第6話 「誰か! 医者かコックを呼んでくれ!」
少女は倒れたまま、微動だにしない。
「おい! 大丈夫か!? しっかりしろ!!」
稲豊が駆け寄り抱きあげるも、少女は苦しげな吐息を漏らすばかりだ。
額に手を当てるが熱は出ていない。その代わりに、汗が次々とその玉のような肌へと浮かんだ。顔色は見る見るうちに悪くなり、医師でない稲豊でも、症状が軽くないことが容易に想像できた。
稲豊は考えるよりも先に、少女の痩せた体を抱きかかえる。
倦怠感など一度に忘れ、次の瞬間には全速力で駆け出していた。
「医者! 誰か!! 医者を呼んでくれ!!!!」
非人街の中央の広場で、稲豊は出せる限りの大声を張りあげる。
その異様な光景に住民が数人「何事だ?」と近寄って来たのだが、少女の状態を見ると、皆が一様に顔を伏せた。
「…………この街に医者なんていねぇ」
「はぁ!? じゃあ……治癒魔法を使える奴とかいないのか! この際、魔物でも良い!! 絶対に連れてくるから!!」
「無駄だよ。オレたち人間を相手に……そんな手間かけてくれる奴なんているもんか」
「だからってこのまま見捨てるのかよ! 少しでも可能性が残っているなら、それに賭けるのが人間ってもんだろ!!」
数日前に稲豊に治癒魔法を施してくれた女性が、まだ城下町にいるかもしれない。どこの誰かも分からず、どこにいるのかも不明だが……可能性はゼロじゃない。
そんな稲豊の藁にも縋るわずかな希望は、住民の次の言葉で打ち砕かれる。
「もうそんな猶予は無い……それに治癒魔法じゃ治らねぇんだ」
「そん……な…………!」
優しい少女だ。
稲豊が街を奔走し、それでも成果が出ていないのを察していた少女は、見るに見かねてわずかな食料を差し出したのだ。空腹なのは自分も同じなのに、稲豊へ芋を持ってきた。稲豊はそれを“優しい子だった”、なんて過去形にはしたくなかった。
だが、現実が非情を押しつけてくる。
どうしようもないことは、この世にはいくらでもあった。
『この少女の命も、そのひとつに過ぎないのだろうか?』
稲豊の浮かべる憎々しげな表情は、残酷な世界へ向けたものなのか? なにもできない自身へ向けたものなのか? それは稲豊自身にも分からなかった。
「キセラの子か……。ついて来なさい。せめて最後は……母親の前がいいだろう」
初老の男が、絶望する稲豊の肩を叩いた。
親はいまだ帰らぬ子供を待っている。稲豊は静かに頷いたのち、初老の男の案内に従う。男の息子も付き添いを申し出たが、いまの稲豊にはどうでもよかった。
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母親の第一声は、「タルト」という少女の名前。
次は嗚咽と、神のあまりの仕打ちに対する非難、そして祈り。
泣き崩れる母親を、付き添いの男が介抱した。
稲豊はというと、少女をベッドの上に寝かせたあとで、もうすぐ母だけになる母娘を沈痛な面持ちで眺めていた。
「…………この子が初めてではない」
初老の男が稲豊へ話しかける。
「見ての通り貧しい場所だ。街などと聞こえは良いが……立場も弱く、力もない人間が身を寄せ合って生きている。ここでは満足に食事をすることもかなわない。だからこの子のような病気も、珍しいものではないのだ」
遠い目をし、街の現状を語る初老の男。
その男が口にした、少女の状態。稲豊はオウムのように聞き返した。
「病気…………?」
「病気といって良いのか分からんがな、“栄養失調”。この魔物の街では、我々は生きるだけでも大変なのだ」
病名を耳にした瞬間、稲豊は自分の耳を疑った。
それはあまりにも優しくて、残酷な現実。
「……………………俺のせいだ」
意識せずに発した声は、慟哭する母親の声に掻き消された。
しかしその言葉は、稲豊の頭の隅々にまで行き渡る。
余り物を持ってきていたわけじゃなかった。
少女は自らの食事を、稲豊に差し出していたのだ。
タルトは自分のことよりも、稲豊の空腹を優先させた。母親を上手く誤魔化し、その目を盗んで届けていたに違いない。少女の行き過ぎた優しさは、その身を犠牲にしたものであった。
「…………くっ!!」
血が滲むほど、強く握りしめた拳。
そんな稲豊の頬に涙が伝う。
悔しい。自分さえいなければ、少女が死ぬことはなかった。
嬉しい。他人にここまで尽くして貰ったことはない。
悲しい。そんな優しい行動が少女の命を奪うのだ。
タルトに縋りつき、声にならない泣き声をあげる母の後ろから、稲豊は少女の顔を覗き込む。
「こんなに……普通の顔に見えるのに……」
稲豊の知っている栄養失調とは違い、骨や皮だけになっているわけじゃない。顔色の悪さや、その苦しげな表情を無視すれば、普段となんら変わらない様子に見える。地球の医者が診断すれば首を捻るだろうが、ここは異世界。元の世界の常識は、この世界では通用しない。
「……ぃ……ぶ………」
耳を澄ますと、微かに少女の譫言が稲豊の耳に届く。
顔は血の気が引き、呼吸もいまでは弱々しい。少女の命の灯火が消えかかっているのは、素人目にも明らかだ。
そしてその時間は…………もう目の前に迫っている。
「せめて…………」
先程まで泣いていた母親が、おもむろに顔をあげる。
母は泣き腫らした瞳で、中空をぼんやりと見つめながら言った。
「せめて最期に……美味しい物を食べさせてあげたかった…………」
そしてすぐ視線を娘に戻し、小さな頬を痩せた右手で優しく撫でた。その言葉を聞いた初老の男たちは、悔しそうに俯いている。
だが、そんな重い空気のなか、稲豊だけは前を向いた。
先ほどの母の言葉で、思い出したのだ。こうなる前にした、少女との約束を。
『俺がもっと美味い物を食わせてやる』
一方的なものだが、確かに稲豊は少女と約束した。
他の誰でもない、自分自身に誓約を課したのだ。
自分には、まだできることがあった。
それは気休めにもならないただのエゴで、それになんの意味があるのかも分からない。しかし稲豊はそんなことなど考えもせず、母娘の家を飛び出した。




