15 母との約束
部屋に戻って扉を閉めると、ミレイユはぽすんとベッドに突っ伏した。
天蓋から下がった薄絹がふわりと揺れて、午後の光がやわらかく差し込んでくる。
洗い立てのシーツの匂いも、ベッドのしなやかさも、とても温かなものだ。それでも、沈んでしまった心がなかなか戻って来ない。
「キュ〜〜!」
ぱたぱたと小さな足音がして、留守番をしていたリュミーがベッドの端に飛び乗ってくる。きゅう、と短く鳴きながら頬のあたりに鼻先を押しつけてきた。あたたかな毛並みのやわらかな重みを、ミレイユはぎゅっと抱き寄せて、ふかふかの毛のなかに顔を埋める。
「ただいま、リュミー。あなたのお土産も、買ってきたのよ」
ベッドの脇に置いた籠から、小さな干し肉をひとつ取り出して鼻先に差し出す。
「あとでもっと、ちゃんと出してあげるからね」
「きゅ」
リュミーは賢く目を細めて、もきゅっとそれをくわえてくれた。
「……お母様のペンダント、なくなっちゃった」
嬉しそうに干し肉を食べているリュミーを見ていたら、ぽろりと言葉が溢れた。
声が震える。
ミレイユは指で首元の細い紐を辿る。掌に滑り落ちた指輪は、いつもと変わらない。
これだけはミレイユの手元に残ってくれたというのに、母のペンダントは取り戻せなかった。
天蓋の薄絹が揺れる。差し込む光のなかに、古い記憶がゆっくりと立ち上がってきた。
◆◆◆
それは、ミレイユが十三歳の時だった。
リーヴェル邸の離れに設けられた母カロリーナの寝室は、いつも薬草の匂いに満たされていた。窓際のベッドに横たわる母の顔色はもうずいぶん前から良くなかった。
十三歳のミレイユが小さな魔導ランプを抱えて駆け込んでいくと、母はゆっくりと顔をこちらへ向けて、やわらかく微笑んでくれたものだった。
『お母様、見て。このランプの術式、さっきわたしが付与したの。明るさを三段階に変えられるのよ』
『まあ。ミレイユ、もうそんなことができるようになったのね。すごいわ』
枕元にランプを置くと、光が母の頬を淡く照らす。母はそっと手を伸ばしてきて、ミレイユの髪を撫でてくれた。
『あとで更に、虹色に光らせるのもどうかと思っているの。キラキラしてきっと綺麗かなって』
楽しそうなミレイユを見て、母は眩しそうに目を細める。
『あなたがお父様みたいに立派な付与術師になるのが、本当に楽しみよ』
『うん。絶対になるから見ていてね』
『ふふ、頼もしいわ……』
母はふっと笑って、ミレイユの頬に指を伸ばす。その指先は冬の空気よりも冷たい。
長く撫でることもできず、母の手は自分の重さに抗えないように、ゆっくりとシーツの上に落ちていく。
光は、まだやさしく揺れている。
母の頬の色は、ランプに照らされてもなお真っ青に見えた。
そしてそれからあまり間を置かないうちに、母カロリーナは帰らぬ人となった。
形見として残されたのが、あのペンダントだった。母がいつも首から下げていた緑の宝石を、父は大切に保管していた。そして、没落のときに押収されてしまった。
◆◆◆
リュミーをそっと抱きしめたまま、ミレイユはぎゅっと目を閉じた。目尻から、止めようもなく涙が伝っていく。リュミーのふわふわの毛先がぱちぱちと小さく光る。
立派な付与術師になる――それが、母と交わしたたったひとつの約束であり、ミレイユの人生の指針でもあった。
十三歳のあの夜から今日まで一度たりとも忘れたことなどないはずだったのに、卒業資格を取り上げられ、研究所への内定も消えて、ミレイユはその道を閉ざされてしまっていた。
食堂の仕事は楽しかったし、客の笑顔にはたしかに救われた。だが、付与術師としての日々を、ミレイユはずっと止めたままだったのだ。
(ペンダントがあれば、また夢が叶うような気がしていた)
それを取り戻せば、夢も取り戻せると密かに縋ってしまっていた。立派な付与術師になれると信じてくれていた母に、今のままのミレイユでは、合わせる顔がない。
(全部なくしたわたしを見て、お母様はどう思うだろう)
涙が頬を伝う。本当は、悔しかった。ずっと、ずっと。
誰かのために、術を組み続けていたかった。母に約束した道を、ミレイユはまだ諦めたくなかったのだ。
目尻からこぼれた涙が、枕に小さな染みをつくってゆく。
「きゅう……」
リュミーがそっと前足でミレイユの手を押して、慰めるように小さく鳴く。
窓の外で、ぽつ、と最初の雨粒が硝子を叩く。
降り始めた雨は強さを増す。その雨音に包まれながら、ミレイユはいつの間にか眠ってしまった。




