04 窓越しの噂
(……よし)
人目の少ない裏通りへ入り、籠を下ろす。
泥水で汚れたスカートの裾を見て、ミレイユは息を吐いた。
「清浄」
指先を動かすと、淡い光が術式を描き、スカートの汚れは音もなく消えていく。
布地は元の色を取り戻し、冷たい湿り気も残らない。
できてしまう。
それが、余計に胸を締めつけた。
父から学んだ魔術。本当は、もっと人の役に立つ形で使いたかった。
(こんなふうに、泥水で汚れた服を綺麗にするためだけじゃなくて……あの噴水を修理するみたいに、ちゃんと仕組みを整えて、街の役に立つ術式を――)
でも、できない。
無資格のミレイユは、付与術を公的に使うことを許されていないのだ。この国では、魔導具の修理や調整は誰にでも許されている行為ではない。
魔力を扱える者は魔術師と付与術師に分けられる。魔導具に直接干渉することを許されるのは、学校を卒業して資格を与えられた者だけだ。
魔導具は便利で、生活を支えるものだけれど、同時に危険も孕んでいる。術式の組み方を誤れば、今回のような暴走や爆発を引き起こし、人命に関わる事故になる。
だからこそ、この国では技術と資格が結びつけられ、無資格者の介入は重罪とされていた。
唇を噛みしめた拍子に、視界が滲んだ。
悔しい。どうしようもなく。
「……っ」
こみ上げてきそうになる涙を堪えて、ミレイユはぶんぶんと首を振った。
両手で自分の頬を軽く叩く。
(だめだめ。泣いても、何も変わらないでしょう)
ひんやりした感触に、頭が冷える。
胸の奥で、言い聞かせるように呟く。
(今できることをやるって、決めたじゃない)
深く息を吸って、吐き出す。滲みかけていた視界が、はっきりしていく。
ミレイユは顔を上げ、背筋を伸ばした。今はまだ届かなくても、前を向くしかないのだ。
その場を離れようと足を向けた、そのときだった。
「あーあ。最近、多いよな。魔導具の不具合」
「噴水だけじゃない。街灯も、水回りもだ」
すぐ近くから、抑えた声が落ちてきた。
驚いて視線を巡らせると、裏通りに面した建物の一階、その壁際にある小さな窓が細く開いていた。
どうやら、室内で交わされている会話がそのまま外へ漏れているらしい。
(早く、行かないと)
ミレイユは反射的にそう思った。
人目の少ない裏通りとはいえ、盗み聞きをするつもりはない。
「テオールさんがいた頃は、こんなことなかったのにな」
その名前が出た瞬間、ミレイユの身体が、ぴしりと固まった。
(……お父様の、名前だ)
息をするのも忘れて、足が動かなくなった。
「リーヴェル所長は、定期点検も調整も完璧にしてくれてたからな。下町にまで出向いてさ」
「いい人だったよなあ。結界石の事故のせいで追放されたんだっけ?」
「ひどい話だよ。元伯爵令嬢が、今じゃ食堂で働いてるんだぜ」
「可哀想だよな、ミレイユちゃん」
憐れむような口調に、胸がきゅっとする。
働いていることを恥じたことはない。それでも、こうして同情されるのは、まだ慣れない。
「でもさ、お前。あの噂知ってるか?」
「噂?」
「あの時の事故を今の所長が仕組んだんじゃないかって話。そう言ってた所員がいたらしいぞ。そんで、その人も解雇されたとか」
「へえ。お貴族サマにも色々きな臭いモンがあるのかねえ。よし、午後の作業するか」
一通り話した後、男たちはその部屋を離れたのか、声は聞こえなくなった。
息が詰まって苦しい。
(……あれが、仕組まれた事故だった?)
心臓が、大きく脈打った。
事故の直後、真っ青な顔でベッドに横たわっていた父の姿を思い出す。
それから、そんな父には一瞥もくれずに立ち去ったかつての兄弟子、ルシアン。
今の王立魔導研究所の所長は、そのルシアンだ。食堂に置いてあった新聞で、リーヴェル家の財産や地位をほぼ引き継ぐ形で、ベルトラン子爵家は伯爵家に陞爵したということを知った。
ミレイユは、籠を握りしめたまま、動けずに立ち尽くしていた。
今まで抑え込んできた疑念が、確かな形を持ち始める。
(お父様は、失敗なんてしないもの)
それは、信じたいという曖昧な気持ちではなく、知っているという感覚だった。
もし、本当に事故じゃなかったとしたら。
ミレイユは息を吸い込んだ。
(わたしも、真相が知りたい)
籠を持つ手に力がこもる。そこでミレイユは我に返った。アデラの用事をまだ済ませていない。
「ジャム、まだ残ってるかな……!」
籠を抱え直したミレイユは、裏通りから通りへと小走りに出る。
石畳を踏みしめ、行き交う人々の間をすり抜けていく。
胸の奥に残るざらついた感情を振り切るように、ただ前だけを見て。
◇
「あれは……」
噴水の検分を終え、周囲に指示を出していたレオナルド・ヴァレンティンは視線を上げた。
人混みの中を急ぎ足で進む、小さな背中。
質素な服装。それでも、迷いのない足取りだった。
「ヴァレンティン指揮官!」
低く抑えた声に呼び止められ、レオナルドは視線を戻した。
部下の一人が、手にした記録板を胸に抱えて一礼する。
「噴水の制御核ですが、術式に大きな破損はありません。経年劣化による誤作動の可能性が高いかと」
「……改修履歴は?」
「最後の更新は、半年以上前です。本来であれば、三か月ごとの点検が必要なはずですが」
報告を聞きながら、レオナルドは短く息を吐いた。
どこかで歯車が狂っている。そんな違和感が、胸の奥に残る。
「分かった。調査を続けてくれ」
部下が去ったあと、レオナルドはもう一度だけ、人混みの向こうを見やる。
だが、先ほどの小さな背中は、すでに見えなくなっていた。




