第2話 「オーク マジ オーク」
「――――――ぷはぁ~! あー、ようやく潤った」
門でのやり取りから三十分後。
志門稲豊は街外れで見つけた小川で、乾ききった喉を潤していた。
この場所の通貨を持っていない彼にとって、飲水を確保できたのは非常に大きい。
「塩分がやたら少ないけど、飲める水で助かったな」
得体のしれない場所の水だ。
警戒から、稲豊は最初ほんの少しだけ口に含んで確認をしてみた。
そして、『飲み込んでも問題はないだろう』と彼は判断したのだ。
こんな状況でこそ、稲豊の固有スキル『神の舌』はその真価を発揮する。
神の舌は口に含んだ物……というより、舌に触れた物の状態を知ることができる。
毒の有無、鮮度の良し悪し、何の成分で構築されているのか。
どれくらい煮込んだ物なのか、あるいは焼いた物なのかも、一舐めしただけで知ることができるのだ。
それは、彼が生まれながらに身に着けていた特異な能力だった。
まさに神からの贈り物。稲豊の数少ない、他人に誇れる要素でもあった。
「さて、落ち着いたところで状況を整理しよう」
頭も喉も冷えた稲豊は、土手の雑草のうえに腰を下ろし、現在の自分が置かれた状況について思考を巡らす。
とはいえ、すでに稲豊は現状についての『ある仮定』を組み上げてあり、そしてそれは正解でもあった。
町に入ってから、彼はただ水を探して放浪していたわけではない。
欲していた情報は、もう手に入れている。
すなわち、この“世界”の情報についてだ。
「異世界転移……いや転生? 呼び方なんてどうでもいいけど、どうやらここは地球じゃあないみたい……だな」
中世ヨーロッパを彷彿とさせる街並みには、電柱や信号機などの文明の利器は存在しない。街には稲豊が見たこともない奇妙な文字があふれ、地球のどこを探しても見つからない六本足の猪が引く馬車や、それを操る異様な御者たちの姿もあった。
広場に足を運んだときなど、遠くに見えた西洋風の城よりも、眼前に広がる光景に絶句したほどである。
彼が広場に足を踏み入れた瞬間。
鎧を着た二足歩行のトカゲが、尾を振り振り目の前を横切ったのだ。
しかも、異様はそれだけでなく――――
下半身はズボンを履いているが、上半身が裸の人間大の猿。
巨大な斧を右肩に担いだ、身の丈が三メートルはある巨人。
黒いローブで体を覆っているが、チラリと覗く手がカニの鋏に酷似した生物。
そのどれもが、二足歩行で広場を跋扈していたのだ。
遠目には人間と変わらない者も歩いてはいたが、確認すればやっぱり違う。
目玉や腕や足の数、さらには耳の大きさや形など、どこかが人とは決定的にかけ離れている。瞳や髪色も、青や緑や赤と色彩の豊かな者も多く、服装も上下無地の地味な服から、派手なドレスなどさまざまである。
「もしかしたら――――あの門番たちも人間じゃなかったのか?」
門番が人であると疑いもしなかった稲豊だが、門の中の様子を知ればその自信もなくなってしまう。そう感じるほどに、この場所では純粋な人間の姿がまったく見えないのだ。
少年の胸中に、孤独という名の魔物が歩み寄ってくる。
『この世界に、はたして人間はいるのだろうか?』
稲豊は思い出す。
創作の世界に入ることが出来たらどうするか?
友人とそんな空想を語った経験を。
異世界への転移、想像はできても絶対に体験はできない。
だからこそ、もし異世界転移できたら最高に楽しいだろう――――
「そう考えてた時期もあったっけ……。現実に起きてみれば、将来への不安と心配と危惧しかねぇ。どんなにダメな女神でもいいから、ついてきて欲しかったよ」
稲豊は自らの不運をさらに呪う。
「本当だったら今ごろは家にいて、交流会での活躍を親父に自慢してたころだってのに……。現実はどうよ? 家も無ければ宿を取る金も無い。そのうえ頼りになる人間どころか、そもそも人間がいねぇ……」
毒づきながら、自身の頬を強くつねった稲豊。
しかし痛みが広がるばかりで、いくら待てども悪夢から目覚める気配はなかった。
「いやいや、辛い状況だからこそポジティブに行こう! ここで足踏みしてても意味がねぇ、漢なら前進あるのみ。もしかしたら、親切な宿の主人が泊めてくれるかもしれないしな! それにもっと近くで城も見てみたいし!」
無理矢理に前向きに考えた稲豊は、観光気分で城を目指した。
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「――――んん? なんだこの匂い?」
城へと歩みを進める道すがら、周囲をただよう異臭に稲豊は眉を顰めた。
生臭い豚肉や生魚に酢をトッピングしたような、すえた酷い悪臭だ。
悪臭で曲がった稲豊の鼻が、市場近くの建物が発生源だと突きとめる。
灰色の煙を吐き出す煙突と、扉の上の三角看板が特徴の、比較的大きな建物だ。
開放されていた木製の扉から中を覗き込むと、そこが何の建物なのか、異世界に疎い稲豊でもすぐ理解することができた。
徒広い空間に、所狭しと並ぶ丸い木製のテーブル。
それを囲うように並べられているのは、同じく木製の背もたれ付きのイスだ。
そして腰かける人外たちは、談笑しながら、テーブルに並べられた料理に舌鼓を打っている。カウンターにいるトカゲ人間が呷っている茶色の液体は、酒に違いなかった。
「酒場か…………それにしても酷い臭いだな」
稲豊は入り口の上の看板に視線を走らせる。
そこに並ぶのは、彼には理解できない異形の文字列。そこには店名が記してあったのだが、稲豊にはただの模様にしか見えなかった。
「異世界召喚物って、『言葉は通じるけど文字が読めない』ってのがお約束になってるけど……。それはこの世界も例外じゃないみたいだな」
稲豊がため息混じりにそんな愚痴をこぼしたとき、ふいに訪れた衝撃が少年の左肩を弾いた。看板を見上げていたせいで、店から出てくる“それ”に気付くのが遅れたのである。
「――ああ? なんだてめぇは、物乞いが物欲しそうに見てんじゃねぇよ!」
『猪人間』
そんな文字が稲豊の頭に浮かぶ。
二メートルを優に越えるその生物は、ファンタジー作品に出て来るオークそのままである。
「それともテメェが食材になってくれんのか? グヘヘ!」
下卑た笑みを浮かべるオーク。
それに釣られるかのように、後ろに控えていた別のオークも、同様に稲豊を嘲笑する。
「…………すんません」
不本意だけど、知らない土地での揉め事は避けたい。
呆けていた自分にも非はあるのだ。
稲豊はそう自分を戒め、謝罪したのちに回れ右をする。
そして依然として笑い続けるオークたちを背に、そそくさとその場を後にした。
「……ケッ! てめぇらはあそこから出て来るんじゃねぇよ。身の丈に合った場所に帰りな」
背中にぶつけられる極上の悪意。
しかしそのときの稲豊の頭にあったのは、その悪意に対する憤り――――ではなく、小さく微かな希望であった。
「今、あいつ……」
オークは確かに言った。
『てめぇら』
『身の丈に合った場所』
“てめぇら”というのを、オークが“人間たち”という意味で使ったのならば。
「…………あるんだ、人の集まる場所が」