先に譲った褒美
犬井がトレーの元へ帰ってきて、約一週間後。
トレーは強い違和感にコテンと首を傾げていた。
『なんか、思ったよりもマオが懐いてこない?』
帰宅した初日、犬井はトレーの予想していた通りベタベタと彼に引っ付いてスキンシップや言葉を求めた。
それはペットホテルに置き去りにされた飼い犬のようで尻尾のふりも両耳の暴れ方も凄まじく、トレーに激しく懐いていた。
だが、その翌日には急に落ち着いてトレーに甘える回数自体、随分と減っていた。
スキンシップをとるのは原則、家の中でのみ。
毎日のブラッシングと添い寝、定期的なハグくらいしか求めてこない。
すぐにトレーを押し倒して激しく甘えていた犬井が、少し触れあえば満足して彼から離れてしまう。
また、犬井はトレーの心配を押し切り帰宅した翌日から働いていたのだが、どういうわけかその熱量は以前に比べて随分と増していた。
元から働き者だった犬井ではあるが、今の彼女は以前の倍に近い仕事をこなしている。
その勢いはトレーの仕事すら奪わんとするほどだ。
黙々と魔獣たちの世話をする犬井を見てトレーは初め、彼女が魔獣たちとの再会を喜び、その思いを噛み締めているのだろうと思っていた。
トレー一人では手の回らない魔獣たちにも丁寧にブラッシングしてやって、モフモフと綺麗になった毛並みを褒める。
ゴルダを始めとする戦闘型魔獣たちの腕が衰えていないか確かめて、彼らから貴重な資源を回収するのを楽しんだ。
犬井が動物好きことは知っていたが、思った以上に仕事を好んでいたらしい彼女をトレーは好ましく思った。
しかし、だからといってトレーと関わる時間まで極端に減らすのはいかがなものか。
『マオのことだから俺から離れてた一ヶ月分甘えるとか言い出して、しばらくは仕事中も馬鹿みたいにくっついてくると思ったんだけどな。まあ、平穏でいいっちゃいいけどよ』
一ヶ月ほど彼と離れて生活していたことで犬井も精神的に自立したのだろうか。
悪い事ではなかろうが、犬井がベタベタと甘えてこないのが酷く拍子抜けで物足りない。
トレーは無意識のうちに苦々しい表情を浮かべていた。
『まあ、マオは無駄に元気だし無理してるってわけじゃないだろうけど、ただ、どんなに働きたいって言っても、そろそろ休憩だ。今日こそは一緒に休むか』
昼食の入ったバスケットを一つ持って、トレーは犬井のいるだろう訓練所へ向かった。
訓練所では砂埃まみれの犬井が、すっかり泥まみれになったゴルダの体を丁寧に洗っている。
「ゴルダ、どんどん強くなってる。偉い」
ゴルダを褒める犬井は上機嫌で、ゆったりと尻尾を振って口角を上げている。
「随分と汚れたな。今日はどんな訓練をしたんだ?」
「あっ、トレー! えっと、今日は足場の悪い場所でも戦闘する練習してた。私は木の上とか岩を足場にして避けてたから、泥はほとんどついてない。でも、ゴルダは泥んこになっちゃった」
「それで洗ってやってたのか。まあ、だいぶ綺麗になったみたいだし、後の細かい所はユニコーンにお願いすればいいだろ。それにしても派手にやったな。訓練場まで泥まみれだ」
「ごめん。後でちゃんと片付ける」
「いや、怒ったわけじゃねーよ。むしろ、毎日決まった訓練しかしないよりは今日みたいに色んなのを織り交ぜてやった方が良いんじゃねえか? その方が応用力だって身につくし、それに、ゴルダも色んな遊びをできた方が楽しいだろ」
自身の足元が汚れるのも構わずトレーはゴルダの側に寄ると、両手を使ってワシワシと二つの頭を撫でた。
ゴルダは「遊びじゃない!」とでも言いたげにフンと鼻を鳴らすが、撫でられることについては満更でもなさそうだ。
トレーが来て以来、犬井は少しずつ彼から距離をとっていたのだが、今は羨ましそうにゴルダを見つめている。
その視線に気が付いたトレーがニヤッと口角を上げた。
「どうした、マオ。お前も頭を撫でられたいのか? 好きだもんな、俺に褒められるの」
トレーの大きな手のひらが自分の方へと迫ってくる。
犬井は、わしゃわしゃと頭を撫でられる前に一歩身を引いて手のひらを避けた。
「大丈夫。あ、あの、トレーも汚れちゃうから」
「そんなの今更だろ。生き物の世話をしてる以上、大なり小なり俺らは汚れるんだから」
「それはそうだけど」
犬井がモゴモゴと口籠る。
視線は下がりがちでバツが悪そうだ。
「よく見るとマオも結構汚れてるな。ついてるのは砂埃だけかと思ってたけど、意外と泥もついてる。ゴルダを洗ったからか?」
「そうかも。気が付かなかった」
「お前って結構抜けてるよな。そのままじゃなんだし、一回体を洗って着替えてこい。それから昼食を取ろう」
「うん。でも、トレーは先にお昼食べてていいよ」
「いや、そろそろいい加減にマオとメシ食いたいからさ、待ってるよ」
トレーがニッと笑えば犬井は「分かった」と複雑そうに頷き、シャワーのある魔獣小屋へと向かっていく。
その途中、犬井は何度か物言いたげにトレーの方を振り返った。
トレーが怪訝そうに眉根を寄せる。
「何だよ、マオ。どうかしたのか? あ! もしかして、俺に洗ってほしかったのか? いいよ、最近はブラッシングくらいしかしてなかったから、久しぶりにしっかりケアしてやる」
「ちっ、違う! 今日は大丈夫! だけど、そ、そうじゃなくて、でも、あの……明日でお茶会の無い期間は、休憩の期間は終わるから。それで、その、私、明日も泥の訓練する予定だから、だから、その、明日……なら」
ソワソワ、モジモジと尻尾や手を動かし、甘えた声を出す。
実に一週間ぶりのおねだりをしようとしていたのだが、トレーは犬井の言葉で彼女に伝えておくべきことを思い出したらしく、「あっ」と声を上げた。
「そういえば、マオ、その期間もうちょい延長された。後一週間はお茶会なしだってよ」
トレーの声がウキウキと弾む。
純粋に延長期間を喜んでいるようだが、犬井は正反対のようでギョッと目を丸くし全身の毛をバリバリと逆立てた。
まるで不意に天敵にでも出会ってしまったかのような態度だ。
「なっ! えっ!? なんで!?」
「なんでって、俺がもうちょい休みくれって頼んだからだけど。ミモザ様たちも新婚だからさ、昼休憩の時間はイチャイチャしてたいんだろ。二人とも快く了承してくれたぞ」
グッと親指を立てるトレーは妙に誇らしげだ。
しかし、犬井の方は喜べない事情があるらしい。
「あ……あぁ……」
口から嘆きを溢れさせて、ドチャッとその場に崩れ落ちた。
手のひらや機能的で可愛らしい飼育着が泥水で汚れる。
絶望を体現する犬井の姿が意外で驚き、トレーが慌てて彼女に駆け寄った。
「マオ、お前どうしたんだよ。服も体もそんなに汚しちゃって。大体、いつもなら二人きりの時間が増えたって喜びそうなのに。もしかして、そんなにミモザ様たちに会いたかったのか?」
犬井を助け起こしながら声をかけるが、彼女は立ち上がっても顔は上げない。
「違う。トレーの意地悪」
「何だそれ」
「だって、お茶会の無い期間はあんまりトレーに甘えちゃいけない期間だから。トレー、まだまだお休みが欲しいなんて、軟弱者」
「誰が軟弱者だ! というか、俺に甘えられない期間? 本当に何の話をしているんだ、お前は」
犬井はしょぼんと落ち込んだまま、勝手に自分で作ったルールを話す。
それはトレーに対して平穏でのんびりした生活を与えるという目的で作られたもので、いわば犬井なりのご褒美だった。
「なるほど、お茶会の無い期間だけは俺を楽させてやろうとして普段以上に仕事を請け負って、おまけに俺を疲弊させないために甘えるのも遠慮してたと」
トレーは呆れた口調で言って苦笑いを溢す。
犬井はコクリと頷いた。
「お前って、定期的に俺に触らない縛りみたいなのするよな。何? Mなの? それとも実は俺のこと嫌いなの?」
「そんなわけない! でも、トレーは私の相手、疲れるって言ってたから。トレーはリハーサルの準備したり、一人で魔獣使いの仕事をしたり、すごく大変だったと思うから、私がご褒美もらう前にご褒美あげなきゃって思ってただけ」
「いや、まあ、俺にご褒美って発想は嬉しいんだけどよ、だったらケーキとか甘いものもらえた方が嬉しかったわ。大体、マオはなんでミモザお嬢様たちがお茶会を中止にしたんだと思うんだよ」
「え? それは、休憩のため? 皆、ゆっくり過ごしましょうってことでしょ?」
「そうだよ。正確にはお互いそれぞれの恋人とのんびりした時間を過ごそうってことだ。つまり、俺たちに関してはちょっとくらい仕事をさぼってもいいから、まあ、その、ちょっとイチャついてこいって期間だ」
「え!?」
「もっと言うと、俺はお前よりも先に役目を終えてるんだから一足先にいつもの仕事に戻ってる。確かに一人で仕事をする羽目になったが、バリアたちも手伝ってくれたし、そもそもマオが来るまでは全部一人で担ってたことだからな、先々週ならともかく今は大して疲れてもいないぞ」
「ええ!?」
「むしろ疲れているのはマオの方だろうけど、まあ、お前は体力おばけだし、しばらくは好きにさせてやろうかと思って放っておいてた。でも、変な自己ルールのせいであんなにキリキリ働いてたのな。俺にはあんまり関係ねえのに」
苦笑いを浮かべるトレーの対面で、犬井はわなわなと震えている。
「私の頑張りは無駄だったのか」
「まあ、そうだな」
「私は、一週間もドブに捨てたのか。貴重な一週間を、ドブに」
「ん、まあ、そういう側面もあるかもしれないけど、でも、その間にマオに世話された魔獣たちは幸せだったと思うぞ。みんなお前に会いたがってたし、お前も皆のこと好きだろ」
「うん。皆に合えたのが嬉しくてお仕事を頑張ったのは本当。でも、あそこまで身を粉にしたのはトレーのため」
「なるほどな。まあ、その気持ちは嬉しいよ。体も心もかなり休まったし、ありがとうな」
「うん」
トレーは彼なりに気遣った言葉を出してフォローを入れようとしているのだが、どうにも上手くいかない。
「ほら、マオ。今からでも俺に甘えたらいいだろ。今日からはちゃんと俺がご褒美やるから。な?」
ムギュッと犬井の体を抱き、よしよしと頭を撫でる。
すると、犬井はギュッとトレーを抱き返し、それからカプッと彼の肩付近を甘噛みした。
「うわっ! ちょっと痛い! 何すんだお前!」
飼い犬に手を噛まれるとはまさにこのことか。
せっかく慰めていたのに攻撃され、驚いたトレーが身を引く。
しかし、犬井から離れようとすれば彼女はギュムッと抱き着いてきて、今度は唇であむあむとトレーの鎖骨を食んだ。
トレーを上目遣いで見つめる犬井は涙目になっていて、尻尾はブンブンと激しく揺れている。
「トレー、私、悔しい」
「いや、それは分かったけど、なんで俺を噛んだんだって聞いてるんだよ」
「むしゃくしゃしたから。ずっとこうやって甘えたかったのに、無駄に我慢しちゃったのが悔しくて。でも、さっきは強めに噛んでごめん。勢い余った」
「まあ、そこまでは痛くなかったからいいけどよ。マオって噛むの好きなの?」
「好き。楽しい。歯形が点いたら私のって証。ちょっと痛いし、トレーの体に無理を強いるから我慢してたけど、とびきりのご褒美をくれるなら、まずはこれがいい」
じゅるりと涎を垂らしてトレーの鎖骨や太股を見る。
モチモチとトレーに触れる姿は酷く飢えたケダモノだ。
さっそく一口とばかりに大口を開ける犬井だったが、その額をトレーが手のひらで掴んでおさえた。
「こら、まだだ」
叱れば犬井はそれ以上トレーを襲わなかったものの、ペタンと耳を落ち込ませてこいねがうように彼を見つめる。
「なんで? どうして、そんな意地悪するの? お外だから? 私、まだ待てしなきゃ駄目?」
「なんでってお前、今、俺のことを一口でも齧ったら止まれなくなるだろ。いいのか? 残りの仕事を全部放棄して俺に甘えだしても」
「それは、駄目だ」
しょんぼりと分かりやすく落ち込む犬井の頭をトレーが元気づけるように撫でる。
「今日、残っている仕事は訓練所の片づけと羊毛の採取くらいだったよな。そのくらい、俺らなら三十分もしないで終わらせられるんじゃないのか?」
トレーの言葉に犬井の表情がパッと明るくなる。
犬井はコクコクと熱心に頷いた。
「終わらせられる! 今すぐにでも!!」
「だろ。そしたら、一緒に風呂でも入って後はお前の好きなようにしていいよ」
「本当!? 本当に本当!?」
「本当だよ」
シッカリ頷いてやれば犬井はテンションが最大級にブチ上がり、大急ぎで訓練所の掃除を始める。
トレーが羊型魔獣から虹の羊毛を回収してくる頃には訓練所はピカピカになっていた。




