神の贈り物と月明かりが照らす未来
約束を守ってもらい、約三日分のトレーを摂取した犬井は大変ご満悦だ。
肌はツヤツヤ、目もキラキラと輝いている。
犬井はロッキングチェアに深く腰掛けるトレーの上に抱かれて、ゆったりとブラッシングされていた。
「トレー、私、トレーの手櫛好き」
「分かったよ。注文の多い狼だな」
「うん。トレー、気持ちいい。トレー、好き」
髪や尻尾を撫でるように梳かれ、犬井がペタリと溶ける。
「あむあむ、する」
火照った吐息を出して、自分を支える腕に唇を寄せる。
既に青っぽい歯型がついていたので強く噛むことはしなかったが、代わりに唇で肌をムニムニと挟み、遊んだ。
熱心に肌を吸う姿は赤子のようだ。
「マオは本当に甘えん坊だな」
「ん」
犬井が軽く頷いて肯定する。
やがて、満足した犬井はトレーの胸元で溶けて彼の匂いを心地よさそうに嗅ぎ始めた。
鼻はフスフスと鳴って、尻尾はブンブンと揺れている。
だが、はしゃぎ疲れたのか動きはすぐにゆっくりになり、呼吸も静かで眠たそうなものになった。
エネルギーの使い方が下手な犬井は幼い子どものようで、トレーはそんな彼女を愛おしそうに見つめている。
額にキスを落とせば犬井はムフフと嬉しそうに笑んだ。
「なあマオ、ミモザお嬢様、綺麗だったな。ベルテ様もあんなに立派になられて。俺が二人を見たのはリハーサルの時だけだったけど、でも、それでも二人とも素敵だった。きっと結婚式も凄かったんだろ? 貴族や王族を招いて堂々と主役をこなしてさ」
「うん。凄かった。二人とも、いつもの二人じゃないみたいで」
「それは誉め言葉なのかちょっと怪しいけど、でも、そうだな。二人とも立派な主になられた。仲睦まじく、ベリア家を正しい方向へ牽引していく主にさ。それもこれも、きっとマオのおかげなんだろうな」
トレーはニッと笑うとワシャワシャと犬井の頭を撫でる。
褒められたことが嬉しくて、犬井の尻尾が暴れ出す。
しかし、肝心の理由が分からなくて彼女はキョトンと首を傾げた。
「私のおかげ?」
「ああ。マオが来てから俺もお嬢様もベルテ様も皆、良い方向へ転がり出した。マオは神様からの贈り物だったのかもな」
「神様はそんなこと考えないよ。感情が無いんだもの。それに、皆が良い方向へ進んでいるのは皆がそうなりたいって頑張ったからでしょ。私は関係ない。でも、そう言えば私、トレーに惹かれてここに来たんだった」
「俺に? どういうことだ? 空の上から俺のことでも見てたのか?」
「ううん、違うよ。ただ、私は転生する時に神様の光に導かれてベリア家に来たから。ここには私の求める存在があるはずだって言われて。すぐに分かったよ。私に必要なのはトレーだったんだね」
「そうなのか? なんか照れるな」
「うん、私も。なんか照れる。でも、ここに来れてよかった。大事な友達もできたし」
「ミモザお嬢様とベルテ様か」
「うん。あと、魔獣たちも。ねえトレー、大切なもの、守りたい物がいっぱい増えるのって良い事だったんだね。楽しいことがもっと楽しくなって、幸せが増えてさ。私、これからもずっと皆を守ってあげるんだ。トレーはもちろん、ミモザ様たちのことも、きっとすぐに生まれる二人の子どもも、全部!」
どこか無表情な犬井だが目は確かにキラキラと輝いて、強いやる気を見せている。
光を溶かしこんだような彼女の瞳にトレーは自分と同じ夢を見た。
「なあマオ、俺も大事なものが増えるって良い事だと思う。マオやサリアたちのおかげでそう思えるようになった。だからさ、マオ、俺たちの大切なもの、もう少し増やしてもいいか?」
「いいよ。でも、何を増やすの?」
「俺たちの子ども」
言葉はハッキリと、けれど頬を掻く姿は随分と照れて恥ずかしそうだ。
「俺さ、いつかマオと子どもをつくりたいんだ。絶対に叶わないと思ってた小さな夢なんだよ。だって、良いと思わないか? 俺らの周りを子どもたちが駆けて回ってさ、一緒に魔獣の世話もするんだ。子どものヤンチャに付き合わされて森なんかも探検してさ。絶対に退屈しない毎日になる。それに、俺らに子供が生まれたら、きっとその子たちはミモザ様の子どもたちとも仲良くなる! 皆でピクニックをしたら絶対に楽しいと思うんだ!!」
トレーの中にある幸福は犬井と出会ったことで日々更新されている。
初めは犬井の影響で生活の質が上がったこと、次は誰かに必要とされること、愛されること、更にその次は自分が誰かを愛し返すこと、宝物を持つことだ。
そして、今のトレーは犬井と家庭を持ちたいと考えている。
自分の中にある一番楽しかった記憶、すなわち幼いミモザやベルテの面倒を見て魔獣を世話し、自分だけの家族を持てていたあの頃を、今度は犬井とともに一から作り上げてみたいと思っているのだ。
未来を語るトレーは興奮で紅潮し、ワクワクと声を弾ませる。
だが、犬井はトレーの話を聞いているもののキョトンとしていて静かな様子だ。
あまり動いていない耳と尻尾にトレーは寂しそうな表情になった。
「マオ、反応薄いな。あんまり興味ないのかよ」
「いや、だって、トレーが子ども欲しいなんて言ってるの初めて見たから。ちょっとビックリした。子ども、好きなんだ」
「まあな。だって、子どもってすぐ変なことするから見てて飽きないし。それに、俺の方の血が濃く出ればウサギ系獣人で、お前に似れば狼系だぞ。獣人は遺伝の仕方がバラバラだから全身モフタイプが生まれる可能性だってあるし、楽しみじゃないか? 別に獣人の見た目は継がなくてもマオに似てくれればかわいいのは確定だしさ」
「凄い理屈」
「何だよ、駄目かよ」
「いや、駄目じゃない。でも、トレーは、子どもは私に似てほしいのか。私はどっちかっていうとトレーに似てほしいけど」
「俺にか!? いや、俺よりはお前に似た方が良いだろ、見た目も性格も。素直で明るい真直ぐな子に育ってほしい。男でも女でもさ。その方が皆に愛される」
「でも、私はトレーみたいに一生懸命生きる人になってほしい。複雑な思考を巡らせて、その時の最善を選択し続ける人。苦しい事にも立ち向かって、くじけなくて、最後には幸福を掴み取る人。周囲を幸せにして世界を変える力を持っている人に育ってほしい」
犬井の瞳はどこまでも真っ直ぐで真剣だ。
トレーは犬井の本気を感じ取り、ドン引きした。
「おまっ、それは言いすぎだろ。なんだ、世界を変えうる力を持つ者って。勇者か何かか。俺、そんなん持ってねーぞ。子どもへの理想としては悪くねーけどよ」
「でも、本当のことだよ。だって、今のベリア家の土壌を作ったのはトレーだから」
「えっ!? 俺が!?」
寝耳に水とでも言わんばかりの驚嘆を見せるトレーは、信じられないものでも見るように犬井を見つめた。
しかし、犬井は真面目に頷いている。
「私がベリア家に何かをしたというなら、それは変わるための最後のピースをはめただけ。優しいベリア家を作り、守ってきたのはトレーだよ」
屋敷に来たばかりの頃、犬井の唯一の居場所はトレーの魔獣小屋だった。
当時は無感情に近くて他人の敵意や悪意にほとんど関心の無かった犬井も屋敷の空気にはうんざりして、トレーの側ばかりが温かくて、多くの時間を魔獣小屋で過ごした。
幼かった頃のミモザやベルテにとっても犬井と同様か、あるいはそれ以上だったのだろう。
周りは敵ばかり、油断すれば人格否定をしかけてくる人間ばかりの屋敷に対し、トレーの近くは自由で穏やかだ。
魔獣を愛することを認めてくれて、肯定してくれる。
ミモザたちの思想に干渉することなく、ただ、遊んでいる姿を見守ってくれる。
唯一の味方だった。
だからこそ、ミモザはどんなに心を壊されて過去を忘れても、その奥底に魔獣や獣人を愛する気持ちを蓄え続けていた。
大人たちに叱られても天真爛漫に、自分を信じて行動できていた。
ベルテが気軽に遊びに来ることができたのだってトレーが原因だ。
初めて二人が出会った場所は屋敷内の陰鬱なサロンだった。
だが、その時のミモザは獣人に興味があっても表立ってベルテに話しかけられず、彼も彼女に特別な関心を抱いていなかった。
二人が友達になったきっかけは、トレーの魔獣小屋で魔獣たちと遊ぶミモザにベルテが興味を引かれたからである。
トレーの魔獣小屋で二人は少しずつ遊ぶようになり、言葉を交わし合うようになって、いつしか心を通わせた。
極端な話、トレーが居なければ二人はきちんと出会わなかったかもしれないし、当時ほど仲良くならなかったかもしれないのだ。
また、魔獣と人が手を取り合う本来のベリア家をかろうじて体現していたのもトレーただ一人だ。
彼が魔獣に愛され、愛を返していたからユニコーンを始めとする高位の魔獣はベリア家と共に歩む道を肯定した。
そうでなければ奇跡的にミモザとベルテが協力し合い、ベリア家を変えようとしてもその道は茨だらけで難航し、二人は獣人と人との確執を取り除くだけでなく、魔獣との確執も除かねばならなくなっていた。
幼かったミモザがベリア家の太陽なら、トレーは月だ。
どんなに欠けてすり減っても掻き消されることのない薄明り。
静かに世界を照らして闇の中で迷う人へ小さく道を示し続ける優しい光。
多少誇張されている面はあるだろうが、これもトレーの一つの姿であり、犬井から見た彼そのものだった。
トレーは神聖な存在だと信じて疑わない犬井が真剣に彼の尊さを語る。
いたたまれなくなってトレーは途中からずっと犬井から目をそらしていた。
「月って、お前は大袈裟なんだよ。しかも無駄に詩的な表現しやがって。俺はそんなに大した獣人じゃねえよ」
「大袈裟じゃない。ほんと。それに、ミモザ様もベルテ様もトレーのこと大好き。ミモザ様はトレーがお茶会に来るといつもより嬉しそうにして、ちょっとだけ覚えてる昔の話をする。ベルテ様だってミモザ様の婚約者になってから毎回のようにトレーの顔を見に来てた。多分、トレーはずっと二人のお兄ちゃんで大切なんだ」
「わ、分かった、分かったから静かにしろって。あんまり褒められ慣れてねえんだよ」
真っ赤になった両耳を塞ぎ、ギュッと目を瞑る。
その姿は必死に身を守るか弱いウサギにも似ていて、愛しさで犬井は笑ってしまった。
「笑うなよ」
トレーが恨みがましく犬井を睨む。
だが、犬井は「ごめん、ごめん」と笑みを深くするばかりだ。
それどころか、ヨシヨシとトレーの熱く湿った髪を撫でたりもしている。
「照れ屋トレー、かわいい。本当はとてもすごい子なのに、そんなこと無いって謙遜して良い子」
「違うって。ただ、なんというか、自己肯定感が低いんだよ」
「そっか。それもかわいい」
「やかましいわ」
トレーはフイッと顔を背けると、痒そうに歯をギリギリと噛み締める。
犬井はやっぱりクスクスと笑っていた。
「ねえトレー、私、楽しいよ。ちょっと昔の話をして、それから未来のことをたくさん考えて。トレーと一緒だと未来が全部キラキラ輝いて見える。二人でたくさん幸せを作っていきたいって思う」
「俺もだよ。マオとなら何でもできる気がする」
二人はこの後も一年後か数年後か分からない話を続けた。
絵に描いた餅を話す二人は希望に満ちていて、どんどん夜が更けていく。
外の夜空は星がキラキラと煌めいて、まるで祝福が小屋や屋敷へ降り注ぐようだ。
神様は犬井への興味を失った。
だからもう犬井を見守ってはいない。
ふとした時に自身の信仰心の足しに利用されるのが関の山だ。
けれど、犬井はそんなことお構いなしに大切な人と未来へ進んでいくのだろう。
祝福の光は自分たちで作り上げた希望だ。
世界のどこかで神様の光がチカッと微笑んだ気がした。




