ラーメン屋巡り
午前中、朝倉彩乃の仕事は完全に手についていなかった。
デスクの上には未処理の資料が山積みになっているというのに、彼女の視線はスマホの画面に釘付けになっていた。『佐伯』のトークルームを開いては閉じ、閉じてはまた開く。昨晩交わした「おやすみなさい」のやり取りが、ただの文字の羅列であるはずなのに、彩乃の心をやきもきと焦がし続けていた。
(お昼ご飯、一緒にどうですか…?)
文字を打ち込もうとしては、指が止まる。こんな昼前に仕事関係の男性を食事に誘うなんて、重くないだろうか。迷惑じゃないだろうか。自ら動くことへの恐怖が、彼女を深い悩みの淵へと突き落とす。
(佐伯さんから誘ってくれないかな…)
受動的な願いが頭をよぎる。だが、彩乃は気づいていない。これまで彼女に近づいてきたチャラい男たちや、強引なアプローチをしてくる男性たちは、彩乃の放つ「男性拒否」のオーラ——まるでアニメのATフィールドのような見えない壁——に弾かれて立ち去っていったということに。その壁をすり抜けて隣に座れたからこそ、佐伯と繋がれたのだと。
彩乃がため息をついてスマホを裏返しにしたその時、「朝倉さん、大丈夫?」と同僚の女性社員が声をかけてきた。「彼氏と何かあったの?」と心配そうな目だ。遠くの方では男性社員たちが「朝倉さん、彼氏と修羅場じゃね?」「ずっとスマホ見てため息ついてるよ」とひそひそ噂している。
(彼氏なんていない…ただ、お昼に誘うかどうか悩んでいるだけなのに…)
心の中で叫んでも、口には出せない。彩乃はただ首を横に振り、再びスマホに視線を落とした。
定時。ようやく1日の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、彩乃は逃げるようにカバンをまとめた。エレベーターホールでボタンを押していると、「お疲れ様」と聞き覚えのある低い声がした。振り返ると、佐伯がいた。
(あ…)
逃げ出したいような、でも逃げたくないような、相反する感情が胸の中でぶつかり合う。彩乃は勇気を振り絞って口を開いた。
「あ、あのっ、お疲れ様です…!」
声が裏返った気がした。けれど、佐伯はいつものように穏やかに微笑み、「ああ、朝倉さんもお疲れ様」と応じた。そして、エレベーターが到着するまでの短い沈黙の後、彼は意外な言葉を口にした。
「よかったら、ラーメンでも食べに行くかい?」
えっ、と彩乃は自分の耳を疑った。佐伯から誘ってくれた。私のATフィールドなんて関係ないところから、彼は声をかけてくれた。
「はいっ!」
反射的に、迷いなく答えていた。自分でも驚くほどスムーズに言葉が出た。嬉しさが込み上げ、自然と顔が綻ぶ。
2人が向かったのは、駅から少し裏路地に入った古いラーメン屋だった。カウンターのみの狭い店内、湯気が立ち込め、男性客で賑わっている。彩乃は緊張で体が固まった。飲食店に1人で入ることなんてない。どんな顔をして座ればいいのか、注文はどうすればいいのか。
「ここの醤油ラーメンは絶品なんだ。辛いのが平気なら、後でラー油を入れるとさらにいいよ」
佐伯はそんな彩乃の硬直を気にする風もなく、サラリと注文を済ませてくれた。彼の手際の良さと、店の空気に馴染んでいる姿が頼もしく見える。
出てきたラーメンは、見た目よりもずっとあっさりとした黄金色のスープで彩乃を迎えてくれた。恐る恐るスープを口に含むと、出汁の深い旨みがじんわりと広がった。
「…おいしい!」
彩乃は目を見開いた。ずっとジャンクなイメージを持っていたラーメンが、こんなに繊細で美味しいものだとは知らなかった。感動のあまり、夢中で麺を啜る。熱いスープを頬張り、小さな口で一生懸命食べる彩乃の姿を、佐伯は楽しそうに、そして温かい目で見守っていた。
「気に入ってくれてよかった」
完食した彩乃の輝くような笑顔を見て、佐伯はそう言った。そして、「また一緒にご飯行くかい? もっと上手いラーメン屋があるんだ」と、次の約束を提示した。
ラーメン屋巡り。それが佐伯の趣味なのだと知る。背中が丸まって座っている彼の背中が、今はとても頼もしく見えた。
「絶対に連れて行ってくださいっ!」
またしても、迷いのない言葉が出た。彩乃自身が一番驚いていた。この人の前だと、なぜか言葉が引っかからない。恐怖で凍りつくこともない。この人はやっぱり、私にとって大切な人なんだと確信めいたものが胸の奥で育っていくのを感じた。
帰り道、2人並んで夜風に吹かれながら歩く。ラーメンの温かさが体の芯から染み渡り、彩乃の心もほぐれていた。でも、どうしても気になっていたことが一つだけある。
(このままじゃダメだ…聞いておかないと…)
彩乃は足を止めた。佐伯もつられて止まる。街灯の下、彼の少しさみしい頭頂部が照らされている。
「あのっ…佐伯さんはっ…」
声が出ないかと思った。心臓が早鐘を打つ。でも、今の彩乃には彼が必要だ。踏み出さなければ。
「結婚は…してないんですか?」
勇み足だったかもしれない。図々しかったかもしれない。でも聞かずにはいられなかった。もし既婚者だったら、この幸せな時間は不倫になってしまうから。
佐伯は一瞬きょとんとした後、苦笑いを浮かべた。
「まさか。俺なんかが誰かと結婚できるわけないだろう? ずっと独身貴族だよ」
その言葉を聞いた瞬間、彩乃の胸に花が咲いたような歓喜が爆発した。
(独身…! 彼女もいないんだ…!)
無意識に「よかったぁ…」と小さく呟き、パッと顔を輝かせる彩乃。その反応の大きさに、佐伯は目を丸くした。
(もしかして…俺のこと…?)
一瞬、佐伯の胸に淡い期待が芽生える。だが、すぐに首を横に振った。
(バカ言うな。こんな若くて綺麗な子が、俺なんかを好きになるわけがない。ただ初めて仲良くなったおじさんに喜んでるだけだ。勘違いしたらダメだ)
佐伯は自分自身に強く言い聞かせた。彼の分相応という自虐と、長年の習慣となった諦めが、淡い期待を即座に打ち消したのだ。
「じゃあ、また今度連絡するね」と佐伯はいつもの穏やかな声で言い、別れの挨拶をした。
「はい! おやすみなさい!」
彩乃は弾むような足取りで家路についた。夜空の星がやけにキラキラと輝いて見えた。今日、私は一歩前に進めた。この幸せな予感を胸に抱きしめながら、彩乃は次のラーメン屋巡りを指折り数えて待つことにした。
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