わがまま姫
コツコツと程良い高さの音を立てて数回ドアをノックする。
しかし、室内の人間から返事はない。
「ミモザ、入るよ」
ベルテは小さく声をかけるとゆっくりドアノブを回し、寝室に入った。
代々当主に与えられる夫婦専用の寝室は必要以上に大きく華美な装飾が備え付けられている。
しかし、派手なものを好まない二人は金に輝く像や花瓶、デカデカと描かれた自身の肖像画などを撤去し、代わりに愛らしい花の装飾や小物で部屋を優美に飾り立てた。
ギッシリと趣味を詰め込んだ小さな本棚やサリアの写真が飾られた機能的な机。
夜食を食べるためのミニテーブルなんかも二人のお気に入りだ。
しかし、今は部屋の真ん中にあるキングサイズのベッドくらいしか認識できないほど寝室は薄暗い。
ポウと灯った枕元の灯りだけが幻想的で、ベルテは導かれるようにベッドの方へ向かった。
『やっぱり』
ベッドの真ん中には猫のように体を丸めてスヤスヤと眠るミモザがいた。
彼女は薄いレースを数枚重ねることで何とかナイトドレスの体をとった衣服を身に着けている。
上品に見えて肌面積の多いナイトドレスは少しでも動けばはだけてしまいそうだ。
初めて見る妻の艶やかな姿。
美しく扇情的な姿に触れたくなったが、同時に眠る顔はどこまでも健やかでそのまま守ってやりたいという庇護欲も強く感じる。
『ミモザのこと、強引にでも襲って食べたくなっちゃったらどうしようかと思ったけど、良かった。思ってたより大丈夫そうだ。あとは油断しないように、ミモザを一番大切にすることを肝に銘じれば何とかなるはず』
念のため、欲を封印しておこうと深呼吸をする。
ベルテは静かにミモザの横に寝転がると彼女の体をそっと抱き締めた。
『このくらいは許されるよね』
ミモザへの愛しさで、頬にそっと触れるようなキスをする。
すると、ミモザが眉をひそめて「ううん」と唸り声を出した。
「ベルテ……」
トロンとした瞳がゆったり開き、ベルテを見つめる。
口はモゴモゴとやぼったく動いて小さく彼の名を呼んだ。
ベルテの目が丸く見開かれる。
「ミモザ、ごめんよ。起こしちゃったんだね」
「ううん、起きてたから平気よ。でも、少し疲れたから何となく話しかけないでいただけ。目を瞑っていただけよ」
「それを寝ていたっていうんだよ。いいから、もう少し眠って。朝までしっかり休もう。流石に明日は休みなんだから」
そっとシーツを引きよせ、ミモザの体に被せる。
しかし、ミモザはそれを拒否してシーツを胸より下にとどめ、首を横に振った。
「駄目よ。まだ、することがあるもの」
「でも、別にそれは明日でも明後日でもいいことだよ。今日、無理する事じゃない」
「今日することよ! だって、初夜なのよ。皆ちゃんとしてることだもの」
責任感に駆られてか、あるいはそれ以外の感情があるのか。
ミモザは初夜を果たすのだと言ってきかない。
ベルテが宥めようとするほどミモザは興奮していき、憤ったまま彼にのしかかるようにして迫った。
しかし、ベルテはそれを冷静な態度で押し返し、優しく彼女の頭を撫でた。
「ミモザ、落ち着いて。大丈夫だから。皆がやってるからって絶対にやらなきゃいけないことなんてないんだよ。それに、僕たちには僕たちの形があるんだ。僕は君を大切にしたい。頑張り屋さんな君だからこそ、僕の側ではのんびりリラックスして欲しい。責任に追われて体に鞭を打つ必要なんてないんだよ」
諭すような言葉はふわりと柔らかで、じんわりとミモザの心に沁み込む。
それは紛れもなくベルテの優しさでミモザを思いやる心そのものだった。
だからこそ、ミモザはそれ以上反論できなくなってフイッと彼から顔を背けた。
「ミモザ」
頑なになるミモザを後ろからふわりと抱き寄せる。
しかし、彼女は「嫌!」と声を上げるとベルテの腕をペチンと叩き落した。
「ミモザ?」
怪訝な表情になるベルテをミモザがキッと睨みつける。
気の強い瞳には涙が浮かんでいて、ベルテはギョッとした。
「ミモザ、どうしたの?」
「う、うるさい! ベルテなんか嫌いよ!」
「嫌いって、なんで? ミモザ」
ミモザに手を伸ばしても、彼女には「うるさい、うるさい!」と手を叩き落される。
泣きじゃくっているから上手く話もできず、すっかりお手上げとなってしまったベルテは困ったままミモザを見守った。
「ねえ、ほら、ミモザ」
ベルテの尽力によりだいぶマシになったが、以前のミモザは家やサリアの関係で随分と不安定だったし、今でもたまに変になることがある。
ベルテは慣れた手つきで彼女の手元に尻尾を差し入れた。
ミモザは少しの間不機嫌そうに尻尾を見つめていたが、大好きなふわふわの癒しには抗えない。
触れるどころか、腕の中でしっかりと抱き締めるとコテンと横になった。
ベルテの狼尻尾はふわふわと大きく長いのだが、だからと言って自分に背を向けて寝転がるミモザに抱えられては無理が出る。
尻尾を引きちぎられる前に、ベルテもミモザに合わせて寝転ぶと彼女をギュッと抱きしめた。
「放してよ。ベルテなんか嫌いだもの」
「そういう割に、僕の尻尾をガッチリつかんで放さないのは君の方だけれどね。どうしたの、ミモザ。僕、何も分からないままもう一度君に嫌われるのは嫌だよ」
腕の中のミモザがピクッと震える。
ミモザはかつてベルテを毛嫌いしていたことを深く後悔している。
罪悪感も強く、それを引き合いに出されるとあまり強気のままではいられなかった。
「だって、だって、ベルテ、私のことがあんまり好きじゃないんだもの」
ポツリと言葉を出せば、それからハラハラと涙が零れ落ちる。
ベルテは虚を突かれて一瞬だけ固まった。
「僕がミモザを? そんな馬鹿な。僕は今までできる限り君を愛して、それをはっきり示していたはずだけれど」
「でも、だって、さっき……」
ミモザは静かに深く悲しんでシクシクと泣いている。
ベルテはミモザの濡れる頬にキスを落とした。
「好きだよ。愛してる。本当だ」
「でも」
「そんなに初夜を果たさないのが気に入らなかったの?」
ミモザは少し考えて首を横に振った。
「じゃあ、どうしたの」
ミモザは何も答えない。
代わりに彼女はベルテの方を振り向くと、グイっとナイトドレスの胸元を引き下げて胸を露出させようとした。
「わぁっ! ミモザ、ちょっと!!」
大慌てのベルテがミモザの腕を掴み、彼女の誘惑を食い止める。
頬はもちろん、耳の先まで真っ赤にして尻尾をこわばらせるベルテはドクドクと心臓に大量の血液を流してミモザから目を背けていた。
その様子がミモザには気に入らない。
「やっぱり、私には魅力が無いのね」
「魅力?」
ミモザの独り言に反応して、ベルテは思わず彼女の姿を見る。
改めて見るまでも無く、ベルテにとってミモザの姿は魅力的だ。
蠱惑的な衣装やそこから覗く柔らかな肢体だけでなく、ベルテを見つめる丸い目や熱い呼吸を漏らす桃色の唇、濡れて上気した頬。
ベルテを呼ぶ愛らしい声色、淡い花のような可憐な香り。
髪だって寝癖がついているように見せかけて、実際には計算し尽くされたふわふわ髪だ。
ただでさえ愛しくてやまないミモザが初夜のためにと磨き上げられれば、それはベルテにとって天使や女神に等しくなり、彼は強く惹かれた。
「ミモザは魅力的だよ。とても」
「嘘つかないでよ。なら、どうしてそんなに平然としているの!? 私、こんなに恥ずかしい格好をしているのに!」
涙目のミモザが震えた声で怒鳴る。
ミモザの言葉はベルテにとって予想外だったのだろう。
彼は「えっ!?」と素っ頓狂な声を上げたが、ミモザはますます不機嫌になるばかりだった。
確かに今日、ミモザは疲れていた。
非常に責任の重い結婚式を主催としてやり遂げたのだから、無理もない。
おまけに、つい先日にはベルテと共に部下に殺されかけたのだ。
あれ以来ストレスは強かったし緊張状態も続いた。
今だって、完全にリラックスできたわけではない。
ただ、それでもミモザは責務だらけの結婚式を精いっぱい楽しんで、重たい体に鞭打つ初夜も素敵な思い出にしようと張り切っていた。
メイドたちには綺麗に飾り立てられ、
「いつも余裕のあるベルテ様の理性を飛ばすくらい可憐で魅惑的な姿ですよ」
なんて下世話な応援をもらった。
いつもカッチリしたメイドたちと乙女っぽい話題で盛り上がって、「いってらっしゃい」と送り出されるのが堪らなく嬉しかったのだ。
ベルテの反応を見るのが楽しみで、彼と一緒になるのが少し怖くも楽しみだった。
だから、ミモザはまどろみながらも起きていた。
しかし、ベルテはミモザを見てもいつも通りの穏やかな態度で、彼女から誘っても相手にしてもらえない。
襲われることなんてありえない様子だ。
それが大人の女性として扱われていないようで不満で、ミモザは酷く悔しかった。
そして、同時に深い悲しみも覚えた。
だが、ミモザは恥ずかしくて情けなくて自分の想いを上手く口にできない。
そのため黙々といじけてベルテを無視していたのだ。
「ミモザは魅力的だよ。もちろん、異性として」
「本当に?」
「ああ、本当だよ。ミモザの肌はふんわり柔らかそうで、それなのにモチリと軽い弾力もあって温かそうで、見るだけで触れたくなる。そんな格好をされればなおさらだ。腕や頬だけでは済まされない。普段は触れられない所にも触れたくなる。でも、無理をさせたくないのも本当なんだ」
「私、無理なんてしないわ。大体、昔からベルテは過保護なのよ。私、貴方やマオたちのおかげで随分と強くなったの。もう、子どもじゃないのよ!」
「そうは言うけれど、でもね、きっと初夜は君にとって怖くて痛いよ。もしかしたら、僕のことが嫌いになったりしちゃうかもしれないほど」
「そんなこと!」
「あるよ。男は狼ってよく言うけど、僕の場合はまごうことなく本物の狼だからね。力だって強いし、口からは牙が覗く。思わず爪が出るかもしれない。そうしたら、肉球のついた僕の手は凶器へと変わる」
「爪、牙」
ミモザがそっとベルテの手に触れる。
ベルテの指先には確かに硬い狼の爪がついていた。
だが、シッカリと手で形を確かめても怖いとは思わなかった。
「ベルテの爪先、丸いわ。私、ちっとも怖くない。牙だって、ねえ、知ってる? ベルテ。貴方がニコッと笑った時に口元から覗く牙はすごく可愛いの。私、結構気に入っているのよ。甘噛みなら、きっと痛くないわ」
「爪は、まあ、君を傷つけないように毎日手入れしているから。でも、牙は甘噛みだっていたいよ。僕らは生肉だって噛み千切る狼なんだから」
「ベルテの獣っぽいところ、好きよ。ギャップがあって、その、少しキュンとするから」
「僕も二人きりになると素直に甘えてくるミモザは好きだよ。勘違いしやすいところと怒りっぽいところは困るけれどね」
「それは、ごめんなさい」
ミモザがシュンと落ち込む。
ベルテは仕方がないなと彼女の頭を撫でた。
「いいよ。困るとはいったものの、そんなところも君のチャームポイントだ。僕は昔から君に振り回されるのが嫌いじゃない」
「ベルテは変わってるわね」
ミモザが呆れたような口調で言って嬉しそうに笑った。
ベルテに迫っていた先程とは違い、非常にリラックスした様子でベルテにふわっと抱き着く。
「ねえ、ベルテ、そんなに言うなら私、初夜は一眠りした後で良いわ。でも、絶対に夜が明けるまでにするわよ。じゃないと私、社交界で手が付かなかった憐れな女だって皆にバカにされちゃうもの。それに、明るくなってからは恥ずかしいし」
「そうなの? ミモザのことを他所に漏らすような馬鹿は即刻解雇して、君を馬鹿にするような奴は死んだほうがマシな目に遭わせるつもりだけど、まあ、いいか。無茶はしないでね」
「平気よ。一眠りした後ならとびきり優しくしてくれるんでしょう。私、ベルテのことはなんでも受け入れたいけれど、でも、あんまりにも痛いのは少し怖いから」
上目遣いのミモザはいつも通り子供っぽい甘えた姿だ。
ベルテに少しだけ頑張ろうという気持ちを与えてくれる。
「分かったよ、お姫様。何よりも大切にする」
「ええ」
ミモザは満足そうに頷いて、ベルテの胸元に顔を埋めた。
ゆっくりと深い呼吸はたっぷりとベルテの匂いを吸い込んでいて、幸せそうだ。
「ミモザ、それじゃ寝苦しいでしょ。少し離れたら?」
「いいのよ。私、ベルテの胸の中で甘えるのが何よりも好きなんだもの。ちょっと呼吸がしにくいのくらい、なんてことないわ。それより、頭を撫でて、キスをして。私が眠るまで、ううん、眠った少し後まで私のことを甘やかしてくれる? 私も、ベルテのこと」
ミモザの蛇行する手が頼りなくベルテの頬へ伸びる。
だが、言葉を言い終える前にミモザは限界がやってきてスースーと寝息を立て始めた。
途中で落ちた手はギュッとベルテの服の裾を掴んでいる。
「すぐに眠ることを見越してたんだね、ミモザは。意外と自分のことを分かってるみたいだ。寝てても甘やかせだなんて、本当に我儘だなあ」
ベルテは苦笑いを浮かべるとミモザの頭を撫でて唇にキスをした。
『お願いされたとはいえ、ちょっと背徳感があるな、これ』
ベルテの体がほんのり熱くなる。
火照りを冷ますようにベルテはゆっくり息を吐いた。
『予想通り、ボクはもう少し我慢して、仮眠をとって、それから思いきりミモザを大切にしなきゃいけない。ミモザの相手は大変だ。でも、大好きだよ、ミモザ』
少しだけ時間が経って、互いに何となく目を覚ました深夜。
二人がどんな甘い夜を過ごしたのかは固く閉ざされた扉の向こうだけが知っている。




