第4話
胸に入っていた管が抜けたのは、入院して一週間目のことだった。
その翌日から、リハビリが始まった。
「じゃあ佐伯さん、今日はベッドの端に座って、立つところまで行きましょうか」
若い理学療法士は、遠足の行き先でも告げるような明るさで言った。
ベッドの端に座るだけで、五分かかった。手術した右脚は、膝から下が自分のものではないように重かった。手首の骨折のせいで松葉杖は使えず、肘をのせる歩行器を渡された。
立つだけで、十分かかった。力を入れるたびに肋骨に響いて、ようやく立ち上がったときには、背中が汗でびっしょりだった。
「はい、立てましたね! 今日はここまでです」
「……これだけですか」
「これだけです」
翌日は、歩行器で三歩進んだ。その次の日は、五歩。
右脚を前に出し、左脚で踏ん張り、歩行器を少し押す。一歩ごとに脇腹がきしみ、右脚がずきずきと脈を打った。
女神は宣言どおり、毎晩のように顔を出した。佐伯は、ほとんど相手にしなかった。
十日目に、右脚がひどく腫れた。
前の日は八歩歩けたのに、その日は四歩で止まった。
その夜は、脚がずきずきと痛んで眠れなかった。
気が付くと、パイプ椅子に女神が座っていた。今夜は、報告書ではなく、例のパンフレットを膝にのせていた。表紙に、前にはなかった黄色いシールが貼られている。
『期間限定 回復魔法プラン』
「こちらでしたら、転生先で即日全快。明日には冒険に出られます」
佐伯は、すぐには「いらない」と言えなかった。
布団の端を握ったまま、しばらく黙っていた。女神も何も言わなかった。
「……いらないです」
ようやくそう言うと、女神は「そうですか」とだけ答えて、パンフレットをしまった。代わりに、分厚いファイルを取り出して、ため息をついた。
「……何ですか、それ」
「転生者様のアフターフォロー資料です。クレーム対応も私の担当なので」
「クレーム」
「はい。たとえばこちらの方。前世では、毎朝会社に行けなくなって退職された方なんですが」
女神はページをめくった。
「全属性魔法で勇者になられて、三日目に魔王討伐をお休みされました。『今日はなんか体が重い』とのことで、それから半年、お城から出ていらっしゃいません」
「……」
「こちらの方は、前世で資格の勉強を十年続けて、一度も試験を受けなかった方です。異世界で賢者になられて、今は『本気出せば魔王なんか余裕』と酒場でおっしゃっています。三年間」
「倒してないんですか」
「倒してないです」
女神は、またページをめくった。
「こちらは、ハーレムプランの方で――」
「もういいです」
佐伯は目を閉じた。
チートをもらっても、城から出られない人がいる。賢者になっても、酒場から動かない人がいる。
「……向こうに行っても、同じなんですね」
「え?」
「なんでもないです」
女神は首をかしげて、またファイルに目を落とした。
「本当に、皆さん何がご不満なんでしょうね。せっかく強くして差し上げたのに」
佐伯は答えなかった。
ギプスの右手を見下ろして、それから、ベッド脇に貼られたリハビリの予定表を確かめた。明日は、午前十時からだった。




