16 侯爵様の心配事
◇レオナルド視点
レオナルドがヴァレンティン侯爵邸へ戻ったのは、夜のとばりがすっかり降りたあとだった。
玄関ホールに足を踏み入れると、ふだんよりも一段静かな空気が彼を迎える。
外套を使用人に預けながら、レオナルドは家令へ視線を向けた。
「ミレイユはどうしている?」
ひと言だけの問いに、家令は心得たように頭を下げた。
「お屋敷へお戻りになられた直後から、お部屋にこもっておられます。夕食も召し上がらず、お休みになられているようでございます」
どこか顔を曇らせながら述べるその答えに、レオナルドの眉がわずかに寄る。
ミレイユが無事に帰宅したとの連絡は受けていた。『予定通り食堂に行ったあと、いくつかの店舗や市場に足を延ばした』と報告書には書かれていた。何の問題もないように思えたが。
(夕食も取らずに、か)
胸の奥で、よくない予感が小さく鳴る。
レオナルドは家令に護衛の責任者である騎士を呼ぶように告げる。
現れたのは、午後にミレイユに付き従っていた騎士のひとりだった。
「ミレイユの様子はどうだった。どこかで誰かと接触したか?」
短く問うと、騎士は慌てて首を振る。
「いえ! 食堂の女将と笑顔でご挨拶を交わし、骨董品店を出た後は市場でしばらく品物を物色しておられました」
「市場では、何を?」
「リュミー様への土産だと仰せでございました。果実をいくつか、それから乾燥した塩豚なども。リュミー様は雑食だと教えていただきました!」
騎士の報告自体は穏やかなものだ。ミレイユを護衛し、その中で生まれた自然な会話だろう。頭ではわかっている。だが。
(ミレイユと、市場でそんな会話をしたのか)
胸の奥で、黒く粘ついた感情がじわりと滲み出してくる。自分でも覚えのある熱だった。
姿を変えて食堂に行っていたあのときも、レオナルドはずっとこれと同じ熱に灼かれていた。テーブルの間を笑顔で動き回るミレイユが、客のひとりひとりに向ける微笑み。
あれを目にするたび、レオナルドは客たちに、無言の刃のような視線を投げつけていたのだ。ミレイユ本人は何も気づいていなかったが。
「……ご苦労だった。下がってよい」
「は、はい! 失礼いたします!」
一層温度の消えた声で騎士を短く労うと、騎士は一礼して慌てて去って行く。
レオナルドは靴音を控えめにして、二階へと続く階段を上がっていった。
ミレイユの部屋の前で、レオナルドは一度だけ深く息を吐いた。ノックをする手前で、躊躇する。自分が踏み込んでよい線なのだろうかと一拍だけ問うてから、結局扉の取っ手にそっと手をかけた。
扉が音もなく開く。
部屋のなかは、ひと続きのランプの灯がやわらかく落とされていて、ベッドの上にはミレイユが横たわっていた。リュミーがその枕元で身を寄せて、白い毛玉のようになって眠っている。
「キュ……!」
音に気付いたリュミーが顔を上げて、耳をぴんと立てた。喉の奥でわずかな唸りが鳴ろうとするのを、レオナルドは唇の前にひとさし指を立てて止める。
しーっ、と小さく合図すると、リュミーは賢い目でそれを受けとめて、ぴたりと耳を下げた。
眠る主人を起こすまいと、ふんっと小さく鼻だけを鳴らして、もう一度ベッドへ身を伏せる。心のなかでだけ礼を言って、レオナルドはベッドのそばへ静かに歩み寄った。
ランプの光に照らされたミレイユの顔は半分ほど枕に埋もれていて、髪が顔にかかってしまっていた。
(……すまない、ミレイユ。少し触れる)
レオナルドはためらってから、指の腹でその髪をそっと払った。あらわになったミレイユの目元には、乾ききらない涙の跡が薄く銀色に残っている。
胸の奥が、つきりと痛む。
(やはり、急に屋敷へ連れてきたのは、酷だったのだろうか)
婚約の書類は、即座に提出した。雇用契約のほうも、ろくに考える時間も与えぬまま、矢継ぎ早に署名をさせてしまった。随分と性急にことを進めてしまった自覚はある。
慣れない屋敷と慣れない暮らし。明るく振る舞ってはいても、その底で、彼女はずっと不安を呑み込んでいたのかもしれない。
市場で熱心にリュミーへの土産を選んでいたという姿も、そう思えばあの少女なりに気を紛らわせていた、その表れだったのではないか。
レオナルドは指先を、その涙の跡にそっと触れさせた。
「ん……」
「!」
ミレイユが、小さく身じろぎをして、驚いたレオナルドは弾かれたようにミレイユから離れた。
しばらく息を潜めていたら、ミレイユはそのまま、深い呼吸に戻っていった。
(眠ったか……)
自分でも気づかないほど深い安堵の息が漏れる。
(それでも──手元に置いておきたい)
ミレイユの境遇につけ込んでこうして手元に置いたことを後悔はしていない。
せめて彼女がこうやって泣かずに済むように、手を尽くしたい。レオナルドはそう思いながらミレイユの部屋を辞した。
まず向かったのは厨房だった。深夜のおおむね片付いた厨房に、夜番の料理人が驚いた顔で振り返るのを、レオナルドは手で制す。
「明日の朝食だが、ミレイユの分は、リーヴェル領の料理人と書簡を取り交わして用意した献立を一度に揃えてほしい。彼女が好んでいたものをすべて、できる限り正確に」
「畏まりました、閣下。明朝、料理長にも申し伝えておきます」
「リュミーへの食事の用意も忘れずに。果実と人参を主に、と聞いている」
「はっ、本日、料理長と相談のうえ、すでに試作を進めております」
その答えに、ほんの少しだけ目を細める。
「結構だ」
次に、夜番の侍女頭を呼びとめた。
「明日のミレイユへの応対についてだが、ふだん以上に丁重に。ただし過剰には扱わぬよう。慣れない屋敷で過分な扱いを受ければ、かえって心の置き所を失わせる」
「畏まりました。皆にもそのように申し伝えます」
短くやり取りを終えると、レオナルドは執務室へと足を向けた。
扉を閉めて、机の前の椅子に深く腰を下ろす。
窓の外は、夜の静けさに沈んでいた。月明かりが机の上の書類に青白い影を落としている。
明日も早朝に職場に向かうことになる。エリオスがなにやら興味深い資料を見つけたとはしゃいでいたから、きっと付き合わされることになる。
深く椅子に腰かけたまま、レオナルドはゆっくりと天井を仰いだ。
(エリオス殿下の研究が、ミレイユにとって利のあるものになればいいが)
目を閉じれば、まぶたの裏に、銀色の涙の跡が残るあの寝顔がふっと揺れる。
明日、彼女がほんの少しでも穏やかな顔で目覚めてくれることを願いながら、レオナルドはしばらく、その場を動かなかった。




