第3話 「俺のじしんさくぅぅぅ!!!!」
衝突のあまりの勢いから、稲豊の体は数秒間も空中を舞った。
突然の出来事に受け身すら許してもらえず、体は石畳の上に無常にも叩きつけられる。
「ぐはぁ!!!!」
一瞬、息が止まり、肺が必死に酸素の取り込みを開始する。
処理が追いつかない脳の影響で、すぐに立ち上がることができない。
天を仰ぐように大の字に倒れた稲豊。
そんな稲豊の視界に、ふいに見知らぬ顔が入り込んだ。
「す、すまない、急いでいたのだ。許せ少年」
妙齢の女性、それもかなりの美形である。
研ぎ澄まされた輝きを放つ切れ長の眼、その瞳は美しい黄金色をしている。鼻筋も高く、頬から口元にかけての曲線が悩ましい。
ふだんの凛々しさも想像に難しくないその顔が、いまは眉をへの字に変え、困惑した表情となっている。
「いっ!」
女性の手を借りてなんとか立ち上がった稲豊は、苦痛に顔を歪め腰を押さえた。打ち所が悪かった腰は、時間が少し経ったいまでも、断続的な痛みを稲豊へと送っていた。
苦しげな表情に気づいた女性は、慌てた様子で稲豊の背中側にするりと周り、痛む腰へと右手を添える。
「本当にすまなかったな。少しジッとしていてくれ、治療する」
男勝りな口調だが、声や仕草からは仄かに優しさが感じられた。
そんな女性が小声でなにかを詠唱した途端、腰に当てていた右手から真珠色の淡い光が球状に広がる。
そしてものの十秒も経たないうちに、稲豊の痛覚神経にあれほど訴えていたはずの腰の痛みは、嘘のように引いていった。
「治癒の……魔法?」
稲豊の口から、自然に言葉が飛び出した。
ファンタジーではお決まりとなった魔法だが、実際に体験するとその感動はひとしおである。
この世界に魔法があると知ったのも、感動を大きくするのに一役買っていた。女性は擦り剥いた左肩も目ざとく見つけ出し、そこにも触れて治癒魔法を展開する。
「どうだ? 他に痛む箇所はないだろうか?」
両手で稲豊の服を軽くはたきながら、女性は優しく声をかける。
「い、いえいえ! 平気ッス! もうまったく痛みはありません」
「そうか、ならば良かった」
稲豊の正面に立った女性は、安堵の吐息を漏らすと同時に、強張っていた表情を緩めた。そして改めて女性の全身が視界に収まった稲豊は、『やはり凄い!』と心の中で万歳三唱をする。
軽鎧を着ているにもかかわらず、自己主張の激しい豊満な胸。
スカートの両脇のスリットからは、肉付きの良い長い足と、健康的な肌が惜しみなく覗いている。
視線を上へとスライドさせると、稲豊より拳ふたつ分は高所にある彼女の頭から、ぴょこんと生える犬の耳。それは時おり音を探すように向きを変え、愛くるしさを撒き散らしていた。
『……触ってみたい』
そんな衝動に駆られた稲豊だったが、それは何とか抑え込んだ。
ここで相手の機嫌を損ねて、折角の質問の機会を奪われてはかなわない。
稲豊は一縷の望みを、女性への質問に託した。
「あのスミマセン。この辺で、宿ってありますか? 俺ちょっとその、宿泊できる場所を探している最中で……」
「魔物専用の宿屋なら知っているが、人間が泊まれる場所となると……。すまないが、心当たりはないな」
「そ、そうですか…………」
絶望の二文字が、稲豊の脳内を埋め尽くす。
もはや野宿しかないのだろうか。そんな考えが頭をよぎったとき、女性がおもむろにひとつの方向を指差した。
「路地を抜けた先を右に曲がり、道なりに行けば人間たちの集落がある。そこなら或いは……」
「ほ、本当ですか!?」
稲豊は顔をパアと明るくし、身を乗り出した。
人間がこの街にいる。それも大勢で。
「なんて名前の場所なんですか? その、人間たちの集落って?」
「ああ、それは…………“非人街”。そこはそう呼ばれている」
「ひじん……がい?」
非人街。
その名前を脳内で反芻するほど、何だか嫌な気分になってくる。
「やはり君は、あの街の者ではなさそうだな」
「は、はい! 俺はちょっと別口というか、説明すると長くなるやんごとなき理由がございまして。えっと、なにか用事があったんですよね? い、急いだ方が良いと思いますよ!」
たとえ相手が親切な者でも、『異世界から来た』とは口にできない。
それがどういう結果をもたらすのか、稲豊にはまったく予想がつかなかったからだ。
もし『異世界人=悪』の式が成り立つ世界なら、投獄される可能性もゼロではない。
用心深い稲豊は、もう少しこの異世界の様子を探ることにした。
「たしかに路地裏はあまり居心地のいい場所でもないしな、我はもう行くことにしよう」
「ありがとうございます。本当に助かりました」
女性は背を向けたあとで右手を上げ、腰ほどまである金色の髪をなびかせながら、颯爽と駆け出した。その後ろ姿は、あっという間に稲豊の視界から消える。しかし、消える直前に見えた彼女の“ある部分”が、稲豊の頭に引っかかった。
「尻尾は無いのか……」
犬耳美女の後ろ姿には、どこにも犬の尾は存在しなかった。
そのアンバランスに若干の寂しさを覚えつつ、稲豊は自身の右手を眺める。
「いでよ炎!!」
稲豊は右手を限界まで開き、詠唱しながら前に突き出す。
当然のようになにも起きない。
「いでよカマイタチ! 爆発! 雨! 氷柱! このさい自爆系でも良いから!!」
薄暗い路地裏に、稲豊の虚しい叫び声が木霊する。
「ま……分かってたけどね……」
茶番もほどほどに切り上げた稲豊は、路地裏の奥を目指して足を踏み出す。
しかしそのとき――――――
稲豊は自身の両手の異様な軽さに気がつき、同時に顔色を青くした。
「ない……!?」
女性との衝突前に持っていた、調理器具の入った鞄が見当たらない。衝突の拍子に手を離れたことに思い至った稲豊は、必死に周囲を探した。
「…………あ、あった!」
稲豊はすぐに、数メートル先の地面に落ちた鞄を発見する。そして飛びつくように鞄を抱きかかえると、頬づりしたあとで中身を確認した。鞄が開いた状態で落ちていたので、中身が無事か気になったのだ。
「良かった、調理器具は無事だ!」
鞄に固定していたことも幸いし、どの調理器具も無事な状態で収まっている。しかし安心したのも束の間、稲豊は違和感に気がついた。
「ちょ、ちょっと待て!? 俺のタッパーどこ行った!? 昨日つくった料理が……ひとつだけになってる!?」
しかもよりにもよって残っていたのは、ネタで作った自信作二号こと『牛の干し肉』だった。不味くはないが、別のに入っていた『そぼろ味噌大根』と比べたら、やはり格落ち感は否めない。
「どこだ! どこにいった! 俺の貴重な食料がぁ……!?」
絶望の声が路地裏の闇へと吸い込まれていく。
それからしばらく稲豊はタッパー探しに没頭するが、ついに発見には至らなかった。
「やっぱり俺って、不運なのかな…………」
砂埃にまみれた稲豊は、がっくりと肩を落とす。
そして後ろ髪を引かれる思いで、路地裏をとぼとぼと去っていくのだった。




