酔わされた彩乃
週末になり、飲み会当日がやってきた。
会場は会社近くの大衆居酒屋の座敷。五十人近く入る大部屋を貸し切った宴会には、彩乃の所属する営業事務課だけでなく、他部署からも大勢の男性社員が顔を出していた。それもそのはず、彩乃が来るという情報を聞きつけた独身男性たちが、我先にと参加を決めたのだ。
「今日こそ朝倉さんと話すチャンスだ」「普段は冷たいけど、酒の席ならワンチャンあるかも」と、スーツを着替えて気合を入れてきた男たちで、座敷は熱気に包まれていた。
一方、女性社員たちはその光景を苦々しく見つめていた。社内で高収入のエリート男子をゲットしようと狙っている彼女たちにとって、男たちの視線を独占する彩乃は目の上のたんこぶ以外の何物でもなかった。
「今日でなんとかして、朝倉さんの株を暴落させるわよ」と奈緒が耳打ちすると、他の女性社員たちもコクリと頷いた。
そんな中、入り口の暖簾をくぐって現れたのは、背の高い黒髪ロングストレートの彩乃と、その隣にいる少し猫背の中年男性、佐伯だった。
「お、来た来た」
「え、隣の誰? 彼氏?」
「総務の佐伯だよ。なんであんな奴と?」
男性社員たちがざわつく中、彩乃は緊張した面持ちで会場を見渡した。しかし、隣に佐伯がいるという安心感だけで、前回のように固まらずに済んでいる。
「朝倉さん、こっちこっち!」と奈緒が満面の笑みで手招きした。彩乃は素直にその席へ向かい、佐伯も当然のようにその隣に腰を下ろした。
「佐伯さん、今日は来てくれてありがとう」と奈緒が甘えるような声で言った。「朝倉さん、すごく嬉しそうだし、あなたたちすごくお似合いだと思うわ」
「そ、そうですか?」と佐伯は照れくさそうに頭を掻いた。
奈緒は他の女性社員に目配せした。彼女たちはニヤリと笑うと、佐伯の周りに集まってきて、小声でささやき始めた。
「佐伯さん、脈ありですよ、絶対」
「朝倉さん、社内じゃ誰にも心開かないのに、佐伯さんにだけは特別だし」
「自信持ってくださいよ。今日こそガッツリ口説いちゃいなよ」
佐伯は「いやいやいや…」と困惑しながら手を振ったが、心の奥では少しだけ期待が芽生えつつあった。まさかとは思うが、本当に脈があるなら…。
一方、彩乃はそんな会話に気づくことなく、少しだけ緊張をほぐすためにメニューを眺めていた。そこへ奈緒が近づき、「朝倉さん、これ美味しいよ。飲んでみなよ」とウォッカベースのカクテルが入ったグラスを差し出した。
見た目はオレンジジュースのように鮮やかで、フルーツの香りが爽やかだ。ラム酒がほんの少し入っただけのカクテルに見えるが、実際はかなりのアルコール度数のウォッカがたっぷりと含まれている。彩乃は一口飲んで目を丸くした。
「本当だ、美味しい! おかわりしてもいいですか?」
「もちろん! どんどん飲んで!」
彩乃はグイグイとグラスを傾けていった。アルコールに弱い彼女は、三杯目で既に頬がリンゴのように真っ赤に染まり、目がとろんと潤み始めた。
「んふふ…なんか…楽しくなってきちゃった…」
舌足らずな口調で、彩乃はクスクスと笑い始める。その表情はまるで無防備な少女のようだった。
女性社員たちは心の中でほくそ笑んだ。
(よし、このまま醜態を晒させてやるわ。みっともなく酔い潰れて、ゲロでも吐けば、さすがに男たちも引くでしょ)
しかし、彼女たちの思惑は大きく外れることになる。
「佐伯さーん!」
彩乃は自分の箸で唐揚げをつまむと、くるりと佐伯の方を向いた。
「お口開けてくださいー。はい、あーーん」
佐伯が戸惑っていると、彩乃は無邪気に唐揚げを彼の口にぽんっと放り込んだ。その瞬間、座敷中の男性社員たちが「うおぉっ」とどよめいた。普段は決して見られない、朝倉さんのあどけない笑顔。恋する乙女のように男に甲斐甲斐しく世話を焼く姿。それは見る者すべてを魅了する破壊力を持っていた。
「朝倉さん、可愛すぎるだろ…」
「マジで天使じゃん…」
「俺もあーんしてほしい…」
男性社員たちがうっとりと見つめる中、彩乃はふらりと立ち上がった。
「彩乃、トイレ行ってきまーす」
自分の名前を幼児のように呼んだかと思うと、ふわふわとした足取りで廊下へ向かう。途中で飾ってあったチーズのオブジェに気づくと、目をキラキラさせながら「あー、チーズがあるー! わーい!」と両手を叩いて喜んだ。
その一部始終を見ていた男性社員たちは、思わず顔をニヤケさせていた。営業部のエースと呼ばれるイケメン社員でさえ、「今まで冷たいと思ってたけど、あれはただの人見知りだったんだな…。めちゃくちゃ可愛いじゃないか」とつぶやいている。
「くそっ!」
奈緒たちは歯噛みした。酔わせれば醜態を晒すと思ったのに、むしろ好感度が爆上がりしている。こうなったらもう最終手段に出るしかない。
「佐伯さん」
奈緒は笑顔の裏に冷たい刃物を隠した声で、佐伯に近づいた。
「朝倉さん、だいぶ酔ってますよね。あんなに無防備になっちゃって…佐伯さん、家まで送ってあげてくださいよ」
「あ、ああ、もちろん送るよ」
「それと…」奈緒は声をひそめて佐伯の耳元で囁いた。「朝倉さん、絶対佐伯さんのこと好きですよ。ああ見えて女の子だし、きっとそういうことも期待してると思うんです」
「そ、そういうことって…」
「わかってるでしょ? 私、聞いたんですけど、朝倉さん、佐伯さんに触ってほしいって言ってましたよ」
真っ赤な嘘だったが、佐伯の心臓は大きく跳ねた。だが、彼はすぐに首を横に振った。
「いやいや、俺みたいなのがそんな…」
「男なら、覚悟決めてくださいよ」
佐伯は深く息を吸い込んだ。何かがおかしいとは薄々感じていた。しかし、確かに彩乃は酔い潰れている。放っておくわけにはいかない。
「朝倉さん、もう帰ろう」
佐伯はトイレからふらふらと戻ってきた彩乃の肩をそっと支えた。彩乃は蕩けた笑顔で「佐伯さーん、送ってくださーい…」と言うと、彼の肩にもたれかかってそのまま寝息を立て始めた。
「おい佐伯、朝倉さんに変なことしたら許さねえからな!」
「そうだぞ、絶対に家まで送るだけにしろよ!」
男性社員たちから嫉妬と羨望の入り混じったヤジが飛ぶ。佐伯はその殺気に冷や汗をかきながら、「わかってるよ」と小さく呟いて、彩乃を連れて店を出た。
タクシーの中で、揺られながら彩乃はうっすらと目を開けた。窓の外を流れる夜の街の灯りが、彼女の潤んだ瞳に映っている。
「…佐伯さーん…」
「大丈夫? 気分悪くない?」
「…私ね…」
彩乃はゆっくりと体を起こすと、佐伯の方に体重を預けてきた。彼女の黒髪が佐伯の肩にかかり、シャンプーの甘い香りがふわりと漂う。
「私…佐伯さんに触って欲しいんですー…」
甘えるような、それでいて切実な声だった。佐伯は全身の血が沸騰するのを感じた。彼女は今、確かにそう言った。だが、相手は泥酔状態。こんな時に何を聞いても無意味だ。
「朝倉さん、酔ってるね。ちゃんと座って」
佐伯は必死に理性を保ちながら、彩乃の体をそっとシートに戻した。運転手がバックミラー越しにチラリと見ている。彩乃はまたスースーと寝息を立て始めた。
タクシーは彩乃が住むマンションの前に停まった。彼女から事前に聞いていた住所を伝えていたのだ。佐伯は寝ている彩乃をなんとか起こし、「ほら、着いたよ」と優しく声をかけながら、彼女をタクシーから降ろした。
エントランスを通り抜け、エレベーターで四階へ。部屋の鍵を彩乃のカバンから見つけ出し、ドアを開ける。
1Kのシンプルな部屋は、生活感はあるものの整理整頓されていて、彩乃の几帳面な性格が表れていた。佐伯は彼女をベッドまで連れて行き、そっと横たえさせた。靴を脱がせ、タオルケットをかけてやる。
彩乃は深い眠りに落ちている。ふっくらとした唇が少し開き、規則正しい呼吸を繰り返している。起きる気配はまったくない。
佐伯は彼女の寝顔を三十秒ほど見つめた。
「こんな時だけ、やけにドキドキするなよ…」
自分に言い聞かせるように呟いて、立ち上がる。何かを期待してしまった自分が情けない。女性社員たちの言葉が頭をよぎったが、あれはただの煽てだ。自分が彩乃に釣り合うはずがない。
佐伯は部屋の鍵をかけて、その鍵は彩乃の部屋の郵便ポストに落とし込む。
マンションを出て、夜風に当たりながら、佐伯はスマホを取り出して彩乃にラインを送った。
『鍵はポストに入れました。ちゃんと水分取って休んでね』
既読はつかない。まだ眠っているのだろう。佐伯はスマホをしまい、一人夜道を歩き出した。
翌朝、カーテンの隙間から差し込む陽射しの痛さで、彩乃は目を覚ました。
「…う…頭いたい…」
ガンガンとこめかみが脈打つ。昨日の記憶は暧昧で、舌の上には甘ったるいカクテルの味がまだ残っている。ベッドから半分起き上がり、自分が服のまま寝ていたことに気づく。
スマホを手に取ると、佐伯からのラインが目に飛び込んできた。
『鍵はポストに入れました。ちゃんと水分取って休んでね』
時間は昨夜の十一時過ぎ。彩乃は慌てて自分の体を見下ろした。服は乱れていない。スカートもブラウスもきちんとしている。もちろん、誰かに触られた形跡などない。
「佐伯さんが…送ってくれたんだ…」
そして、何もしなかった。あれだけ酔って無防備だった自分を前にして、佐伯はただ安全に家まで届けて、鍵までちゃんとポストに入れて去っただけだ。
彩乃はホッと息をつくと同時に、胸の奥でチクリと小さな棘を感じた。
(よかった…でも…ちょっとだけ残念かも…)
自分が何を期待していたのか、よくわからない。でも、あの優しい手で触れてほしかったと思うのは、きっと昨夜の酒がまだ残っているせいだけではないはずだ。
彩乃は恐る恐る、佐伯に電話をかけた。ワンコールで出る。
「もしもし、朝倉さん? 大丈夫?」
「は、はい…あの、昨日は本当にありがとうございました。ご迷惑おかけして…」
「いやいや、無事でよかった。でもあれは強いお酒だよ。あの女性たち、ちょっと君に飲ませすぎじゃないか? もう会社の飲み会はあまり行かない方がいいと思うよ」
その言葉を聞いて、彩乃はハッとした。そういえば、奈緒たちはしきりにカクテルを勧めてきた。これは美味しい、これも飲んでみてと。
「…佐伯さんは、私が飲みすぎないように見ててくれたんですね」
「当然だよ。朝倉さんは俺にとって大切な後輩だから」
その言葉が、彩乃の胸にじんわりと染み渡った。
「佐伯さん…私、佐伯さんのこと…」
言葉が喉まで出かかったが、彩乃は飲み込んだ。今はまだ早い。でも、この人は私が心から信頼できる、優しい人だ。
「うん?」
「い、いえ! 次はラーメン、連れて行ってくださいね! 約束ですから!」
「もちろん。でも今日はちゃんと休んで、頭冷やして」
「はい…また明日、会社で」
電話を切った後、彩乃はベッドに倒れ込んで、枕に顔を埋めた。
「…佐伯さん…」
彼に対する想いが、ますます強くなっていくのを感じていた。それはもう、単なる「安心できる人」という枠を超えていた。この人の隣にいたい。この人と一緒に歳を重ねていきたい。
彩乃はスマホを握りしめながら、次のラーメンデートの日を心待ちにするのだった。
読んでいただきありがとうございました。
この話のR18版は、ノクターンノベルズにあります。
高嶺の花の会社のマドンナ 飲み会で酔わされて
と言うタイトルです




