2人への僻み
彩乃はベッドの上で足を抱え、小さく丸まっていた。あれから数日が経つというのに、土曜の夜の失態が頭から離れない。
(私のこと、女として見てくれてないんだ)
女性誌には『大人はまず身体の相性を確かめる』と書いてあった。だから勇気を振り絞って家に呼び、無言の誘いをかけたつもりだった。なのに佐伯は、手を出さずに爽やかに帰ってしまった。それはつまり、彼女が性的な対象になり得ないという残酷な事実の裏返しに他ならない。自分なんかが誘っても、滑稽だったのだろうか。深い自己嫌悪と劣等感が、彩乃の心を黒く染めていく。
一方、佐伯もまた自宅のソファで深い悶々とした日々を送っていた。カバンの底にしまい込んだコンビニの袋。中には開封されることのないコンドームが鎮座している。
(もしかして、本当にエッチまで出来ていたのかもしれない)
あの夜、彩乃が上目遣いで見つめてきた瞳の潤み。膝が触れ合った時の柔らかな感触。それらは明らかに「誘い」だったと、今更になって気づき始めていた。だが、同時に思考は暗い方へと転がり落ちる。
(あんなにキレイな子が、本当に俺なんかでいいのか? 何か裏があるんじゃないのか?)
童貞ではない佐伯だが、自分の趣味や一人の時間を何より大切にしてきたため、恋愛経験は圧倒的に乏しい。女心というものがさっぱり理解できず、目の前に差し出された好意に気づかず、あるいは気づいても怖気づいて突き放してしまった。彼は袋の中のゴムを取り出しては眺め、「使える日なんて来るんだろうか」と自嘲気味に呟くのだった。
会社での彩乃は、相変わらず男性社員たちの注目の的だった。飲み会での「可愛い酔っ払い」姿を目撃してしまった彼らは、あの無防備な姿を自分だけのものにしたいという下心を隠そうともしなかった。
「朝倉さん、今夜空いてます? 美味しいイタリアンの店見つけたんですけど」
「朝倉さん、週末よかったらドライブ行きません?」
次々と声がかかるが、彩乃の心は佐伯への想いと自己否定でいっぱいで、彼らの言葉など右から左へ流れていく。フリーズしたように「あ…すみません、ちょっと…」と濁すばかりだ。
その時、廊下の向こうから見慣れた少しさみしい頭頂部が見えた。佐伯だ。彩乃の顔がパッと輝く。悩みなど一瞬で消し飛び、小走りで彼に駆け寄った。
「佐伯さん! おはようございます!」
「おはよう、朝倉さん」
二人は顔を見合わせて自然と笑みがこぼれる。その瞬間、周囲の空気が凍りついた。
男性社員たちは、自分たちを無視してあんな冴えない中年男に駆け寄る彩乃を見て、嫉妬に狂いそうだった。
「おい、あいつ何なんだよ」
「あんなハゲと何話してんだよ」
「絶対おかしいだろ。あいつ親が金持ちで遺産をたんまり貰ったんじゃないか?」
妬みからくるあり得ない憶測が飛び交う。それしか理由が見つからないのだ。あの非の打ち所のない朝倉彩乃が、好意を向ける相手が佐伯であるはずがないと。
女性社員たちもまた、遠くからその様子を冷ややかに見つめていた。奈緒たちは舌打ちをする。
「まだあのオヤジとイチャついてるわよ」
「まあいいじゃない。近いうちにボロが出るわよ」
彼女たちの視線には、これから起こる更なる悪巧みの不穏な色が宿っていた。二人の甘い空気は、確実に周囲の敵意を増幅させていたのだ。
社内に流れる空気は、数日のうちに決定的に変わってしまった。最初は誰かのささやきだったものが、やがて部署を越え、階を越え、まるでそれが真実であるかのように語られ始めた。
「聞いたか? 朝倉彩乃、見かけによらずド淫乱らしいぜ。佐伯のデカいイチモツに夢中なんだと」
「はぁ? あの地味なハゲの? ありえねえだろ」
「それが本当らしいよ。あれだけ色気を出して会社でイチャついてるんだ。佐伯、親が金持ちでタップリ遺産もらったんだってな。朝倉はそれ目当てで、身体を使って取り入ってるんだ」
根も葉もない噂だった。彩乃の純粋な好意と、佐伯の誠実な人柄から生まれた親しさは、嫉妬に狂った他人の無責任な言葉によって、下劣なスキャンダルに塗り替えられてしまった。
朝、出社すると空気が違った。彩乃に挨拶を返す人は少なくなり、廊下ですれ違う男性社員たちは露骨に彼女の身体を見ては笑った。中にはわざと聞こえるように「淫乱」と囁く者もいた。女性社員たちは完全に彩乃を無視し、近づく者はいない。営業事務課は、彼女にとって針の筵と化した。
「朝倉さん、ちょっといいかな」
声をかけてきたのは、以前から彼女を狙っていた営業部の有名なプレイボーイ社員だった。人当たりの良い笑顔で近づいてくる。
「何か困ってることない? 俺でよければ相談に乗るよ」
彩乃は身を強張らせた。その目が笑っていない。優しさの裏に隠された下心が、彼女の恐怖本能を刺激する。他の男性社員たちも同じだった。彼らは結託していたのだ。彩乃が誰からも好意を受けられず孤立し、心が弱くなった頃に優しく声をかけて口説く。それが彼らの狡猾な作戦だった。
「だ、大丈夫です」
彩乃は逃げ出したい気持ちを必死に堪えながら、うつむいた。佐伯と親しくなる以前の彼女なら、この耐えがたい空気に押しつぶされて、間違いなく退職届を出していた。だが、今は違う。胸の奥には、あの人の温かさがある。それだけで、何とか呼吸を続けられた。
同じ噂は、もちろん佐伯の耳にも届いた。普段、誰にも相手にされない総務の隅の席で、しかし人々の好奇と軽蔑の視線は確実に彼にも突き刺さっていた。
「佐伯さんって親が金持ちなんだって?」
「あの朝倉が相手にしてるって、よっぽどだよな」
違う。そんな事実は一つもない。自分はただの平社員で、親も普通の年金暮らしだ。そして何より、彼女はそんな薄汚い理由で俺に近づいたりしない。
(俺がいるから、朝倉さんが傷ついている。こんなことになるなら、最初から近づくべきじゃなかったんだ)
自虐と後悔が、佐伯の胸を締め付ける。彼女をこれ以上苦しめたくない。彼が下した結論は「距離を置く」ことだった。
昼休憩。佐伯は人目を避けて屋上への階段に彩乃を呼び出した。
「朝倉さん」
いつもの優しい声ではなかった。無理に押し殺したような、硬い声だった。彩乃は嫌な予感がして、ギュッと胸の前で手を握りしめた。
「この前のこと、そしてこれまでのこと…やっぱり、君と俺が一緒にいるのは、おかしいんだよ」
「おかしくなんか!」
「周りの声、聞こえてるだろう。君が変な噂を立てられて、嫌な思いをしているのは全部、俺のせいだ」
「違います! 佐伯さんは何も悪くない!」
「俺は…」佐伯は苦しそうに言葉を吐き出した。「君をこれ以上苦しめたくない。だから、もう…」
「嫌です」
静かな、しかし絶対に揺るがない声が階段に響いた。彩乃の大きな瞳から、涙が一粒、こぼれ落ちる。
「他の人なんて、どうでもいいんです。あの人たちが何を言おうと、私は全然構わない。それより…佐伯さんがそばにいてくれない方が、よっぽど辛い」
言葉が、まっすぐに佐伯の胸に突き刺さった。彼女はこんなにも真っ直ぐに、自分を求めている。周囲の悪意に怯え、孤立しながらも、それでも自分の隣を選んでくれている。佐伯は唇を噛みしめた。守らなければならないのは、世間体や体裁なんかじゃない。目の前で涙を流しているこの人だ。
「わかった」
佐伯は静かにうなずくと、覚悟を決めた目で彩乃を見つめた。
「今日の帰り、一緒に帰ろう」
彩乃は目を見開き、何度も深くうなずいた。午後の光が、決意を固めた二人の輪郭を柔らかく照らしていた。




