夜の逢瀬
夜になっても、風はぬるかった。
山の向こうで太鼓の音がくぐもって響き、虫の声と混ざってゆく。
暗い部屋の中、梓は灯もつけずに考え込んでいた。
明日から祭りだという。
村中がどこか浮き立っている気配がした。
机の上に日記が開かれたまま、放置されている。
母の名前が何度も出てくる古びたノート。
幾度読み返しても、胸の奥に沈むのは同じ痛みだった。
――お母さん。
――わたしは、何をしているの?
筆先が震え、紙に黒い染みが滲んだ。
そのとき、戸を叩く音がした。
二度。
間を置いて、もう一度。
心臓が跳ねた。
こんな時間に訪ねてくる人は、ひとりしかいない。
梓はゆっくりと立ち上がり、戸を開けた。
そこに清音がいた。
白い巫女装束を纏って、緋色の袴を穿いた姿で。月光を浴びて、その姿が闇の中に浮かび上がっている。
梓は息を呑んだ。美しかった。
それは人間の美しさじゃなくて、何か禍々しいまでに神々しい、この世ならぬ光を放っていた。
髪には白い紙垂が揺れて、肩にかかる黒髪の先に夜露が光っている。
「……清音」
名を呼ぶと、清音の唇が震えた。
「来て……しまった」
声が掠れている。
「来てはいけなかったのに。あなたに、これ以上近づいてはいけないのに」
梓の喉が詰まる。
清音の瞳が揺れている。
「もうすぐ祭りが……儀式が始まる。そうしたら、私はもう……」
言葉が途切れた。
梓は清音の手を取った。
冷たい。
骨ばっていて、細く震えている。
「入って」
清音が戸口をくぐる。
巫女装束の裾が床を掃き、かすかな音を立てた。
月の光が二人の間に落ちる。
蝋燭に火を灯すと、壁に二つの影が揺れた。
梓は清音を見つめた。
この人が、美穂を、健太を、佐藤さん一家を――。
分かっている。
この人の手が、どれだけの血に染まっているか。
「ずっと考えてた」
梓の声が静かに響く。
「清音がしたこと。美穂ちゃんも、健太くんも、佐藤さんたちも」
清音の顔が蒼白になった。
「梓……」
「記憶を消したことも。村の人たちを操ったことも」
清音が一歩、後ずさる。
その目に恐怖が浮かんでいた。
「それでも」
梓は清音の手を強く握った。
「あなたを、愛してる」
清音の目から、涙が溢れた。
「どうして……どうしてそんなこと言えるの? 私は、私は人を殺したのよ」
「知ってる」
梓の胸が痛んだ。
「でも、きっと理由があるんだよね。それだけは分かってる」
――私も、罪なんだ。
梓の心の中で、母の日記の言葉が蘇る。
近親相姦。禁忌の子。
清音が犯した罪と、自分が背負う罪。
どちらが重いかなんて、分からない。
いや、もしかしたら――。
――私の方が、罪深いのかもしれない。
生まれながらにして、罪そのものなのだから。
そして今、目の前にいるこの人は――。
――私の、姉。
血の繋がった、本当の姉。
それを知っていて、それでも愛してしまった。
もう止められない。
清音が犯した罪と、自分が背負う罪。
どちらが重いかなんて、分からない。
「清音」
梓は清音を抱きしめた。
巫女装束の布地が、腕の中で柔らかく揺れる。
「一緒に、罪を背負おう」
清音が震えた。
「梓……あなたは何も悪くない……」
「悪いの」
梓の声が掠れる。
「私も、とっくに……」
言葉が喉に詰まる。
言えない。
この人に、真実を告げることは。
ただ、この腕の中で。
抱きしめることしか。
清音が顔を上げた。
涙で濡れた瞳が、梓を見つめている。
「愛してる」
梓は囁いた。
清音の唇に、そっと唇を重ねる。
柔らかく、温かく。
清音は抵抗しなかった。
「今夜だけじゃない」
梓は清音の頬に手を添えた。
「ずっと」
清音の唇が震えた。
「でも……私の身体……」
「見せて」
梓の声が優しく響く。
「清音の全部」
清音がゆっくりと振り向いた。
顔色が違っていた。
蝋のように白い肌。
赤く腫れた目の縁。
そして巫女装束の下、お腹のあたりに――
小さな目がいくつも開いていた。
梓の息が止まる。
でも、恐怖ではなかった。
悲しみだった。
清音が、清音じゃなくなっていく。
「これが巫女の印」
清音の声は静かだった。
「にくゑの巫女」
梓は口を開いた。
「痛い?」
清音が驚いたような顔をした。
まるで誰も、そんなことを聞いてくれなかったように。
「……痛い」
小さな声。
震えている。
「とても」
その声に、梓の胸が締め付けられた。
「あなたのお母さんは、この村から出て行った」
清音の声に感情が混じる。
寂しさ、恨み、それでも愛情。
「だから、あなたも――」
「嫌」
梓は清音の手を握った。
冷たい。
けれど、生きていた。
「あなたを一人にしたくない」
清音の瞳から涙がこぼれた。
お腹の目からも、涙が流れた。
「でも時間がないの。私、もう――」
「にくゑって何?」
梓は清音を見つめた。
「どうすれば、あなたを助けられる?」
清音が微笑んだ。
その笑顔が、切なかった。
「にくゑ様は昔、この村を救った。飢饉の時、土地神が与えた肉の神……でも祈りを失えば、すべてを食い尽くす。だから巫女が必要。でももう――」
言葉が途切れた。
月光が弱まって、二人の影が重なる。
清音は巫女装束を脱ぎ去った。白い布が床に落ちる。緋色の袴が、静かに広がる。
その姿を、梓は息を呑んで見つめた。
両手で身体を抱きしめる清音。震えている。
その姿を、梓は息を呑んで見つめた。
両手で身体を抱きしめる清音。
震えている。
「これが……私」
背中にも、幾つもの目が浮かんでいた。
「うん」
梓はそっと近づいた。
「それでも、あなたは清音」
清音の額に、唇を寄せる。
「私の、大切な人」
――姉。
――愛する人。
心の中で呼ぶ。
言葉にはできない。
清音も泣いている。
二人は泣きながら、抱き合った。
やがて清音が囁いた。
「触れて……いい?」
梓は頷いた。
清音の手が、梓の頬を撫でる。
その指先の冷たさが、胸の奥まで染み込んでくる。
「あなたは特別」
清音の声が震える。
「私の力が効かない。にくゑ様の神薬も効かない。どうして?」
梓は答えられなかった。
――それは、私が禁忌の子だから。
――歪んだ命だから。
でも、その言葉は喉に詰まる。
「分からない」
梓は嘘をついた。
「でも、こうしてあなたと一緒にいられるなら、それでいい」
清音の瞳が揺れた。
そして――唇が重なった。
最初は触れるだけの、儚いキス。
けれどすぐに、それでは足りなくなった。
清音の唇が開く。
梓の舌を受け入れる。
甘い吐息が混じり合い、互いの熱を貪るように深く、深く重なった。
罪の味がした。
甘く、苦く、そして――もう引き返せない。
清音の指が梓の襟元に触れる。
ボタンが外れてゆく。
布地が肌から離れる。
白い首筋。
鎖骨。
清音の肌は冷たかった。
けれど梓が触れる場所から、確かに熱が生まれてゆく。
梓の手が清音の背中に回り込む。
肩甲骨を辿り、腰へと滑り落ちる。
指先が、何かに触れた。
背中の、肩甲骨のあたり。
肌の下に――小さな"目"。
閉じていた。
梓は手を止めなかった。
指をそっと滑らせ、その目を包むように撫でる。
瞬間、目が開いた。
梓を見つめている。
清音が震え、梓の名を呼ぶ。
「見ないで……こんな、醜いもの」
「醜くなんかない」
梓は清音の背中に唇を寄せた。
その目に、優しくキスをする。
――これも、あなたの一部。
梓の胸の奥で、何かが疼いた。
――私の肉体にも、禁忌の血が流れている。
――姉を愛してしまう、歪んだ業が。
清音の体が震えた。
「梓……」
涙が頬を伝い落ちる。
梓がその涙を舐め取ると、清音は梓を抱き寄せた。
服が床に落ちる。
月明かりが二人の裸身を照らす。
清音の体には、背中だけではなく、脇腹にも、太ももにも、小さな目が宿っていた。
それらすべてが梓を見つめている。
梓は清音を布団の上に横たえた。
髪が枕に広がる。
月光を浴びて、銀色に輝く。
梓は清音の上に覆いかぶさり、再び唇を重ねた。
今度はもっと深く。
もっと貪欲に。
舌が絡み合い、唾液が混ざり合う。
息が荒くなる。
清音の指が梓の背中を引っ掻く。
爪の跡が、かすかに熱を持って疼いた。
梓の唇が清音の首筋を辿る。
鎖骨。
胸元。
そしてさらに下へ。
清音の体が弓なりに反る。
「あ……梓……」
甘い声が喉の奥から漏れた。
梓の手が清音の太ももに触れる。
冷たく、柔らかく、震えている。
太ももの内側にも、小さな目がひとつ。
梓はそこにも、そっと唇を寄せた。
清音の体が跳ねる。
「や……そんなところ……」
「どこも、愛しい」
梓は清音の体を、目という目に、すべてキスをしていった。
清音の手が梓の髪を掴んだ。
強く、しがみつくように。
「好き……好き……梓……」
その言葉が、何度も繰り返される。
梓もまた、清音の名を呼んだ。
――清音。
――姉さん。
心の中で、呼びたい言葉を飲み込む。
二人の体が重なった。
境界が曖昧になってゆく。
ただ、熱だけがあった。
脈打つ鼓動。
荒い息。
絡み合う肢体。
清音の体中の目が、すべて開いている。
それらすべてが梓を見つめ、そして――涙を流していた。
透明な涙が、目という目から溢れ出し、肌を濡らしてゆく。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
清音が泣きながら謝る。
けれど体は梓を求め続けている。
梓は清音の涙を舐め取りながら、もっと深く、もっと強く抱きしめた。
「謝らないで」
梓の声が震える。
「私も……私も同じだから」
罪人同士。
いや、私の方がもっと。
梓の指が清音の肌を這う。
冷たい肌が、触れる場所から熱を帯びてゆく。
清音の脚が梓の腰に絡みつく。
二人はもっと、もっと深く求め合った。
何度も唇を重ね、何度も名前を呼び合った。
月が傾き、部屋の中の影の形が変わってゆく。
清音の体が梓の腕の中で震え、梓もまた清音に身を委ねた。
波が押し寄せるように、快楽が二人を襲う。
それは愛であり、罪であり、そして――業だった。
清音が梓の名を叫ぶ。
梓も清音を抱きしめたまま、その波に飲み込まれてゆく。
禁忌の血が、体中を駆け巡る。
姉を抱く妹。
妹に抱かれる姉。
片方は知っている。
けれど、もう止まらない。
止める気もない。
やがて波が引くように、二人の体から力が抜けていった。
汗が冷え、呼吸が落ち着いてゆく。
清音の頭が梓の肩に預けられ、規則正しい寝息が聞こえてくる。
梓は清音の髪を撫でながら、その体中に宿る目を見つめた。
目はすべて閉じていた。
満ち足りて眠る子どものように。
梓は清音をそっと抱き寄せる。
この温もりを、忘れたくなかった。
――姉さん。
心の中で、そっと呼ぶ。
――ごめんなさい。
――でも、愛してる。
窓の外がわずかに白み始めていた。
夏の夜の終わりの気配。
どれほどの時間が過ぎたのか分からない。
けれど、確かに二人は結ばれた。
肉体も、心も、罪も。
清音が身を起こした。
乱れた髪の隙間から、月明かりが肩を照らす。
体中の目は、もう見えなかった。
まるで最初からなかったかのように。
二人は身繕いをして、起き上がった。
快楽の余韻が、まだ体に残っている。
「見せたいものがあるの」
清音が梓の手を取った。
「梓には、もう全てを知って欲しい」
「うん」
梓は頷いた。
「教えて。全部」
清音の手は、まだ少し冷たかった。
その手に引かれて、梓は家を後にする。
暗い夜の村を、二人は手を取り合って歩いて行った。
「どこへ行くの?」
「道を外れる。けれど、怖がらないで」
清音が振り返る。
「あなたを待っている人がいるの」
「待っている人?」
「そう……だから行きましょう」
二人は山へ続く小道を歩き始めた。
――この道は……洞窟に続く道。
清音が振り返る。
その瞳の奥に、決意の光が宿っていた。
梓はその背中を見つめながら歩いた。
手のひらの温もりを確かめるように握りしめる。
――あの森の奥に、何が待っているのだろう。
月明かりの空に、夜鳥の声がひとつ響いた。
二人の影が、山道の闇に溶けていく。




