彩乃のアピール
週末、約束通り佐伯は彩乃を連れてラーメン屋に向かった。目的地は、彼が長年通い詰める豚骨魚介の二郎系ラーメン屋だった。強烈な匂いが漂う店内で、彩乃は最初こそ少し引き気味だったが、背脂たっぷりの一杯を一口啜った瞬間、その濃厚な旨みに目を見開いた。
「んんっ! これ、すごい…コクが深い!」
頬張る姿は子供のように無邪気で、スープが口元についているのもお構いなしに、夢中で麺を吸い込む。その横顔を見つめながら、佐伯は心の中でひそやかな衝動が芽生えるのを感じていた。
(もっと、この子を笑顔にしたい)
次はつけ麺、その次は家系と、彼女が喜ぶ顔を見るために、自分の知る限りの美味しい店を案内してやりたい。そんな欲求が、冴えない中年男の胸の奥で静かに燃え上がっていた。彩乃の純粋な喜びが、佐伯の枯れかけていた情熱を少しずつ呼び覚ましていくようだった。
その夜、自宅に戻った彩乃は、ソファに寝転がりながら何気なく開いていた女性誌の特集記事で足を止めた。『大人の恋愛のルール』という見出し。
「大人は告白なんかしない。いつのまにか横にいて、いつのまにか恋人になっている」
その一文を読んで、彩乃は小首を傾げた。
(えっ? どういうこと? 気づいたら恋人って…魔法みたいじゃない)
興味津々で読み進めると、そこには彩乃の常識を根底から覆す記述があった。
『大人の関係では、まず身体の相性を確認する。エッチな関係になって、そのままズルズルと一緒にいる時間が長くなることで、自然と「付き合っている」という共通認識が生まれる。言語化する前に肉体関係を持つのが、大人のスマートな恋愛のやり方』
彩乃は雑誌を胸に抱きしめ、天井を見つめた。
(エッチな関係になってから…付き合う?)
彼女の人生において、恋愛経験はゼロに等しい。男性恐怖症だった彼女にとって、身体の接触など想像の埒外だった。しかし、今の彼女には佐伯がいる。彼なら、触れられても怖くないかもしれない。むしろ、触れてほしいと思ってしまった自分がいる。
(私…佐伯さんと、大人の恋愛がしたい)
雑誌の言う通りなら、言葉で「付き合ってください」と頼むのは子供っぽいことなのだろう。まずは体を許し、彼との時間を重ねる。それが「大人の女」の振る舞い方なのだ。彩乃は固く握りしめた拳で、自らの膝を叩いた。覚悟を決めた。
翌週、彩乃は何度もスマホの画面とにらめっこをしていた。
(佐伯さんに、飲み会の時のお礼がしたい。手料理を振る舞いたい。だから、家に来てほしい)
「家にきませんか」という一文が、あまりにも直接的で、誘惑的で、恐ろしい。文字を打っては消し、打っては消しを繰り返すこと数十分。結局、震える指でこう打ち込んだ。
『明日の土曜日、お礼がしたいので、私の家にきませんか? 手料理作ります!』
送信ボタンを押した瞬間、心臓が早鐘を打った。
一方、そのメッセージを受け取った佐伯は、自宅の安物ソファで大きく伸びをしていたところを、まるで電流が走ったかのように飛び上がった。
(家に…来い? 手料理?)
女の子の家に行く。それが意味することは一つしかないと、男の都合のいい妄想が頭をもたげる。しかし、すぐに冷静な自分が冷水を浴びせる。
(待て待て。俺みたいなおっさんが? あんな若くて可愛い子が、俺のことを男として見るわけがない。たぶん、純粋に感謝してくれているだけだ。それに…もしかして美人局かもしれないぞ)
嫌な想像がよぎる。部屋に入れた瞬間に強面の男たちが出てきて、金銭を要求されるトラブル。世の中そんな甘くないと自分に言い聞かせる。だが、画面に残る「家にきませんか」という文字の引力には抗えなかった。万が一、彼女が自分に好意を持ってくれているのなら、このチャンスを逃す手はない。
佐伯は意を決して『ありがとう、行くよ』と返信した。
土曜日の夕方。佐伯は彩乃のマンションへ向かう途中、駅前のコンビニに立ち寄った。身体が火照るような期待と、裏切られた時の絶望に対する恐怖。それらがない交ぜになった状態で、彼は避妊具のコーナーで足を止めた。もしもの時のために、男として備えておくべきだ。レジで黒い小さな箱を差し出した時、店員の視線が少し痛かった。
彩乃の家のインターホンを鳴らすと、「はい!」と弾んだ声が響き、すぐにドアが開いた。彩乃は白いエプロンを着け、少し照れくさそうに微笑んでいた。
「お、お邪魔します」
狹い1Kの部屋は、煮込み料理の良い匂いで満たされていた。キッチンに立つ彩乃の後ろ姿を見ながら、佐伯は確信した。やっぱりこの子は可愛い。家事をしている姿がこれほど似合うなんて。美人局の不安は一瞬で霧散し、代わりに欲望と愛おしさが込み上げてくる。
「できました! タコライスです!」
テーブルに並んだのは、彩乃が頑張って作った手料理だった。見た目は少し雑だが、味付けはしっかりとしていて、佐伯は素直に「美味しい」と言った。彩乃は嬉しそうに目を細め、ビールを次々と開ける。
食事が進むにつれ、彩乃の脳内は雑誌の記事で占拠されていた。
(大人は、いつのまにか恋人になる。エッチな関係になって、ズルズルと…)
彼女は決意を実行に移そうとした。まずは隙を見せなければならない。ビールを飲み干し、わざとらしく「あぁ、暑い」と言って、前髪をかき上げ、首筋を見せる。しかし、佐伯は「エアコンつけようか?」としか返さない。
(違う、そうじゃない…)
彩乃はさらに踏み込む。ソファに移動した時、わざと佐伯との距離を詰め、膝が触れ合うほどの近さに座った。そして、上目遣いで「佐伯さん…」と甘い声を出す。
「どうしたの? 酔っ払った?」
佐伯は心配そうに水を差し出した。
二人の間には、決定的なすれ違いがあった。
彩乃は「体を許せば恋人になれる」という雑誌の情報を盲信し、必死にアピールをしている。しかし、佐伯は「きちんと告白して、付き合ってから手を出す」という古風な価値観の持ち主だった。それに、自分のような人間が手を出したら彼女の人生を台無しにしてしまうという強烈な自虐と遠慮が、彼をどうしても踏み込ませないようにさせていた。
「今日はありがとう、ご馳走様」
そう言って、佐伯は爽やかな笑顔で立ち上がった。
「えっ?」彩乃は口を半開きにした。
「また会社でね。ラーメンも、他に美味しい店知ってるから」
佐伯は逃げるように、しかし礼儀正しく彩乃の家を出て行った。残されたのは、コンビニの袋の中で出番を失ったゴムと、彩乃だけだった。
「帰っちゃった…」
彩乃は呆然とソファに座り込んだ。
どうしたらいいのか分からない。私のアピールが足りなかった? それとも、やっぱり私のことなんて、女として見てくれてない?
部屋にはまだ、彼の残り香が微かに漂っていた。彩乃は膝を抱え、やり場のない想いと恥ずかしさに、いつまでもうずくまっていた。




