歩みを止めた。
「な、何……?」
立ち止まっても、まるで長距離を走り切った後のような大きな鼓動は収まらない。
「おいおい、急に走り出したらダメじゃないか。ちゃんと君が変化していく様子を見せてもらわないとー」
文句を言いながら男は再び稲森に近づいた。そんな男を避けるように稲森は後ろに下がった。そんな稲森の姿を見た男は笑みを浮かべながら言った。
「お、薬が回ってきたみたいだよ、ほら……」
「……?」
指さされた自分の腕を見た稲森は悲鳴をあげた。
「な、何よこれぇ!!」
稲森の腕にはシャツ越しでもわかるほど、大量の茶色の毛が生えていた。慌てて稲森は袖口にあるボタンを外そうとしたが、突然、脚の力が抜けたせいでそれをすることは出来なかった。
「あ、あれ? なんで、私……」
壁に寄りかかり、体勢を直そうとする稲森の体から骨が軋むような音がし始める。程なくして稲森は壁に寄りかかることすら負担になり、その場に蹲った。
「ど、どうして、脚が……」
稲森は電柱にしがみついて必死になって立ち上がろうとしたが、いくら力を込めても膝を伸ばすことができなくなっていた。その間にも脚は縮んでいき、内転筋は膨らみ発達していった。
しがみつくことすら困難になった稲森が前屈みになって、路面に手をつけると腕も縮んでいった。その代わりに体は大きく膨張し、服を弾き飛ばした。
「き、キャァァァァァッ!!!」
自分が裸になってしまったことに気づいた稲森は悲鳴をあげて自分の胸を隠そうとした。しかしその姿は人間の物と言える物ではなかった。
満遍なく茶色の毛に覆われた尻から肌色の鞭のような尻尾が生えてくる。そして顔が前にせり出しながら細長くなっていくと体を覆っている物と全く同じ色の毛が生えた。
偶然、自分の姿が映っていたカーブミラーを見た稲森は自分の姿が普段職場で嫌になるほどに見ているアレに変化しているのに気づいて喚き出した。
「イ、イヤ、イヤダ、ネズミナンカニナリタクナイ、ナリタク……」
最後に人間らしさを残していた耳が大きく広がっていく。その変化が終わると、そこにいるのは人間ではなく、人間と同じぐらいの大きさのネズミとしか言えなかった。
「ナチ、ナチ、チュー、チュー……」
稲森は何かを言おうとしたが、口から出たのはネズミの鳴き声だった。
「ふふふ、もう完全なネズミになったね。……大きさは段違いだけど」
稲森は自分の身に起きている事態を信じたくないのだろう、目に涙をためながらブンブン首をふった。そんな様子を男は嬉しそうに眺めていた。




