09 十年前の図書室
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領地にあるリーヴェル邸の図書室は、高い天井まで届く本棚に三方を囲まれた静かな空間だった。本を傷めないよう直射日光は抑えられており、室内は昼間でもやわらかな薄暗さに包まれている。
その中で、中央奥の長椅子が置かれた一角だけは大きな窓が設えられていて、柔らかな光がそこにだけ静かに落ちていた。古い魔導書の紙の匂いと、穏やかな静けさがゆったりと空間を満たしている。
「ねえレオニー。今日はこのご本を読みましょう!」
「ええ」
八歳のミレイユは、その長椅子にレオニーと並んで腰かけ、一冊の分厚い術式解説書を二人で読むことにした。
レオニーは、淡い銀色の髪が腰のあたりまである、どこか儚げな雰囲気の少女だった。肌は透けるように白く、体つきも同年代の子どもたちよりほっそりとしていて、少し無理をするとすぐに息が上がってしまうこともある。
ミレイユより四つも年上のはずなのに、背丈は少ししか変わらない。
レオニーは療養のためにしばらくリーヴェル邸に滞在しており、静かな環境で安静に過ごす必要があるのだと、大人たちから説明を受けていた。
本や魔術の話が好きなところはミレイユとよく似ていて、二人はすぐに仲良くなった。姉妹がいないミレイユは、彼女を友のように姉のように慕っている。
ページをめくるたびに、紙がかさりとやさしい音を立てる。窓から差し込む光はやわらかく、長椅子の上に広げた本の上だけを静かに照らしていた。
むずかしい術式の図がびっしりと描かれた分厚い本なのに、ミレイユにとってはそれが少しも退屈ではなく、むしろ楽しいものに思えていた。
「ここ、同じ術式がふたつあります」
小さな指で図をなぞりながら、首をかしげる。
隣に座っていたレオニーも、そっと身を寄せて本を覗き込んだ。
「……ほんとうだ。重ねてあるみたい」
静かな声に、ミレイユはうれしくなって頬をゆるめる。
誰かと一緒に本を読む時間は、それだけで特別だった。
「お父様だったら、きっともっとかんたんに書きかえます。ながい術式は、つかれてしまうもの」
そう言って、余白を指でなぞる。
頭の中には、すっと別の形が浮かんでくる。魔力の流れがどこで回りすぎていて、どこを短くできそうか、自然と分かるのだ。
そのときだった。
ぱち、という小さな音が、すぐ近くで鳴った。
「……あれ?」
ミレイユは顔を上げる。
隣にいたレオニーの肩が、わずかに揺れていた。
「レオニー?」
呼びかけると、レオニーは胸元を押さえるようにして、小さく息をこぼす。
「……く、くるしい……っ……」
かすれた声だった。
顔色もさっきより白くて、呼吸が浅い。
──キィン。
ミレイユの耳に、細い音が届いた。
(この音……!)
ミレイユははっとして視線を落とした。
レオニーの胸元、ブラウスの下で、なにかが赤くちらちら光っている。
布越しにも分かるくらい、淡い赤白い光が脈を打つみたいに明滅していた。
空気がわずかにふるえて、ぴりぴりとした感じが肌に伝わる。
小さな体でもはっきり分かる、不安定な魔力のゆらぎだった。
「レオニー、だいじょうぶです。すぐ、なんとかします!」
そう言いながら、そっと胸元に手を伸ばす。
苦しそうにしているのが心配で、ブラウスのボタンをふたつほど外してしまった。
「ご、ごめんなさい……ちょっとだけ見ますね」
中から現れたペンダントは、淡く赤く光りながら、かすかに震えている。
光は内側からふくらむように脈打っていて、今にも弾けそうだった。
きぃん、と、また高い音が鳴る。
ミレイユの背筋がぞくりとした
きぃん、と細く震える音が、胸元のペンダントから途切れずに響いている。
赤白い光は小さく脈を打ちながら、じわじわと強さを増していた。
(このままだと……あぶないわ)
ミレイユはぎゅっと唇を結ぶ。
留めたい気持ちはある。けれど、相手は魔導具だ。しかも身につけているものに直接干渉するのは、幼い自分にはあまりに危うい。
視線を揺らした先に、図書室の扉が見えた。
(お父様を呼ばないと!)
決めると同時に、ミレイユはすっと立ち上がる。
「レオニー、すぐ戻ります」
「……っ、うん……」
レオニーは苦しそうに息をしながらも、小さく頷いた。
その様子を確認してから長椅子から降りて図書室の外へ駆け出した。
廊下に出ると、邸内特有の静かな空気が広がっている。遠くで誰かが歩く靴音が聞こえ、日常の穏やかな時間が流れているのが、かえって胸を焦らせた。
ちょうど角の向こうから、図書室の管理をしている年配の使用人が歩いてくるのが見える。
「ミレイユお嬢様、どうなさいまし――」
「アルノー、お父様を呼んでください!」
思わず声が少し大きくなった。
自分でも驚くほど真剣な声だった。
「図書室の長椅子のところで、レオニーが……胸元のペンダントが光っていて、苦しそうなの!」
アルノーは一瞬目を見開き、すぐに表情を引き締めた。
「承知いたしました。すぐに旦那様をお呼びします」
「おねがいします。はやく……!」
深く一礼すると、アルノーは足早に研究室の方へ向かっていく。
その背中を見送った瞬間、溜まっていた息が小さく漏れた。
(よかった……これで、お父様が来てくださる)
けれど、安心するにはまだ早い。
ミレイユはくるりと踵を返し、急いで図書室へと駆け戻った。
耳の奥に刺さるような高い音が、先ほどよりもはっきりと響いている。
長椅子の上では、レオニーが胸元を押さえたまま浅く呼吸を繰り返している。ブラウスの隙間から覗くペンダントは赤白い光を脈打つように明滅し、静かな図書室の空気をじわじわと震わせていた。
光は内側から膨らむように揺らぎ、小さな器に収まりきらない魔力が外へ押し出されようとしているのが、幼いミレイユにもはっきりと分かる。
レオニーの指先は震え、鎖を掴もうとしては力なく滑らせていた。呼吸も浅く、声にならない息がかすかに漏れている。
胸元の光がひときわ強く脈打ち、キィン、と細く鋭い音が図書室の静けさを震わせた。
ミレイユは小さく息を呑む。怖い、という感覚が胸の奥でふくらむ。それでも視線を逸らすことはできなかった。
(このままじゃ、もっとくるしくなっちゃう)
お父様を呼びにやった。きっと来てくださる。
けれど、それまでのあいだ、レオニーをひとりで苦しませておくことはできない。
ミレイユは長椅子のそばにそっと膝をつき、赤く脈打つ光から目を離さずに見つめた。心臓は早く打っているのに、不思議と頭の中だけは静かに澄んでいく。
「だいじょうぶです、レオニー。もうすぐ、お父様が来てくださいます」
できるだけやさしい声でそう言いながら、震えるペンダントへと視線を落とす。高い音は途切れることなく続き、光はゆっくりと強さを増していた。
(それまで、すこしだけでも……落ち着かせられたら)
幼いながらにそう考え、ミレイユは指先の震えを押さえ込むように小さく息を整える。空気の揺らぎと光の脈動に呼吸を合わせるように意識を集中させ、そっと手を持ち上げた。
静かな図書室の中で、淡く明滅する赤い光だけが揺れている。
ミレイユは迷わず、そのペンダントへ向かって、小さな手を静かにかざした。
――キィン!
耳に残る高音が一層鋭く震え、赤い光が強く明滅した。
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