ライン交換
あの飲み会からというもの、朝倉彩乃の意識は否応なく「佐伯」という男に向かっていった。
翌朝の出社時、エレベーターホールで背の高い男性が遠くに立っているだけで、彩乃の心臓は跳ね上がった。いつものように視線を落とし、すみませんと小さく呟いて通り過ぎようとしたその時、ふと「おはようございます」と穏やかな声が降ってきた。顔を上げると、昨日の冴えない中年男、佐伯だった。
「あ…お、おはようございます」
驚いたことに、彩乃の口からスムーズに言葉が出た。声が震えたり、思考が凍りついたりしない。彼の少し寂しい地毛と、よれよれのシャツの襟元を見ていると、不思議と肩の力が抜けた。彼は「今日も寒いですね」と天気の話をしただけで、それ以上踏み込んでこなかった。その控えめな距離感が、彩乃には何よりも有り難かった。
それからというもの、彩乃は会社で無意識に佐伯を探すようになった。
「私の男性恐怖症を治せるのは、この人しかいない」
彩乃の中で、それは確信に近いものへと変わりつつあった。誰かと話さなければという焦りが、彼への執着へとすり替わっていく。彼と話せば、私は普通の女になれるかもしれない。恋愛だって、できるかもしれない。
ある日、彩乃は意を決して総務部のあるフロアへ足を運んだ。用事などない。ただ彼を見つけたら話しかけよう、それだけのために。しかし、総務部の奥まった席にいた佐伯を見つけた時、近くの女子社員たちのひそひそ話が耳に入った。
「佐伯さんさぁ、まだあの辺りにいるんだよね。完全に窓際じゃない?」
「出世コースからは外れてるし、いわゆる『エアポケット』でしょ。誰からも邪魔されないお気楽ポジション」
彩乃は目を見開いた。出世も期待できず、社内でも影の薄い、誰も意識すらしない存在。それが佐伯だった。だが、その事実を知った瞬間、彩乃の心はむしろ歓喜に打ち震えた。
そうか、誰からも意識されないからこそ、彼は私に話しかけてくれたんだ。
誰も奪い合わないから、安全地帯なんだ。
彩乃にとって、彼が「冴えない中年男」であることは最強の免罪符であり、安心材料だった。もし彼がイケメンでエリートだったら、きっと呼吸すら出来なかっただろう。
彩乃は佐伯のデスクへと真っ直ぐ歩み寄った。
「あ、あのっ!」
自らの勇気に自分で驚く。佐伯はパソコンの画面から目を離し、「ああ、朝倉さん」と穏やかに笑った。その笑顔を見て、彩乃は更に踏み出した。
「あのっ、りの…ライン、交換してくださいっ!」
一気に言い切ると、顔がカッと熱くなるのがわかった。自分から男性に連絡先を聞くなんて、二十七年間の人生で前代未聞の出来事だ。心臓が早鐘を打つ。でも、フリーズはしなかった。
しかし、スマホを取り出そうとして、ふと恐ろしい考えが脳裏をよぎった。
(あ…もしかして、結婚、してるのかも…)
冴えない中年男。三十代後半から四十代にかけての年齢。社会的なステータスこそないけれど、温和で優しい。そういう人は、案外早くに結婚して、家庭を築いていることが多いのではないか。もし彼に奥さんがいたら? 私がラインを聞くなんて、不倫にならないだろうか?
彩乃の手が止まった。スマホを握りしめたまま、再び思考がグルグルと回り始める。不倫はダメだ。でも、佐伯さんと話したい。ただ話したいだけなのに。
また来るかと思ったパニック。しかし、「いいですよ」と佐伯は迷いなくQRコードを画面に出してくれた。左手の薬指には指輪はない。していないから大丈夫なのか? いや、仕事中に外しているだけかもしれない。
「ありがとうございます…」
半分パニックになりながらも、なんとか友達登録を完了させた。佐伯は「何かあったら気軽に連絡くださいね」と言って、また穏やかに笑った。その笑顔に救われた気がして、彩乃は逃げるようにその場を去った。
その夜、彩乃は自宅のベッドの上で、スマホと睨めっこをしていた。
画面には『佐伯』の名前。トークルームは空っぽだ。彼からのメッセージは来ない。当たり前だ。交換しただけで、向こうから用事があるわけがない。
(私から送ろうか…)
彩乃はキーボードをタップした。
『先日はありがとうございました』
いや、飲み会の時のお礼は先週した。今更変だ。
『お疲れ様です』
堅すぎるか? まるで仕事の連絡みたいだ。
『こんばんは』
これだけじゃ会話が続かない。
文字を打っては消し、打っては消しを繰り返す。数分が数十分になり、一時間が過ぎた。スマホの画面の明かりだけが薄暗い部屋を照らしている。
(迷惑かな…急にラインなんて聞いて、あの人どう思っただろう。やっぱり若い子からの連絡なんて重い? でも、私の恐怖症を治してくれるのはあの人しかいないんだから!)
深呼吸をして、彩乃は震える指で文字を打ち込んだ。
『おやすみなさい』
送信ボタンを押す人差し指に、祈るような力がこもる。プルルッという通知音と共にメッセージが送られた。既読がつくまでの数秒が永遠に感じられた。
既読。
すぐに返信が来た。
『おやすみなさい』
たったそれだけのやり取り。けれど、男性と一対一でメッセージを交わしたという事実だけで、彩乃の胸はいっぱいになった。でも、すぐに会話が終わってしまったことへの言い知れない空虚感も同時に襲ってくる。
「ああ…もうちょっと話したかった…」
彩乃はスマホを抱きしめ、ベッドにうずくまった。頭を抱えながら、次はなんて送ろうか、明日会社でどう挨拶しようかと、眠れぬ夜を過ごすことになった。彼女の片隅で「既婚者かもしれない」という不安が小さな火種のように燻り続けていることにも気づかないまま。
読んでいただきありがとうございました




