佐伯さんとの出会い
朝倉彩乃は、二十七年間の人生において、男性という生き物とまともに会話をした記憶がほとんどなかった。
女子校から女子大へと進学したエスカレーター式のオールガールズ環境。そこには甘酸っぱい青春の1ページを飾る男子生徒の姿はなく、あるのは女子特有の湿っぽくも熱量の高い共依存の日々だけだった。卒業して総合商社に就職して初めて、彩乃は「男性」という異種生物の巣窟に放り込まれた。
黒髪のロングストレートをいつも背中まで真っ直ぐに降ろし、少しアーモンドアイがかった切れ長の瞳に、白磁のような肌。自分では何の工夫もしていない無頓着な容姿だったが、男子社員たちの目には「高嶺の花」として映ったらしい。
入社早々から、彩乃の机にはチョコレートやら手作りのクッキーやらが供物のように置かれ、廊下ですれ違う男性社員たちの視線はどこか熱いのに、決して接触してこない。彼らは遠巻きに、「朝倉さんは綺麗だけど、絶対彼氏いるだろうな」「アプローチしても無駄だろ、ああいう子は芸能人とかと付き合うんだ」と勝手に祭り上げ、勝手に諦めていた。
だが、現実の彩乃は、男性と目が合うだけで心拍数が跳ね上がり、声をかけられれば思考が真っ白に凍りつく、ただのコミュ障だった。
「朝倉さん、今週末空いてる?」
営業部のチャラい先輩にカフェテリアで話しかけられた時もそうだった。「よ、よ、よろしくお願いします…」と口ごもり、あまりの緊張に顔が強張り、結果として氷のような視線を相手に叩きつけることになった。先輩は「つ、冷たい…」と傷つき、それ以来「朝倉さんは男に興味ないんだ」という噂が社内に定着してしまった。
手を繋いだことなんて一度もない。キスはおろか、男性と二人で食事をしたことすらない。27歳の自分がまだ処女であることは、彩乃自身にとって重くのしかかるコンプレックスだった。世間の同世代が恋愛に花を咲かせる中、自分だけが取り残されていく焦り。このままでは一生、男性に対するアレルギーを抱えたまま枯れていくような気がして、彩乃は焦燥感に駆られていた。
なんとかしなければ。
そう固く決意して、普段は避けて通っていた会社の懇親会に参加した。今度こそ、笑顔で話さなきゃ。男性陣にも愛想良く振る舞って、「高嶺の花」なんて印象を払拭するんだ。居酒屋の座敷に足を踏み入れた彩乃は、自分の腹に力を入れた。
しかし、現実は甘くなかった。
彩乃が座敷の隅にぽつんと座ると、男性社員たちは一瞬ざわめき、そしてすぐに遠巻きの輪を作った。
「お、朝倉さん珍しいな。今日来たんだ」
「マジだ。でもやっぱ強そう。話しかけんの無理じゃね?」
「酒飲んでる時くらい気安く話せよって感じだけど、やっぱ俺らには無理だろ」
ひそひそと交わされる噂話。視線は感じるのに、誰一人として隣に腰掛けようとはしない。女性社員たちは明るく挨拶してくれたが、そのフォローも虚しく、彩乃の周りには不可侵領域のような空間が保たれたままだった。
ビールのグラスを持ったまま硬直している彩乃の耳に、「どうしたの?」と不意に低い声が届いた。
ハッと顔を上げると、いつの間にか一人の中年男性が斜め前に腰掛けていた。見た目のパッとしない、冴えない風貌の人だった。スーツは地味で体型にあっていないのか少しだぶついている。髪もいくらか寂しくなっており、おそらく営業や開発ではなくバックオフィス系の人間なのだろう。おそらく総務や管理部門の人間で彩乃とは業務上も全く接点がなく、彩乃の記憶にもほとんど残っていない。名札を見ても「佐伯」と書かれているくらいしか情報がない。
「なんか困ってるみたいだから」佐伯と呼ばれる男性はそう言って彩乃を見てきた。だが目線が泳ぎ気味であまり視線が合わず落ち着かない。なんだかこちらも恥ずかしくなってきた。
「え…いえ…あの…」
声が喉の奥で引っかかる。また固まるのか!と内心歯噛みした。すると佐伯の方があきらめたのか、苦笑して言った。
「いや俺だって話しかけたら迷惑かなと思っててさ。でもずっと1人みたいだし可哀想だなと思って。余計なお世話だったらごめんね」
「……!」
可哀想。
言われて初めて気づいた。周りに人がたくさんいるのに自分は独りぼっちで浮いていたのだ。それは惨めだったが同時に同情されたことも辛かった。
だが妙な事に今までのような怖い感情が湧き上がって来ない。それどころか彼は無理に距離を詰めてくるわけではなく適当に離れたところで話してくれる。その遠慮がちな態度が心地よい。彩乃は勇気を振り絞って聞いた。
「…別に迷惑じゃないですよ。あの…私こういう所慣れてなくて…その…」
「なるほど、そういう事。うん分かるよ君みたいな可愛い子がこんなところに来るのは確かに荷が重いよね。まあゆっくり楽しもう」
佐伯さんの返事が淡泊だ。他の男ならきっともっとグイグイ距離を詰めようとしたりするはずだ。しかし彼は何故か必要以上に踏み込んでこない。その慎重さが逆に彩乃にはありがたかった。
それからしばらく雑談が続いた。
仕事の愚痴から休日の過ごし方といった他愛もないものだ。その間も周囲の男性達はやはりちらちら様子見ながらも寄り付こうとはしない。それでも佐伯さんがいれば孤独感は随分減った気がする。何より人と普通に会話できてるという成功体験で胸が躍る程嬉しい気持ちになっていた。
しかし酔いも回り始め軽い気持ちになってきたせいかつい油断していたのか思わず呟いてしまう。
「…本当にこういう集まりに参加するのは初めてなんですけどね…」
「えっ?そうなんだ?」
「はい…だからすごく緊張してるんですよ本当は」
言ってしまった後で後悔したもののもう遅い。恐る恐る隣を見る。けれど彼の表情には驚きこそあれ変な色気がある訳ではないみたいだ。むしろ心配そうな顔をしているばかりだ。
「そっか…大丈夫だよ」
短い言葉ではあったけどとても安心感のある言い方だった。何故か分からないけどこの人は信じても良いと思える。
その後彼との交流の中で次第と肩肘張らず素直になりつつある自分に戸惑いつつも楽しさを感じ始めるのであった。
* * *
ふぅっと息を吐き出した瞬間に今までとは違った意味での疲労感と共に心臓がドキドキ鳴っている事に気づく。それは嫌なものではなくむしろワクワクする様な感覚であったと思う。
今まで知らなかった新しい世界への扉を開いてくれた感謝もありながら同時に何故ここまで優しくしてくれるのか疑問符さえ沸いてくる。これまでは全然関わることがなくて気に留めてさえもいなかった相手であるから尚更気になる。




