23 不審者
その日の夕刻。ヴァレンティン侯爵邸の厨房には、甘い匂いが立ちこめていた。
「よし……!」
ミレイユは布巾を両手に持って、型を傾ける。湯気とともに、キャロットケーキがするりと落ちた。焼き色は上々だ。指の背で押すと、しっかり弾き返してくる。
足元では、リュミーが人参の端切れを一心にかじっていた。
「そんなに好き?」
「きゅい!」
嬉しそうなリュミーに、ミレイユは顔を綻ばせる。
粗熱が取れたら、あとは砂糖と卵白を混ぜたアイシングを塗るだけだ。
(お世話になっている以上、何かお返しをできたらいいのだけれど)
衣食住に加え、父の療養費もレオナルドが肩代わりしてくれている。補助という役職はもらったけれど、それもミレイユが自由に部屋を使って良いことになっている。
以前、レオナルドは料理を作ってくれと言っていた。だから、せめてものお礼としてこうして厨房を使わせてもらっている。
侯爵家で提供されているリュミーとミレイユの食事にも、人参はよく出てくる。だからきっと、レオナルドも好きなのだと思った。
それに、キャロットケーキは母がよく焼いてくれたものだった。厨房に立つ母カロリーナの隣で、型に生地を流し込むのを手伝った記憶がある。
(レオナルド様、喜んでくれるといいな)
ケーキを皿に移し終えたところで、玄関の方から車輪の音が聞こえた。
ミレイユは布巾で手を拭き、前掛けの裾を握って、小走りにエントランスへ向かう。出迎えるのは初めてだった。彼の帰りはいつも遅く、扉が鳴る音を自室で聞いていることの方が多い。
(使用人のみなさんと並ぶべきなのかな。それとも、後ろに控えるべき?)
あわあわと迷っているうちに、扉が開いた。
「おかえりなさいませ!」
思ったより声が弾んでしまい、レオナルドが、目を丸くしているのがわかる。やがて手袋を外しながら、レオナルドはミレイユの方にゆっくりと歩み寄ってきた。
「ただいま、ミレイユ」
微笑むレオナルドの指が伸びてきて、ミレイユの頬にそっと触れた。温度が、頬から一直線に耳まで走る。ミレイユは息を止めた。
すり、と指の腹が頬を撫でる。
「頬に、何かついて──」
──ガタン!
レオナルドの穏やかな声が近くで聞こえて、耳が爆発しそうになったそのときだった。
玄関の外が、にわかに騒がしくなる。走る足音や、鎧のような金属音。それから、誰かの短い叫び声。
「ミレイユ、後ろへ」
「は、はい」
レオナルドがミレイユを背に庇うようにしたところで玄関扉が押し開かれ、マティアスが駆け込んできた。
「閣下! 屋敷の裏手で、不審者を捕らえました」
不審者。
その言葉に、ミレイユは両手をぎゅうと握りしめる。
マティアスの後ろから、騎士たちが痩せた男を引き立ててきた。後ろ手に拘束され、玄関の床に膝をつかされている。男に抵抗する気配はなく、顔色を失って震えているように見えた。
レオナルドの背中の陰から、ミレイユは緊張しながら成り行きを見守る。
「裏門付近で屋敷を念入りに眺めている様子だったので捕らえました。武器は所持しておらず、抵抗もしておりません」
マティアスが淡々と続ける。
「通行人の可能性は?」
「踏み台や双眼鏡を使っていたので、その可能性は低いかと」
「そうか」
「もっ、申し訳ございません!」
レオナルドが男を見下ろす。その鋭い眼光に男は身をすくめ、床に額をこすりつけるようにして頭を下げた。
道具を使って屋敷を見ていたのなら、間違いなく不審者だ。
(あら、でもこの方、どこかで見たような……?)
汗をダラダラと流しているその男に、見覚えがある気がする。どこで会ったのだったか。
もう少しよく見てみようとミレイユが覗き込んだ時。
玄関の扉が、勢いよく開いた。
「お待ちください! その者はわたくしの従者ですわ!」
澄んだ、けれど盛大に裏返った声だった。
全員の視線が扉へ向く。金髪の縦ロールを揺らし、扇を握りしめた令嬢が、息を切らせて駆け込んできた。
「アマーリエ様……?」
目を丸くしたミレイユは、思わずそう声を漏らした。
同時に、床の男に見覚えがあった理由も分かる。半月ほど前、噴水広場でアマーリエの合図を受けて銀貨を放った、あの従者だ。
アマーリエは騎士たちの間を強引に割って進み、拘束された従者の前に立ちはだかった。
「命じたのはわたくしです。この者はそれに従っただけですわ」
「では、ご用件を伺いましょう」
レオナルドの声は低いままだ。ビリビリと空気が震える。
「ローゼンヴァルト伯爵令嬢が、私の屋敷の裏手に人をやる用とは、何でしょうか? 場合によっては伯爵への抗議も辞さない」
問いかけの形をとってはいるが、答えなければ済まさないという圧がある。
「……それは、その」
アマーリエの扇を持つ手が、わずかに下がった。喉が上下するのが、離れた場所からも分かった。
侯爵家に従者を送る──何らかの間者と思われても仕方のない行動だ。
ハラハラしながら成り行きを見守っていたら、彼女の視線はミレイユに向いた。
(? どうしたんだろう)




