第3話 「俺のじしんさくぅぅぅ!!!!」
『人間がいるかもしれない』
微かな希望は、稲豊の足を急がせた。
「さっきのオークの言い方だったら、たぶんこの街のどこかにいるはずだ」
稲豊は予想というより、願いに近い理論を組み立てる。
だが城下町は予想以上に広く、なかなか目当ての場所には辿り着かない。
「くそっ! 明るい場所だけじゃダメか?」
そんな稲豊の前に佇むのは、光を拒んだ、喧騒とは対局の場所――。
『路地裏』である。
漫画やアニメでは犯罪率が飛躍的に上昇し、嫌な者との遭遇率もアップする、あの路地裏だ。
本来であれば避けて通りたい場所ではあったが、背に腹は代えられない。
稲豊は深呼吸したのち面を上げ、暗く澱んだ路地裏の影に足を踏み入れた。
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「な、何も出ねぇじゃねぇか……拍子抜けだぜ!」
威勢のいい言葉だが、稲豊の腰は引けている。
それでも、路地裏の半分も進んだころには、最初にあった緊張の糸は解けていた。「どうやら考え過ぎだったな」そんな楽観すら稲豊の口をついて出る。
しかしそれから数秒後、彼の楽観は覆されることとなった。
路地裏には、やはり魔物が棲んでいたのである。
「ひでぶ!?」
それは唐突にやってきた。
建物の狭い隙間から飛び出してきた物体が、稲豊を撥ね飛ばしたのだ。
衝突のあまりの勢いから、稲豊の体は数秒間も空中に投げ出される。
『この世界に来てからこんなんばっか』
そんなどうでも良い思考が頭に浮かんだのち、受け身すら許してもらえなかった稲豊は、石畳の上に無常にも叩きつけられた。
「ぐはぁ!!!!」
一瞬息が止まり、肺が必死に酸素の取り込みを開始する。
処理が追いつかない脳の影響で、稲豊はすぐに立ち上がることができない。
天を仰ぐように大の字に倒れた稲豊。
そんな少年の視界に、ふいにこの現状を招いた者の頭が映り込んだ。
「す、すまない、急いでいたのだ。許せよ少年」
妙齢の女性、それもかなりの美形である。
研ぎ澄まされた輝きを放つ切れ長の眼、その瞳は美しい黄金色をしている。
鼻筋も高く、頬から口元にかけての曲線が悩ましい。
ふだんの凛々しさも想像に難しくないその顔が、今は眉をへの字に変え、困惑した表情となっている。
「いつっ!」
女性の手を借りてなんとか立ち上がった稲豊は、苦痛に顔を歪め腰を押さえた。
打ち所が悪かった腰は、時間が少し経った今でも、断続的な痛みを稲豊へと送る。
そんな少年の苦しげな表情に気付いた女性は、慌てた様子で稲豊の背中側にするりと周り、痛む腰へと右手を添えた。
「本当にすまなかったな。少しジッとしていてくれ、直ぐ治す」
男勝りな口調だが、声や仕草からは慈愛が溢れんばかりだ。
そんな女性が小声で詠唱すると同時、腰に当てていた右手から真珠色の淡い光が球状に広がる。
そしてものの十秒も経たないうちに、稲豊の痛覚神経にあれほど訴えていたはずの腰の痛みは、嘘のように引いていった。
「…………治癒の魔法」
稲豊の口から、自然に言葉が飛び出した。
ファンタジーではお決まりとなった魔法だが、実際に体験するとその感動は一入である。
この世界に魔法があると知ったのも、感動を大きくするのに一役買っていた。
女性は擦り剥いた左肩も目ざとく見つけ出し、そこにも触れて治癒魔法を展開した。
「どうだ? 他に痛む箇所はないだろうか?」
両手で稲豊の服を軽くはたきながら、女性は優しく声をかける。
「い、いえいえ! 平気ッス! もうまったく痛みはありません」
「そうか、良かった」
稲豊の正面に立った女性は、安堵の吐息を漏らすと同時に、強張っていた表情も緩めに入る。そして改めて女性の全身が視界に収まった稲豊は、『やはり凄い!』と心の中で万歳三唱をした。
上半身に薄手の鉄鎧を纏っているにも拘わらず、自己主張の激しい豊満な胸。
ロングスカートの両脇のスリットからは、肉付きの良い長い足と、健康的な肌が惜しみなく覗いている。
視線を上へとスライドさせると、稲豊より拳二つ分は高所にある彼女の頭から、ぴょこんと生える犬の耳。それは時おり音を探すように向きを変え、愛くるしさを撒き散らす。
『……触ってみたい』
動物好きの本能が大いに騒いだが、稲豊はそれを理性で鎮めた。
「えっとその……大丈夫ですか? 急いでいるんですよね?」
「問題ない、既に見失っているからな。少年にぶつかってしまった時点で諦めはついているので、君は気にしなくて構わないさ」
稲豊は心の中で『問題しかないのでは?』とツッコミを入れる。
しかし、ようやく見つかった話の分かる異世界の住人。“このチャンスを逃すわけにはいかない”と、稲豊はここぞとばかりに質問を口にした。
「この街に人間が集まる場所があると聞いてきたんですけど、知ってますか? 教えていただけたら嬉しいなぁ――――なんて」
「非人街の事を言っているのか? 路地を抜けた先を右に曲がり、道なりに行けばある場所だが……」
指を差して道筋を説明する女性。
人の存在があっさり判明されたことに驚いた稲豊だが、そのときの彼が気になったのは、女性の怪訝そうな顔とその名称である。
『非人街』
その名を記憶するため脳内で復唱するたび、稲豊はどことなく嫌な印象を覚えた。
「そんな質問をするということは、君はあの街の者ではないのか?」
「は、はい。俺はちょっと別口というか、説明すると長くなるやんごとなき理由がございまして。えっと、だれかを追跡中なんスよね? い、急いだ方が良いと思いますよ!」
たとえ相手が親切な者でも、『異世界から来た』と口にはできない。
それがどういう結果をもたらすのか、稲豊にはまったく予想がつかなかったからだ。
もし『異世界人=悪』の式が成り立つ世界なら、投獄される可能性もゼロではない。
用心深い稲豊は、もう少しこの異世界の様子を探ることにした。
「たしかに路地裏はあまり居心地のいい場所でもないしな、我は追跡に戻ろう」
「ありがとうございます、本当に助かりました」
女性は背を向けた後で右手を上げ、腰ほどまである金色の髪をなびかせながら、颯爽と駆け出した。その後ろ姿は、あっという間に稲豊の視界から消える。しかし、消える直前に見えた彼女の“ある部分”が、稲豊の頭に引っかかった。
「――尻尾は無いんだ」
犬耳美女の後ろ姿には、どこにも犬の尾は存在しなかった。
そのアンバランスに若干の違和感を覚えた稲豊。だが、魔法の存在、目的の場所、目の保養、など有意義な時間を過ごせたことへの満足感の方が強かった。
「いでよ炎!!」
稲豊は右手を限界まで開き、詠唱しながら前に突き出す。
当然のように何も起きない。
「いでよカマイタチ! 爆発! 雨! 氷柱! このさい自爆系でも良いから!!」
薄暗い路地裏に、稲豊の虚しい叫び声が木霊する。
「ま……分かってたけどね……」
茶番もほどほどに切り上げた稲豊は、路地裏の奥を目指して一歩踏み出す。
しかしそのとき、彼は自身の両手の異様な軽さに気がつくと同時に、顔色を青くした。
「――っ! 無い!?」
女性との衝突前に持っていた、料理鞄とビニール袋が見当たらない。
そのどちらも、衝突の拍子に手を離れたのは明らかであった。
美女との遭遇で舞い上がっていたとはいえ、完全に失念していたことを、稲豊は驚きながらも反省する。自信作壱号には先ほど命を救ってもらったばかり、稲豊は必死の形相を周囲へと向けた。
「…………あった!」
数メートル先の地面に、料理鞄を発見する稲豊。
彼は飛びつくように鞄を抱きかかえると、頬づりした後でその中身に視線を走らせた。
「良かった、中身も無事だ!」
どの調理器具にも致命傷はついていない。
稲豊は安堵したのも束の間、次にビニール袋の捜索を開始する。
これも建物の隙間から、比較的すぐに見つけられた。
時間の経過により味が数段落ちているとはいえ、貴重な貴重な地球の食料。
稲豊は小走りで駆け寄り、ビニール袋を左手で持ち上げる。
「ん? …………軽くね?」
あきらかに重量が軽くなっているビニール袋。
嫌な予感が、容赦なく稲豊の脳裏をよぎっていった。
「……な、ない!?」
慌てて中身を確認した稲豊は、タッパーが一つになっていた事実を知る。
残っていたのは、よりにもよってネタで作った自信作参号(牛の干し肉)のみであった。
「俺のじしんさくぅぅぅ!!!!!!」
絶望の絶叫が路地裏の闇へと吸い込まれていく。
それからしばらく稲豊はタッパー探しに没頭するが、ついに残りの二品を見つけることは叶わなかった。
「やっぱり路地裏なんてろくなもんじゃない……」
埃にまみれた稲豊は、がっくりと肩を落とす。
そして後ろ髪を引かれつつも、路地裏をとぼとぼと後にした。