10 ヴァレンティン侯爵邸
「……っ」
ミレイユはぱちりと目を覚ました。最初に目に入ったのは、見慣れない天井だ。
淡い装飾が施された白い天井に、やわらかな朝の光が静かに落ちている。寝具は驚くほど上質で、体が深く沈み込むような感覚があった。
(あれ、ここはどこだっけ……?)
しばらくのあいだ、ミレイユは瞬きを繰り返した。
心の奥に残るのは、かすかな高音と、赤く脈打つ光の残像だ。
小さな手を伸ばし、必死に何かを抑え込もうとしていた感覚だけが、ぼんやりと指先に残っている。
鼓動は少し早いままだが、空気は穏やかで、耳を刺すような音ももう聞こえない。
そのとき、胸元でもぞりと何かが動いた。
「きゅい!」
聞き慣れた小さな声に、はっと視線を落とす。
ふわふわとした白い塊が、枕元で丸くなってこちらを見上げていた。
「リュミー……?」
「きゅ!」
名前を呼んだ途端、リュミーは安心したようにぴょんと跳ね、ミレイユの腕の上に顔を押しつけてくる。やわらかな毛並みの感触に、ようやく夢から目が覚めた気がする。
あれは、ミレイユの幼い頃のものだった。傍らに居たレオニーが身につけていた魔導具が暴走しそうになったことは、本当にあったこと。
(そして……)
ミレイユはゆっくりと上半身を起こす。
広い部屋に、高級そうな調度品が並んでいる。
ミレイユがいる寝台もとても広くてふかふかで、厚手のカーテンが揺れ、差し込む光さえどこか上品に整えられている。
(私が今、ヴァレンティン侯爵様の家に居ることもまた現実なんだよねえ)
それがたった一日のうちに、王国でも指折りの名門侯爵家の邸宅で目を覚ましているのだから、夢よりもよほど不思議なことになっている。
広場での魔導具暴走事故のあと、ミレイユはレオナルドに馬車で連行されていた。もちろん、リュミーも一緒だ。
きっと、昨日の魔導具暴走事故が、ミレイユの古い記憶を呼び覚ましたのだろう。
「きゅ〜!」
もふもふの毛だまりは、ミレイユの腕にぴったりとくっつきながら楽しそうに揺れている。どうやらふかふかの寝台がすっかり気に入ったらしい。
その様子を見て少しだけ気が緩みつつも、ミレイユは改めて部屋を見回し、そしてまた遠い目になった。
「これから、どうなるんだろう」
小さく呟きながら、ゆっくりと息を吐く。
事情聴取のためにここに連れてこられた、という話までは理解できる。
(でも、とっても待遇が良かったのよね……?)
昨夜のことを思い返す。
整えられた食卓に案内され、温かな食事を勧められ、侍女に丁寧に世話をされて湯浴みまで済ませ、そのまま上質な寝台で休むようにと言われた。
そこで、疲れていたミレイユはすっかりぐっすり眠ってしまった訳なのだけど。
(聞いたことがあるわ。あえて安心できる環境を整えて、相手の警戒を解いてから話を聞き出す取り調べの方法があるって)
冷たく拘束するのではなく、穏やかに遇し、気を緩ませたところで本音を引き出す手法だ。そう考えれば、昨夜の一連の対応はすべて筋が通る。
無理に問い詰めることもせず、淡々と保護するように振る舞っていたのも、計算のうちなのだろう。
「さすがは魔導部隊の指揮官……とても理にかなったやり方だわ!」
ミレイユは真剣な面持ちでうなずき、腕の中のリュミーをぎゅっと抱き寄せる。
ミレイユが妙な覚悟を固めたまま、ひとまず身支度を整えようとしていたときだった。
扉の向こうから控えめなノックの音が響く。
「お目覚めでしょうか、ミレイユ様」
「は、はい!」
返事をすると、静かに扉が開かれた。整然とした動きで侍女たちがずらりと室内へ入ってくる。
「失礼いたします。朝のお支度をお手伝いさせていただきます」
「えっ、あの、わたしは自分で――」
言葉を挟む間もなく、流れるように寝台の周囲が整えられ、カーテンが少し開かれ、洗面の用意が手際よく整えられていく。
気づけば、ミレイユは立たされ、椅子へと案内されていた。
「髪を整えますね」
「こちらの衣装をお召しくださいませ」
柔らかな声とともに、あれよあれよという間に髪を梳かされ、服を整えられ、鏡の前に座らされる。
その手際は見事というほかなく、誰一人慌てている様子はないのに、すべてが瞬く間に進んでいく。
(事情聴取の前準備が、こんなに手厚いことってあるのかしら……?)
鏡に映る自分の姿が、普段よりきちんと整えられていくのを見ながら、ミレイユは内心で静かに混乱していた。
隣の寝台の上では、リュミーが丸くなってこちらを眺めている。
ふと、その白い毛並みがぱちり、と小さく弾けた。
「きゅい?」
細かな静電気のような音とともに、毛先がわずかに逆立つ。
空気がほんの少しだけ乾いたような、ぴり、とした感覚が指先に触れた。
(リュミーの毛が帯電している……ということは、今日は雨が降るのね)
ミレイユはさりげなく窓の方へ視線を向ける。リュミーは雨の前になるとこうして雷を発するのだ。
まだ空は明るく雲一つないが、このあと急変するのだろう。
窓の外を見ていると、控えめなノックの音が静かな客間にやわらかく響いた。
「失礼する」
落ち着いた低い声が続き、扉が開いた。
現れたのは、この屋敷の主であるレオナルドだった。銀の髪をきちんと後ろに流し、朝の光を受けても揺らがない整った佇まいのまま、まっすぐこちらへ視線を向けてくる。
「ありがとう。ここからは私が彼女と話をする」
穏やかな口調でそう告げられると、侍女たちは余計な言葉を挟まず、静かに作業の手を止めた。
椅子の後ろに控えていた者も、窓辺にいた者も、足音をほとんど立てることなく順に退出していく。
最後の一人が扉を閉めると、客間には一気に静けさが戻った。
残されたのは、ミレイユとレオナルド、そして寝台の上で丸くなっているリュミーだけだ。
「ミレイユ、昨夜はよく休めただろうか」
「はい。とても立派なお部屋で、あの、過分なおもてなしをいただいてしまって」
「それなら何よりだ」
短いやり取りなのに、不思議と声色は終始落ち着いている。
咎めるでもなく、探るでもなく、ただ様子を確かめているような話し方だった。
かえって、ミレイユの方が落ち着かなくなる。
「昨日の件についても、改めて話をしたいと思っている」
その一言に、背筋がぴんと伸びる。来た、あの話だ。
「は、はい……! どのような処分でも受けるつもりです。でもわたし、働いてお金を稼ぎたいので――」
言いかけた、そのときだった。
ぐぅ……。
静かな室内に、あまりにも素直な音が響いた。
ミレイユの動きがぴたりと止まる。自分のお腹から聞こえた。
顔が一気に熱くなり、両手でお腹を押さえてぎゅっと俯く。
「…………」
部屋に沈黙が落ちる。
「ふっ」
レオナルドは一瞬だけ目を見開き、それから肩を小さく震わせた。
抑えきれなかったように、低く小さな笑いが零れる。
「も、申し訳ありません。緊張していたはずなのに、その、お腹が空いて……!」
「いや」
レオナルドは喉の奥で笑いを収めながら、ゆっくりと立ち上がった。
「ちょうどいいな」
視線がやわらかく和らぐ。
「話は、食事をしながらにしよう。空腹のままでは落ち着いて考えられないだろう」
「え、あの……」
「君は昨夜もほとんどまともに食べていないはずだ」
当然のことのように言い切り、扉の方へ視線を向ける。
「それに、」
ちらりと寝台の上を見る。
「そちらも、待ちきれなさそうだ」
「きゅい!」
名前を呼ばれたわけでもないのに、リュミーがぴょんと跳ねた。
ミレイユはまだ顔を赤くしたまま、戸惑いながらもレオナルドを見上げた。




