第1話 「信頼とかプライドとか色々失った気がする」
サブタイトルは主人公がネタでコメントしているだけなので、本編と関わりがない場合もございます。
第1話を少し修正しました。
稲豊が最初に違和感を覚えたのは、足裏より伝わる感触だった。
玄関ドアの下には数センチの段差があり、躓いた経験のある者は足元を確認しながら一歩踏み出す。
それはその扉を何千、何万と潜った稲豊も例外ではなく、一歩降り立った先ではコンクリートの冷たい感触を踏みしめるのが当然であり必然。疑う必要すら無い絶対の事実だった――にも関わらず、稲豊の足裏に広がるのは、柔らかな土の感触だけだった。
「え?」
違和感から数瞬のちに頭を上げた稲豊は、眼前に広がる光景を見て愕然とする。
「…………は?」
素っ頓狂な顔をした少年の口から、間抜けな音が飛び出る。
それもそのはず。
彼の眼前に広がるのは簡素な住宅街ではなく、見渡すかぎりの平原が広がっていたのだから。
足元には舗装されていないまっすぐな道路が延々と続き、はるか遠くには鬱蒼とした森が見える。晴天の空に吹く爽やかな風が頬を撫でるが、彼にそれを感じる余裕はない。稲豊は自然と背後を振り返るが、さきほど潜り抜けたはずのドアは影も形も無くなっていた。
「…………どこよ? ここ」
自分の住み続けた街にこんな場所は無い。
稲豊の記憶を総動員しても、この光景に関して引っ掛かるものは何一つ浮かんでは来なかった。
あまりの出来事にしばらく呆けていた彼は、その身に迫る危機に気付くのが一瞬遅れる。
「ブルルルル!!!!」
「うおわぁ!?」
背後から迫っていた巨大な影に衝突の直前に気付いた稲豊は、全力で体をひねり、転がるようにして回避する。気付くのが後一秒遅れていたら、跳ね飛ばされていたに違いない。そうなったら、大怪我は必至だ。
そう断言できるほど『ソレ』は力強く、稲豊の存在など全く意に介さず走り去って行った。
「…………いの……しし?」
道路をひた走るその生物は、稲豊には猪の“ように”見えた。
『ように』と強調したのは、その猪が彼の知る猪では有り得ない造形をしていたからである。
まずはその巨大な茶色い体躯。
真正面から見た背丈は稲豊を超えるほどあり、横幅は彼が両手を広げたぐらいはあった。下顎から突きでた両端の太い牙は、巨鼻を守るかのように聳え立っている。
そして決定的に違うのが、足の本数だ。
前に四本後ろに二本。計六本の足で走る猪など、稲豊の記憶の中には存在しない。
しかも、稲豊が気になったのはそれだけではなかった。
その猪は、人が四人は乗車可能な馬車を引いていたのだ。猪が牽いていても馬車と呼ぶのかどうか、彼には甚だ疑問ではあったが。
「突然変異した猪が……時代錯誤な物を牽いとる……。いやいや、六本足なんてそんな馬鹿な。何かの見間違いだな……うん」
猪の手綱を握る人間の姿は見えなかったが、馬車の中には誰か居たのだろうか?
そんなことを考えながら、稲豊は転がったままだった体をゆっくりと起こす。料理鞄もビニール袋に入っていた自信作も無事だったことに、「不幸中の幸いだ」と少年はホッと胸を撫で下ろした。
「って安心してる場合じゃないだろ……しっかりしろ俺!」
稲豊は両頬を叩き、愚鈍な脳に喝を入れる。
そして冷静になってから、現在の状況を整理した。
「ここは俺の知らない場所で、なんか得体の知れない生き物がいる」
彼の灰色の脳細胞は『何も分かっていないのと同じ』という結論を導き出した。
「白昼夢か? それとも謎の組織にでも連行されて、何かしらの実験にでも突き合わされてるのか? とにかく情報が少なすぎる。ここで突っ立ってても仕方がないし、交流会に途中からでも参加しないとな……」
さきほどの回避行動で左肩を擦り剥いてしまった稲豊だったが、泣き言は言っていられない。猪が走り去った方角へ、目に見えない糸に引かれるように、少年は歩き出した。
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汗が額をつたい、目に入り染みる。
容赦なく照りつける太陽が、体から水分を奪っていくのが稲豊には分かった。
軽くない料理鞄も、擦り剥いた左肩も、疲労を蓄積させる要因となっている。
あの猪以降、何か、あるいは誰かとすれ違う事は全くない。
稲豊は携帯電話を開き、『圏外』の文字の下に表示されている現在時刻に視線を走らせる。知ったのは残酷な現実。歩き出してから三時間、交流会は既に終わっていた。
「…………くそったれ!」
自身がどこに居るのか分からない現実よりも、『交流会に連絡無しに参加できなかった』。その不誠実さへの怒りが上回った。
それが誰の仕業なのかも分からないので、怒りの矛先があるとすれば、何かに巻き込まれた自らの不運しかない。
稲豊は我が身を呪いながら、それでも必死に足を動かした。
「……はっ……はっ――――あ?」
呪うことにさえ疲れた稲豊。
そのぼんやりとした視界の先に、何かが映り込んだ。
現在位置から距離はあるものの、それがこの長い旅路の終わりを意味していることは理解できる。目の焦点が合ってくれば、それが巨大な壁であることが分かった。
すでに倍は重くなっていた足に鞭を打ち、巨大な壁を目掛け、稲豊は残った力を振り絞って駆け出した。
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「はぁ…ぅぷ…………これ、門……だよな?」
額の汗を拭いつつ、巨大な石壁を見上げ、それを口に出して確認する。
高さ十メートルはある壁がグルリと遠方まで続いていて、道路と壁の接点にはこれまた巨大な木製の扉が備え付けられている。門は現在開放されていて、外からでも中の街並みが垣間見えていた。
「石壁に巨大な門って……RPGの城門そのものじゃん。何かのテーマパーク? 日本にこんな場所あったっけ?」
しばらく石壁を眺めていた稲豊だが、このままでは埒が明かない。
何度か深呼吸をして呼吸を整わせたのち、門を潜るために足を踏み出した。
その途中――――
「待て」
くぐもった低い声が聞こえ、稲豊より頭二つ分は高い人影が、ガシャガシャと音を立てて彼の視界を遮った。
その正体は、ゲームや漫画などでもお馴染みの西洋甲冑。
もちろん中身も存在するわけだが、稲豊にとってその者の姿形は想像の域をでない。それだけ、全身を隙間なく鎧で覆われている。
「この暑いときに甲冑って……キャストさんも大変だな」
音から伝わる重厚感から、その甲冑が見掛け倒しの偽物ではないことが伝わる。日本では滅多にお目にかかれない逸品を前に、稲豊は目は奪われていた。
しかしそんなことはお構いなしに、甲冑男は稲豊に顔を近づける。
「見ない顔だな。何用で参った? 身分証は持っているか?」
「あ、日本語だ。やっぱりここは日本なのか……って、身分証? 入場チケットじゃなくて?」
「入場……なんだって? 身分証は持っていないのか?」
「えっと、ちょっと待っててくださいね」
稲豊はズボンのポケットから財布を取り出し、遠出をするために取得した、原動機付き自転車の免許証を取り出す。そして躊躇することなく、それを甲冑男に差し出した。
「なんだこれは?」
「なにって……運転免許証ですけど? あ、もしかしてマイナンバーカードの方とか?」
「マイ? いったい何を言っているのか、さっぱり分からん」
甲冑男が首を傾げるが、稲豊も同様に首を傾げることしかできない。
しばらく互いに相手の出方を待つ時間が続いたが、やがて痺れを切らした甲冑男はガシャリと振り返ってから言った。
「おい、ちょっと来てくれ!」
すると門の向こう側、つまりは街のある方角から、またひとり甲冑男が姿を現す。稲豊は現れた甲冑を見て、ぎょっと目を見開いた。
なぜならやってきた甲冑男は、右手にギラギラと輝く剣を握っていたからである。
「どうしたマース?」
「町の外から変な人間がやってきたんだが――――」
最初の甲冑男が、もうひとりの甲冑男に経緯を告げている。
そこでようやく、稲豊は自分がいま置かれている状況が、限りなく不穏に近いことを悟った。
さっきからの甲冑男の対応も、チケット売り場がない入り口も、ここがテーマパークの類でないことは明らかである。
「…………じゃあ、ここは本当にどこなんだよ?」
ぼそりとこぼした稲豊だが、その疑問に答えるものはいなかった。
逃げるわけにもいかず、ただ呆然と立ち尽くしている間に、甲冑たちは再び稲豊へと顔を向ける。
「悪いが持ち物を検めさせてもらう。抵抗はするんじゃないぞ。少しでも怪しい動きを見せれば――――」
物騒な台詞を聞いた稲豊の全身に、ぞっとするほど冷たい汗が流れる。
彼らの放つ雰囲気が、それが冗談ではないことを物語っていた。
このままではいけない――――と咄嗟に思った稲豊は、この窮地を何とか乗り切るために脳をフル回転させる。
数秒後に導き出した結論は、『誤魔化す』というありふれたものだった。
「い、いや……えーと……あれー、おかしいな~! 身分証をどっかに落としてしまったみたいで~。ハハハ、まいったなぁ…………なんて」
イナホはコマンド『誤魔化す』を使用した!
「――――――――」
うたがうヨロイには効果がなかった!
うたがうヨロイの警戒度が50上がった!
うたがうヨロイは剣を握って力をためている!
「ま、待った! 待った待った!」
稲豊は両手を前に突き出し、相手が早まるのを全力で阻止する。
誤魔化しが通用しないのなら、もはやこれまで。彼は恥も外聞もなく、最後の手段を講じることにした。
「……ぅぐ、ひっく……ほ、本当に……無くしたんです……ゥェ……家では、腹を空かした……ひっ……妹と弟が……俺の帰りを待っているんですよぉぉぉ!!!!」
『泣き落とし』である。
稲豊は立て続けに起きる理不尽に、『どうにでもなれ!』と、半ばヤケになっていた。両手で顔面を覆い、ドゲザフォームで泣き縋り絶叫する。もうこれでダメなら、煮るなり焼くなり好きにしろと言った気分だった。
「わ、分かった! 分かったから!」
いい歳をした男が泣きじゃくる姿は、さすがの門番も胸に来るものがあった。
さらに『コレはイケるのではないか?』と、誰からも見えない角度でしたり顔を浮かべる稲豊に、
「――――まぁ、良いんじゃないか?」
と、もうひとりの甲冑男からフォローが入った。
ようやく吹いてくれた追い風に、稲豊は心の中でガッツポーズを決める。
しかし、門番の次の言葉で、『持ち上げて落とす』という行為が、いかに残酷なのかを稲豊は思い知る結果となった。
「う~ん、こんなあからさまに怪しいのはここまで来れないはずだしな。荷物の確認して問題なけりゃあ、通っても良いよ」
「…………へ?」
情が通じたまでは良かったが、次の問題が発生。
ふだんの稲豊なら、問題なくその荷物を見せていたに違いない。
だが、いまのこの状況では、見せたくない物がひとつだけあった。
それは料理鞄の中で眠っている、『三つの包丁』。
話が上手く噛み合わない彼らに、その正当性を主張できる絶対の自信はなかった。国によっては、不審人物と見なされても文句は言えないのだ。
「え、えーと……荷を検めるのは後日に改めてということには……?」
「なるわけないだろ。少しそこでじっとしていなさい」
しかし門番ふたりは、そんな稲豊の困惑など意に介さない。
地面に置いてある彼の荷物に、無情にも歩を進めていく。
「なんか変な容れもんだなぁ」
そんな呑気な声をどこか遠くに聞きながら、稲豊は今日だけで何度祈ったかも分からない神に再び祈った。
一瞬にも永遠にも感じる時間が経過したのち、門番のひとりが「おい!」と、声を上げる。
それは楽園への招待状か? はたまた死刑台への片道キップか?
稲豊は青い顔に大量の汗を浮かべながら、ゆっくりとそちらの方へと首を動かす。
「どうした?」
「これ見てみろよ。じょ……な」
耳が音を遮断しているのか、稲豊の耳に門番たちの会話は届かない。
なのに彼の心臓は、鼓動を強く刻み続ける。
「だとしたら……」
「ああ……ちょっと待ってろ」
会話が終わり、門番のひとりが稲豊へと近づく。
恐怖から目を逸らす稲豊の前に、荷物の中のひとつが差し出された。
「コレなんだが」
鎧の放つその声色からは、何の感情も読み取ることができない。
覚悟を決めて、稲豊は震えながらおそるおそる瞼を持ち上げる。
そんな稲豊の視線の先にあった物は――――
「…………自信作……壱号?」
稲豊の眼前に差し出されたのは料理鞄の方では無く、ビニール袋に身を潜めていた『自信作壱号』であった。
「あんたもしかして貴族の使用人じゃないか? 使いに出てて、わけあって歩きになったんだろう?」
「えっ!? ああ……えっと…………ソノトオリデス」
若干フレンドリーになった門番が、声を弾ませながら聞いてくる。
脳は全く理解が追いついていないが、稲豊がとりあえず話を合わせた。
「やっぱなぁ! そんなの食えるのは貴族ぐらいなもんだ」
「止めて悪かったなお兄さん。ほら、通って良いよ。家族の所に早く行ってあげな」
物凄い勢いで受け入れられ呆気に取られた稲豊だが、この場にいるのも何だか居心地が悪い。稲豊は「どうも」と一礼し、ギクシャクした様子で巨大な門を潜り抜けた。
「…………何だったんだ……いったい?」
何がなんだか分からないうちに、門と死線を潜り抜けることに成功した稲豊。だが彼の待つ苦難に満ち溢れた物語は、まだ序章に過ぎなかった。