甘い期待
自宅の鍵を閉め、チェーンをかけると、ようやく深く息が吐き出せた。
玄関に脱ぎ捨てたパンプスを見つめながら、彩乃は自分がとんでもないことをしてきたのだと思い知る。ラーメン屋で並んで座り、熱いスープを啜り、佐伯さんの穏やかな声を聞いていた数時間。それが夢ではなかったと証明するように、服にはまだ微かに醤油の香りが染み付いていた。
「あーあ…」
リビングのソファに倒れ込む。天井を見上げながら、唇が勝手に緩んでいくのを止められない。ラーメンは美味しかった。でもそれ以上に、彼の言葉の数々が耳の奥で反響していた。
『また一緒にご飯行くかい?』
『絶対に連れて行ってくださいっ!』
思い返すだけで、恥ずかしさで身悶えしたくなる。あんな風に食い気味に返事をするなんて、今までの自分なら考えられなかった。でも、後悔は微塵もない。むしろ、胸の奥から湧き上がるような高揚感が止まらない。普通の女の子なら10代の頃に何度も経験するであろう、青臭いときめき。それを27歳にして初めて味わっている自分が滑稽でもあり、愛おしくもあった。
スマホを握りしめ、画面を点灯しては消すを繰り返す。
(お礼のラインくらい、送っても変じゃないよね?)
昨日は「おやすみ」だけで終わったけれど、今日は一緒に食事をしたのだから。でも、何て送ればいいんだろう。「ごちそうさまでした」だけじゃ素っ気ないし、「楽しかったです」なんて書いたら重いかな。指先が画面の上で迷走する。
結局、シンプルに『今日はラーメンごちそうさまでした!すごく美味しかったです』と打ち込み、送信ボタンを押すまでに30分もかかった。
送信した瞬間から、彩乃の視線はスマホに釘付けになった。呼吸をするのも忘れそうになる。一分が一時間にも感じる。もし返信が来なかったら? もしかして、やっぱり迷惑だった? 否定的な思考が頭をもたげたその時、スマホが震えた。
『こちらこそ、付き合ってくれてありがとう。次はこれを食べよう!』
メッセージに添付されていたのは、濃厚な煮干しスープの黒いラーメンの写真だった。それを見た瞬間、彩乃の顔がパッと綻ぶ。
(次…!)
初めての男性とのラインのやり取り。文字の裏に彼の優しい声が蘇るようで、ドキドキが止まらない。
『わぁ!濃そう!でも食べたいです!』
『辛いのも平気? 挑戦するなら特製を勧めるよ』
『平気です! 特製で!』
『了解。じゃあ近いうちに』
たわいもない内容。けれど、一往復するごとに彩乃の心は軽くなっていく。最後に『おやすみなさい』と送ると、すぐに『おやすみ、また明日』と返ってきた。
「また明日…」
その言葉を口に出して呟いてみる。それだけで、胸がいっぱいになるような幸せが込み上げてきた。
シャワーを浴びて火照った体を冷やし、パジャマに着替えてベッドに潜り込んでも、興奮は冷めるどころかむしろ増していた。目を閉じても蘇るのは佐伯の顔。彼と過ごした時間。
彩乃は人並みに性欲がある。
女子校・女子大という環境の中で、決して性欲から遠ざかっていたわけではない。誰にも言えない秘密の時間、自分自身の指で体の奥の疼きを鎮めることは時々あった。オシャレな恋愛小説や映画の中の情熱的なシーンを見て、「私もこんな風に誰かに愛されたい」と想像したことは何度もある。
けれど、現実の男性に対する恐怖心がそれを全て遮断してきた。ただ、今夜は違った。
(佐伯さんに…触れられたら…)
思考が勝手にそこへ滑り落ちていく。
(男の人に触られるのって、どんな感じなんだろう)
自分の指よりもゴツゴツしていて、温かくて、大きな手。あの手で頬を包まれたら? 肩を抱かれたら?
(自分の指より…気持ちいいんだろうな…)
彩乃は無意識に、パジャマの上から自分の胸に手を当てていた。心臓の鼓動が速い。ゆっくりと手を下へ滑らせる。太ももの内側を撫で上げる自分の手を、佐伯の手に見立てた。
「んっ…」
微かな吐息が漏れる。想像の中で、佐伯の少し寂しい頭頂部にキスをする自分。彼が驚いて、それから優しく微笑んで、私を抱き寄せる。ありえない妄想だと頭の片隅で分かっていても、体の奥が疼いて止まらなかった。
彼に触れられることへの恐怖はない。ただ、強烈な甘い期待があるだけ。彩乃はシーツを握りしめながら、佐伯の名前を心の中で呼び続け、波のように押し寄せる感覚に身を委ねた。
翌朝。
出社した彩乃は、昨晩の記憶が頭をよぎるたびに顔が熱くなるのをどうすることもできずにいた。エレベーターホールでボタンを押して待っていると、「おはよう」と後ろから声をかけられた。
ビクリと肩を揺らし、振り返ると佐伯がいた。
昨晩の自分の妄想の中の彼と、目の前の少し冴えない彼が重なる。「佐伯さんに触られたら…」と思い出してしまった瞬間、彩乃の顔は沸騰したように真っ赤になった。
「お、おはようございますっ!」
それだけ叫ぶと、エレベーターに飛び乗るなり一番奥の隅へ逃げ込んだ。心臓が破裂しそうだ。佐伯はきょとんとした顔で「どうしたんだ?」と小首を傾げていたが、彩乃にはそれを見返す余裕すらなかった。背中を丸め、赤面した顔を隠しながら、彩乃は自分の席へと逃げるように向かうしかなかった。
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