倉木茜の抵抗
「……今日も渡せなかったなぁ」
学校指定の赤いジャージを着た倉木は電車に揺られつつ、記名済みの退部届を眺めていた。
河合に見透かされた後も倉木は、練習は休むことなく参加し、記録もちょくちょく更新していたが、どうしても同級生や先輩との温度差を払拭する、もしくは気にしないようにすることは出来なかったのだ。
そして先週頃から倉木は退部届を顧問に出そうと、書いて持ってきているのだが、渡すタイミングを逃し続け、結局持ち帰ることになっていたのだった。
「……なんだかんだ言ってちゃんとした所で走れることに愛着わいてきちゃってるのかなぁ」
渡せなかった原因をそう理由づけると、倉木は頭を後ろの窓ガラスに軽く当てた。ゴン、という重い音がしたわりには痛みは軽かった。
(この調子だとまた明日もあるから、とかいってズルズルつづけちゃいそうだなぁ)
倉木が心の中でそうつぶやいた頃、電車は目的地の前の駅のホームに滑り込んでいた。
「今駅着いた。あと10分くらいで帰る」
そう母親の携帯にメールすると、倉木は軽く伸脚運動をしてから家にむかって走り出した。
タッタッタッ、と規則正しいリズムで走ること数分後、大きなお屋敷の竹林の横を走っていると、正面からこの場所には不似合いな白衣を着た男が歩いて来た。普通ならすれちがっておしまいだが、この時は違った。
男は倉木の姿を見るとニヤリと笑い、懐から液体のような物が入った注射器を取り出した。
それを見て、嫌な予感がした倉木は来た道を急いで引き返したが、その先にはすでに男の姿があった。
「えっ!?」
倉木が慌ててブレーキをかけると、男は一瞬で近づき、右手で首を掴むとそのまま倉木の体を持ち上げた。
「グッ……は、離せっ!」
息苦しさを感じながら、倉木はなんとかして手を振りほどこうと、両手で男の手を掴んだり、足をジタバタさせたりした。
しかし男は全く動じず、お留守になっていた倉木の首に注射器を突き刺した。
「動かない方がいいよ? 太い血管に傷ついちゃうと大量出血に繋がるからねぇ……」
シリンダーが押され、体の中に液体が入っていく。すると倉木の体から一気に汗が噴き出してきた。それを見た男はふいに口を開いた。
「君、何にも縛られること無く思いっきり走ってみたい、と思ったことありますか?」
「お、思いっきり……?」
「そう。例えば……馬になって大草原を自由気ままに走ってみたいとか」
「馬……?」
そう倉木が聞き返すと、突然倉木の心臓が緊張したかのように大きく高鳴った。すると男は首から手を離し、確信を持ったかのようにうなづきながら言った。
「フフフ……やはりそう思っていましたか」
「なっ……勝手に決めつけないで下さい!」
自由になり、その場にへたり込んでいた倉木はそう気丈に言い返したが、次の瞬間「ミシッ」という音が聞こえた。
「えっ?」
「さぁ、君の願いが叶う時が来たよ?」
その言葉が合図だった。
まず倉木が気づいたのは、さっきまでちょうどいいサイズだったジャージの袖がどんどん短くなっていくことだった。しかしそれは、正確には自分の腕がどんどん伸びていることを表していた。
「な、何これ!?」
倉木の驚愕をよそに、伸びていく腕には血管が浮き始め、同時に筋肉がつき始めていた。
血管と筋肉の発達は腕だけに留まらず、全身に広がっていた。筋肉がついていくことで、倉木の首から足まで薬をうたれる前よりも太く、大きくなっていき、その結果、サイズが全く合わなくなったジャージは倉木の体を容赦無く締め付け始めていた。
「ううっ、ゲホッ、く、苦しい……!」
体の変化による物か、小さくなったジャージによる物かは定かではないが、息苦しさを感じた倉木はその場にうずくまった。
すると必死に体の変化に耐えてきたジャージが爆散したかのようにビリビリに破けた。そこで露わになった倉木の肌には筋肉による筋が何本も走っていた。さらに服に隠れているかいないかの差か、倉木の肌は日焼けしてる部分としてない部分でくっきりと色が分かれていたが、そんなことを気にしない勢いでこげ茶色の毛が満遍なく生え始めていた。
「は、はぁっ、はぁっ」
あまりの苦しさにジャージが破けたことに気づいていない倉木は、楽な体勢を取りたいのか、目をつぶりながらうつ伏せになった。
すると脚と同じぐらいまで伸びていた腕の先にある手が膨れ上がり、皮が破けるとそこから黒い蹄が顔を出した。そして辛うじて繋がっていたパンツの破れ目から黒い尻尾が現れた。
「うぐっ、ああっ……!」
若干擦り切れ始めていた靴底が外れ、そこからも黒い蹄が現れる。また細く引き締まっていた腹は少しずつ膨れ始めていた。
「ひぃ、あっ、ふぅ……」
呼吸が楽になったのか、4つ足でふらつきながら立とうとする倉木は頭を除いて、完全に馬の姿になっていた。そんな倉木の姿を見て、男は笑みを浮かべた。
「うんうん、体だけは立派な馬になったね」
「体だけは、って、私は、馬なんかに……あっ!?」
突然上がり始めた視界に、抗議しようとした倉木は軽い立ちくらみを起こした。
首の伸びが止まった時、倉木の目線は男よりも高い位置にあり、伸びきった首の背面には黒い鬣が生えていた。その鬣を触りながら男は優しく言った。
「さぁ、あとは顔だけだよ? 体が望むままに立派な雌馬になりな」
「い、嫌だぁ……!」
自分が自分でなくなっていく感覚に、倉木の目に涙が浮かんだ。すると先ほどまで体を包んでいた熱が急に冷めていくような感覚が起き始めた。
「……反応切れか。まだまだ捧げ物までの道は遠いな」
男はそうつぶやくと肩にかけていたカバンから銀光りする何かを取り出し、倉木の口に突っ込んだ。
「フギャッ、にゃ、にゃに!?」
口内に入った異物のせいで、倉木はうまく喋れなくなった。異物にはロープが繋がれており、もう一方は男の手に握られていた。
「さぁ、君の新しい住まいに向かおうか」
「ふぃ、ふぃあだ〜〜!」
そう言って男はロープを引っ張ると倉木はそれを真っ向から拒絶し、力任せに男が向かう方向とは逆に進み出した。
すると体格や力の差で、男は逆に引きづられ始めた。しかしその顔には余裕が残っていた。
「君、このまま逃げようとしてるけど、これからどうするんだい?」
「ひょ、ひょうするっへ!?」
「君のその外見では人間社会に戻ることも牧場にこっそり紛れ込むことも不可能だ。良いとこ、特異な病気にかかった患者として病院に隔離されるぐらいじゃないかな?」
倉木は足を止め、そんなことはない、と否定しようとしたいのか、振り向いてきっと男を睨みつけた。男は全然気にしてないようでヘラヘラ笑いながら続ける。
「僕の作った薬は誰も解毒方法を知らない。解毒剤が見つかるまでずっと病院の一室に閉じ込められて薬漬けの生活を送るよりも、僕の研究所で自由気ままに走り続けられる方がずっと有意義じゃないかい?」
男が勝ち誇ったように言うと、しばらく唸った後意気消沈したのか、倉木は無言でガックリと顔を落とした。
「さぁ、これで文句は無いね?」
男がロープを引く。倉木にはもう抵抗しようとする気は残っておらず、なされるがままトラックのある所まで連れて行かれた。
涙を流しながら歩く倉木を荷台に入れると、男は念のため逃げられないように扉を厳重に、何重にもロックした。
「しっかし、この間の牛といい、その動物と共通する点があると、そっちに変化していく傾向があるみたいだな。それが分かっただけでも収穫かな」
男は汗を拭い、満足そうにうなづくと運転席に入り、エンジンをかけた。




