05 リュミーのいる部屋
夜になり、ようやく仕事が終わった。
ミレイユは食堂から歩いて五分ほどの場所にある、裏通りのアパートメントへ戻る。
三階建ての古い集合住宅で、外壁の煉瓦は色褪せている。一階は倉庫、住居は二階と三階だけという造りだ。
ミレイユの部屋は二階の奥。派手さはないが、今の暮らしにはちょうどいい。住む場所があるだけでも、十分ありがたい。
「ただいま――」
そう口にしたところで、扉の向こうから白い塊が勢いよく飛び出してくる。
むぎゅっ。
顔面いっぱいにふわふわしたものがぶつかり、視界が一瞬で白に埋まった。
「ふふ……リュミーったら」
ミレイユが名前を呼ぶと、白いもふもふは満足そうに「きゅいっ」と鳴き、ようやく床に着地した。
長い耳をぴんと立て、くるりと一周。全身で帰りを喜んでいるのが伝わってくる。
「今日もいい子にしてた?」
「きゅう!」
ミレイユがしゃがんで撫でると、リュミーは喉を鳴らすような声を出し、ぴったりと寄り添ってきた。
リュミーは、五年前に領地の森で出会ったウサギの魔獣だ。
当時はまだ手のひらに乗るほどの大きさで、怪我をして動けなくなっていたところをミレイユが拾い、手当をしたのだ。そうしたら、なぜかそのまま懐いてしまった。
(森に帰りなさいと何度も言ったけど、帰る気配がまったくなかったのよね)
気づけば屋敷に居つき、ミレイユの後をちょろちょろとついて回るようになっていた。
父も最初は困った顔をしていたが、害はなさそうだからいいだろうと、のんびり笑っていた。
(天気のいい日は、窓際のロッキングチェアで眠るお父様の膝の上で、リュミーも一緒に寝ていたっけ……)
ふたりとも、とても幸せそうだった。
今はもう遠い、あの日々の記憶。
「リュミー。今日はね、大変なことがあったんだよ」
「きゅい?」
ミレイユはキッチンに籠を置き、手を洗いながら話しかける。
包丁とまな板を出して夕飯の支度を始めると、リュミーは足元でくんくんと鼻を動かした。どうやら籠の中身が気になっているらしい。
「噴水が爆発しちゃったの。整備、ちゃんとしてなかったのかなあ」
「きゅきゅ〜」
首を傾げるリュミーに、笑みがこぼれる。
ちゃんと話を聞いてくれているような気がして、ひとりでも寂しさは感じなかった。
「でもね、いいこともあったんだよ。ほら」
棚から取り出した瓶を見せると、赤く艶やかないちごジャムに、リュミーの目がきらりと光る。
「きゅ!」
「アデラさんが、分けてくれたの」
どうやら、おつかいで頼まれた分には、最初からミレイユの分も含まれていたらしい。
それに気づいたときは、驚いてしまった。
瓶を棚に戻し、パン籠から丸パンを二つ取り出す。
鉄網を火にかけてパンを乗せると、表面がじわりと色づき始めた。ぱちぱちと音が立ち、香ばしい匂いが部屋に広がる。
焦げすぎないようにひっくり返すと、外はかりっと、中はふんわりと仕上がりそうだ。
鍋では、さっと湯通しした腸詰を温める。皮がぱんと張り、ほどよく脂が浮いたところで引き上げ、皿に並べる。
温め直したスープと一緒にテーブルに並べる頃には、部屋いっぱいに食欲を誘う香りが満ちていた。
料理は好きだ。術式と同じで、組み立てが重要だから。
「いただきます」
「きゅーん!」
いちごジャムを載せたパンを口にした瞬間、リュミーがぷるぷると震えた。
耳の先まで揺れ、次の瞬間、ぱちっと雷光が弾ける。
嬉しすぎると、魔力が抑えきれなくなるらしい。
普通の兎と違い、特に食べられないものはなく、なかでも甘いものと野菜が大好きだ。
「ふふ、おいしいみたいだねえ」
ミレイユもパンをかじる。
甘酸っぱいいちごの味が広がる。
静かな部屋で、リュミーと並んで食べる夕ご飯。
それだけで、一日の疲れが和らいだ。
食事を終えると、ミレイユは軽く袖をまくった。
「さて、と」
指先を動かし、空中に術式を描く。
重ねた食器に淡い光が走ると、こびりついた油汚れがするりと浮き上がり、まとめて流しへ落ちていった。
誰に見られることもないこの部屋の中では、ミレイユは付与術を咎められることなく使える。
足元で見上げていたリュミーが、感心したように「きゅう」と鳴く。
「そうだ。前に本で読んだ真空の術式を試してみようかな」
ミレイユは棚に残ったいちごジャムの瓶に目を向け、思いついたように指先をかざした。
瓶の内部の密度を上げて、長期保存ができるように。そう考えながら、瓶に術式を刻んでゆく。
「これで、毎日おいしいはず」
満足そうに頷くと、リュミーが嬉しそうに跳ねた。
その拍子に、小さな雷光がぱちっと弾ける。
「もう、びっくりするから」
そう言いながらも、ミレイユの表情は柔らかい。
この部屋では、魔法は危険なものでも、特別なものでもなかった。
工夫して、暮らしを楽しくするためのものだ。
ベッドに腰を下ろした途端、肩の力が抜けた。
一日中動き回っていた疲れが、遅れて押し寄せてくる。
明日も朝は早い。
ミレイユは考える間もなく、リュミーを抱き寄せた。
ふわふわの毛並みに頬を寄せると、まぶたが自然と重くなる。
「……明日も、がんばろうね」
まだまだがんばって働かないと。そう呟いた声は、最後まで形にならなかった。
リュミーが丸くなった頃には、ミレイユの呼吸もすでに深くなっていた。
灯りを落とした部屋に、穏やかな夜が降りた。




