22 レオナルドの過去
◇レオナルド視点です
――十年前。
ヴァレンティン侯爵家の広間の中央に置かれた椅子に、十二歳のレオナルドは一人で座っていた。
膝の上で手を重ね、爪先は床に届かない。着せられているのは、藤色の裾の長い服だ。スカートが歩くと足にまとわりつくので、走ることはできない。
そもそも、運動をしてはいけない、とも言われていた。
「魔力が多すぎるのです。この体では、抑えきれません」
部屋の隅では、医師と両親が声を落として話している。
「そんな……! でしたら、この願掛けは続けます。この子が無事に育つのなら、何でもいたします」
レオナルドの母が、悲壮な顔をして医師に訴える。それをレオナルドはぼんやりと眺めていた。常に頭にもやがかかったようで、体がだるい。
レオナルドは生まれつき、体に収まる量を超えた魔力を持っていた。
三つの頃から何度も倒れている。前触れは指先の痺れで、それが肘まで来ると、視界が白くなっていき、周囲の声が遠くなる。
その度に専門の医師が呼ばれ、飲む薬が増えた。『体が成長すれば魔力量に対応できる』と言われていても、膨大な魔力が成長を阻害し、同じ年頃の子供よりも随分と小さく細かった。
「レオニー。今日の診察は終わりだそうよ。安静にしましょうね」
母に促され、レオナルドはベッドに寝かされる。
ヴァレンティン侯爵家が最後に頼ったのは、男児は魔に見込まれやすいという古い言い伝えだ。
『女児として育てれば、災いは逸れる』
そう告げられた日から、レオニーと呼ばれるようになった。
髪を伸ばし、令嬢の格好を着せられた。それ自体を嫌だと思ったことは、実のところあまりない。物心つく前からそうだったので、比べる相手がいなかった。
使用人たちは、離れた場所から様子をうかがうだけで、誰も近づいてこない。何かを差し出すときは腕をいっぱいに伸ばし、渡し終えると足早に下がる。倒れる子どもに触れて、自分のせいにされることを恐れているのだと、幼いなりに理解していた。
(いつか、この苦しみがなくなるんだろうか)
母が悲しむから、あまり苦しそうにすることもできない。ただ人形のように、本を読みながら安静に暮らすだけの日々だった。
「レオニー。お前はこれからしばらく東のリーヴェル伯爵領で暮らすんだよ」
「そうなのですね」
「ああ。素晴らしい付与術師がいるんだ。彼がきっとなんとかしてくれる」
「……」
父が最後に頼ったのは、付与術師のテオール・リーヴェルという男だった。結界石研究の第一人者で、魔力の制御にかけては王国で右に出る者がいないのだという。
危険だからと侯爵家に断りを入れる医師や術士が続く中、彼だけが「預かってみましょう」と返してきたのだと、聞かされた。
レオニーが連れていかれた伯爵家は、侯爵邸より小さく、そのぶん風通しがよかった。玄関には乗馬用の鞭が無造作に立てかけてあり、廊下には子どもの背丈の落書きが残っている。
通された庭で何をしていいのかわからず立ち尽くしていると、屋敷の方から小さな足音が駆けてきた。
「あなたがレオニー? わたし、ミレイユ。これからよろしくおねがいします!」
屈託のない笑みを浮かべる少女から、レオニーは当たり前のように、手を取られた。
茶色の髪に、深緑の瞳。膝には土がついていて、髪には葉が一枚絡んでいる。事情など何ひとつ知らない顔で、その子は笑っていた。
(みれいゆ。ミレイユ)
レオニーは目を丸くしたまま、握られた手を見下ろす。
温かい。人から触れられたのは、いつぶりだろうと思った。
それから幾日かは、生まれて初めての、楽しい時間だった。
「ねえレオニー。今日のおやつはパンケーキだそうです」
「そうなんだ」
「わたし、一番好きなんです」
ミレイユは朝から晩まで喋っていた。庭のどこに何が咲くか、厨房の誰が一番甘いものをくれるか、父がどんなに変な発明をするか。返事をしなくても平気で、返事をすると倍になって返ってきた。
昼過ぎになると、二人で図書室に籠もった。
ミレイユは背表紙の高いところに手が届かないので、椅子を引きずってきて登る。落ちそうになるのを何度も支えた。取り出してくるのは決まって大人にも難しい術式の本だ。
「レオニー、ここを見てください。この術式はいらないと思いませんか?」
「……いらない?」
「うん。だってここからここに直接つなげたら、二つ減らせるもの。お父様がいつも言うんです、術式は短い方がきれいだって」
書き込みだらけの図面を、彼女は嬉しそうに指でなぞった。
レオニーには、その術式がなぜいらないのかがわからなかった。わからないままでも、隣で本を覗き込んでいたら少しも退屈ではない。
ここに来てからテオールに渡された魔導具のペンダントをつけることで、レオニーの体調は安定していた。これまでのもやが晴れたように、頭がスッキリしている。
それもあって、リーヴェル領での生活はレオニーにとって楽しいことばかりだった。
――あの日までは。
「レオニー、気がついたかい?」
テオールの穏やかな声がする。レオニーが目を覚ましたのは、客間の寝台の上だった。
喉がカラカラに渇いている。指先を動かそうとして、いつもの痺れが残っていないことに気が付いた。
「私、は……?」
「魔力が暴れてね。危ないところだった」
レオニーの脳裏に、記憶の断片が戻ってくる。
図書室にいるときに、胸元の魔導具が急に熱を持って魔力の制御が効かなくなったこと。ミレイユの焦った顔、そして視界がくらむほどに眩しい付与術の発動を見た。
覚えているのはそこまでだ。
「君の魔力量に対して、あの魔導具の術式が古すぎたようだ。負荷が一点に集まって、逆に暴れてしまった。――それをこの子が、とっさに書き直した」
テオールは穏やかに笑いながら、ミレイユの頭を撫でる。寝台の脇には、ミレイユが布団に突っ伏して眠っていた。
瞼が赤く腫れている。泣いたのだろうか。
(――助けてくれたんだ、ミレイユが)
レオニーの胸がぎゅっと痛む。それは、魔力の圧迫とは違った痛みだ。
「今、君の魔力は驚くほど安定している。ミレイユの術式が合ったようだね」
テオールはレオニーに魔力測定の魔導具をかざしながら続けた。
「魔力量が多いことは、悪いことじゃない。器が大きくなれば、君の素晴らしい武器になる。大丈夫、君はこれから強くなるよ」
「っ」
その言葉に、視界が滲む。
永く生きられないと思っていた。体が大きくなる前に、魔力に呑み込まれてしまう予感があって、ずっと怖かった。実際に、亡くなる人もいる症状だ。
枷だと思っていたこの体質を、生き方を、テオールは丸ごと認めてくれた。そして、そこで眠るミレイユも、いつもレオニーを否定しない。
ミレイユの髪にそっと触れたら、むにゃりと寝言が返ってくる。
魔力を制御できるようになったら――そのときは、今度は自分がこの子を守りたい。そして、テオールに恩を返す。
レオニーは小さな胸にそう誓ったのだった。
別れの日はすぐにやってきた。
完璧に抑えられた魔力は、もう暴走することはないとの見立てだった。
それに、間もなくテオールも魔導研究所の所長に就任するらしく、王都に行くのだと聞いた。今後はそちらで定期検診を受けることになっている。
玄関前には馬車が停まっており、侯爵家の者たちが荷を積み込んでいた。
「レオニー、待ってください!」
そこへ、両手で何かを握りしめたミレイユが駆けてくる。
「お守りです。結界の術式をぬいました。これがあれば、もう苦しくならないはずです」
息を切らせて差し出されたのは、刺繍の入ったリボンだった。縫い目は不揃いで、糸が数箇所ほつれている。この子は、何日かけてこれを縫ったのだろう。
「また会えたらいいですね」
ミレイユが笑う。
「ミレイユ、あの……」
レオニーは口を開いた。何か言おうとして、閉じた。もう一度開いて、また閉じた。
自分は女の子ではないこと。本当の名前は違うこと。ずっと守られていただけだったこと。この数日が、生まれてから一番楽しかったこと。
でも、本当のことはひとつも言えない。今はまだ。
「……必ず会おうね」
「はい!」
やっとそれだけ言って、レオニーは馬車に乗り込んだ。
窓から見えた小さな影は、馬車が角を曲がるまで手を振っている。
次に会うときは、本当のことを言おうと思った。
そのときのために、魔力を抑え込めるほどに強く、大きくなる。彼女たち一家に胸を張れるようになれたら、そのときはこの秘密を明かそう。
そう決めて、幾度も指を折って数えた。
――そして、十年が経過していた。
◇
レオナルドは、手の中のリボンを見つめていた。
刺繍はほつれ、色はすっかり褪せている。布地は端から薄くなり、あと数年もすれば形を保たなくなるだろう。
あれから十年、これだけは手放さなかった。学院の寮でも、初陣の遠征先でも、留学先の異国でも、必ず懐にあった。誰にも見せたことはない。マティアスにも、エリオスにもだ。
戻ってきたら、リーヴェル伯爵家は名を失っていて、ミレイユがどこにいるのかを調べるのにも時間がかかった。
(今度こそ、彼女を守る)
レオナルドはリボンをそっと懐へ戻し、息を吐いた。
今、ミレイユは自分の屋敷にいる。それだけのことが、これほど救いになるとは思わなかった。後悔が渦巻き、まだ彼女にレオニーのことを伝えられずにいる。
「閣下、失礼いたします」
悶々としているところで扉がノックされ、副官のマティアスが入って来た。
「緊急の案件か?」
「はい。研究所がリーヴェル嬢の行方を探しているとの報告が上がっております」
眼鏡の位置を直しながら、マティアスはいつもの業務報告の口調で言う。レオナルドの表情から、色が消えた。
「……詳細を」
「彼女が働いていた食堂の周辺で、聞き込みが行われた形跡があります。女将は何も答えなかったとのことですが、あの界隈で半年も働いていれば、顔を覚えている者はいるでしょう。時間の問題かと」
彼女が没落して半年、あの父娘に何の手助けもせずに放置していた研究所が今更動き出す。明らかに誰かの意思がある。
「屋敷の警備を倍にしろ。門と裏口に人を増やせ。療養中のテオール殿を警備の固い施設へ移す計画について、前倒しにして今日中に手配を」
マティアスは一瞬だけ間を置き、深く頭を下げた。
「承知しました。すぐに人員を配置します」
マティアスが出ていき、執務室の扉が閉まる。
レオナルドは、早く帰るべく仕事に取り掛かったのだった。




