それぞれの放課後
放課後の陽射しは、どこか白んでいた。
蝉の声が遠くで響き、風がひときわ乾いている。
分校を出た梓は、そのまま山道を下りて診療所へ向かった。
昨日と同じ道のはずなのに、景色が少し違って見えた。
瓦屋根の影が浅く、風の匂いも軽い。
誰も彼も、少しずつ別の人間にすり替わっていくような気がした。
玄関の戸を叩くと、すぐに吉川が顔を出した。
「どうしました?」
柔らかい笑顔。
昨日、床に崩れ落ちた男の顔ではなかった。
白衣の袖をまくり、手首に小さな赤い跡が見えた。
梓の胸がきゅっと縮む。
「先生……昨日のこと、覚えてますか」
「昨日?」
吉川は軽く首を傾げた。
「何かあったかな。最近、暑さのせいで頭がぼんやりしてね」
その言い方が、あまりに穏やかで、恐ろしかった。
まるで“忘れた”というより、“書き換えられた”みたいに。
「……佐藤さん。俊夫さんと、沙織さんのことです」
名前を出した瞬間、吉川の表情がわずかに動いた。
だがそれは、懐かしい歌を思い出すような、薄い笑みだった。
「――ああ、そんな名前の患者さんがいたような気もするな。でももう、帰られんたんじゃないかな? 確か村に移住してきたけれど、空気が合わないとかで……」
梓の喉が凍った。
嘘だ。先生まで……記憶を書き換えられている……。
その言葉の下に、血の色をした沈黙が見えた。
「先生……ほんとうに、何も覚えてないんですか。健太君のことも美穗ちゃんのことも?」
「健太? 美穗? どこかで聞いたことがあるような……」
「私のことも! 一緒に祠に行きましたよね!? あの夜!」
「祠? 梓さんと?」
「そう、先生はあの夜から私のことを梓って呼んでくれたんですよ!」
「――祠……沙織さん……にくゑ……あ、うぅッ!」
吉川の瞳に、何かが浮かび上がったかと思った其の瞬間、彼は頭を押さえてうずくまる。
「せ、先生!?」
「大丈夫です。不意に頭痛が……」
――やがて起き上がった吉川は一瞬、不自然に優しい目で梓を見つめた。
「疲れてるんだね、梓さん。無理をしちゃいけない。
この村では、よくあるんだ。夢と現実の境があやふやになることが」
その言葉を聞いた瞬間、梓はぞっとする。
それは清音の言葉と同じだった。
(みんな、すぐに楽になる)
吉川の手が肩に触れた。
温もりがあるのに、どこか死んだ体温だった。
指先が紙のように乾いている。
「ゆっくり……休むことが大切だよ?」
梓は黙って頷き、診療所を出た。
戸を閉める音が、胸の奥にまで響いた。
坂道を降りると、村の家々の屋根が夕陽を受けて赤く光っている。
どの家の窓にも、柔らかな灯がともり、笑い声が漏れていた。
――まるで、昨日の血を照らすための光みたいに。
梓は歩きながら思った。
(もう誰も、わたしの味方じゃない)
頬を撫でた風が、生温い。
風の中に混じる甘い匂い――あの赤黒い瓶の匂いがした。
どこかの家から子供の声が上がる。
「お母さーん、祭りの準備できたよ!」
笑い声が続く。
それが遠ざかるほどに、世界が薄くなっていく気がした。
歩きながら、梓は胸の奥でそっと呟いた。
(私は……一体どうすれば……)
◆
放課後の教室は、夕陽に染まっていた。
机の角が赤く光り、黒板の文字が長い影を落としている。
窓の外では、蝉の声が狂ったように鳴いていた。
あゆみは廊下に立ち、清音の後ろ姿を見つめていた。
白いセーラー服。
長い黒髪。
背筋の伸びた、凛とした立ち姿。
美しかった。
いつ見ても、胸が苦しくなるほど。
あゆみの心臓が、早鐘を打つ。
今日こそ。
今日こそ、伝えなければ。
この気持ちを。
ずっと、ずっと抱えてきた想いを。
邪魔な梓が先に帰ってしまった今日がチャンス。
思いを定め、帰り支度をしている清音に歩みよる。
「清音」
声をかけると、清音が振り返った。
その瞳が、あゆみを映す。
あゆみの息が、止まりそうになった。
「あゆみ? どうかした?」
清音の声は、いつも通り優しかった。
柔らかく、穏やかで。
その声を聞くだけで、あゆみの胸は満たされる。
「お話があるんよ。ちょっとだけ、時間もらえる?」
「ええ、構わないわ」
清音が微笑んだ。
その笑顔に、あゆみの頬が熱くなる。
二人は誰もいない教室に入った。
扉を閉めると、外の音が遠くなる。
夕陽だけが、二人を照らしていた。
あゆみは清音の前に立った。
手が震える。
喉が渇く。
言葉が、なかなか出てこない。
「あゆみ?」
清音が心配そうに覗き込む。
その優しさが、あゆみの背中を押した。
「私な、ずっと清音のことが好きじゃった」
言葉が、口から溢れた。
もう止められない。
「小さい頃からずっと。清音を見るたびに、胸が苦しゅうて」
清音の表情が、わずかに変わった。
驚き――いや、困惑。
あゆみは構わず続けた。
「昨日のこと、私だけ覚えとるんよ」
清音の目が、わずかに見開かれる。
「美穂と健太のこと。佐藤さん一家のこと。みんな忘れとるのに、私だけ覚えとる」
あゆみは一歩、清音に近づいた。
「それって、私が特別じゃからじゃろう?」
清音が、何も言わない。
ただ、あゆみを見つめている。
「清音が、私だけを特別に扱うてくれたんじゃろう?」
あゆみの声が弾む。
「記憶を消さんかったんは、私が大切じゃから。私が――」
「違うわ」
清音の声が、静かに響いた。
あゆみの言葉が、止まる。
「え……?」
「あゆみは、勘違いしてる」
清音の声は優しかった。
でも、そこに含まれる何かが、あゆみの胸を凍らせた。
「ええ、記憶は消さなかったわ」
清音が頷いた。
「あゆみが、覚えていたいって言ったから」
「それって……」
あゆみの声が弾む。
「そう。あなたが望んだから、叶えてあげただけ」
清音が一歩、下がった。
「それだけよ」
――それだけ。
その言葉が、あゆみの心に突き刺さった。
「で、でも」
あゆみの声が震える。
「それって、私が特別ってことじゃ……」
「特別ね」
清音が頷いた。
「でも、私が望んだ特別じゃない」
あゆみの足元が、ぐらりと揺れた。
「ごめんなさい、あゆみ」
清音の声が、遠くなる。
「でも、私は……」
清音が目を伏せた。
その表情に、迷いが浮かぶ。
やがて、清音は顔を上げた。
その瞳は、どこか決意に満ちていた。
「あゆみは、梓じゃないから」
世界が、止まった。
蝉の声も、風の音も、すべてが消えた。
「だから、ダメ」
清音の声だけが、やけにはっきりと聞こえた。
「え……?」
あゆみの口が、勝手に動く。
「梓……じゃない……?」
「ええ」
清音が頷いた。
その表情に、一片の迷いもない。
「私が愛してるのは、梓だけ」
あゆみの視界が、歪んだ。
「あゆみのことは、友達として大切に思ってる。でも、それ以上じゃない」
清音の声が続く。
一言、一言が、あゆみの胸にナイフのように突き刺さる。
「ごめんなさい」
清音が頭を下げた。
「あゆみの気持ちには、応えられない」
あゆみは何も言えなかった。
言葉が、喉に詰まって出てこない。
清音が顔を上げる。
その瞳に、哀れみが浮かんでいた。
――哀れみ。
その感情を読み取った瞬間、あゆみの中で何かが音を立てて砕けた。
「そう……そうなんじゃね」
あゆみの口が、勝手に笑った。
「清音は、梓ちゃんが好きなんじゃね」
「ええ」
清音が頷く。
その仕草が、あまりにも自然で。
あまりにも、当然のことのようで。
あゆみの胸が、激しく痛んだ。
「ごめんなさい」
清音がもう一度頭を下げ、教室を出ていった。
扉が閉まる音。
静寂。
あゆみは一人、夕陽の中に取り残された。
机に手をついた。
膝が震える。
立っていられない。
崩れ落ちるように、椅子に座った。
そのまま、机に突っ伏す。
目を閉じても、清音の言葉が耳に残る。
――あゆみは、梓じゃないから。
――だから、ダメ。
あゆみの指が、机の端を掴んだ。
爪が、木に食い込む。
胸の奥から、何かが湧き上がってくる。
熱い。
灼けるように熱い。
それは悲しみではなかった。
――梓。
あゆみの脳裏に、梓の顔が浮かんだ。
いつも困ったような顔をしている。
おどおどして、自信がなさそうで。
どこが良いのか、あゆみには分からなかった。
あんな子が。
あんな、何の取り柄もない、東京から来ただけの子が。
――清音を奪った。
あゆみの胸の奥で、黒いものが渦巻く。
それは嫉妬だった。
そして、憎悪だった。
「梓さえ……」
あゆみの口が、呟いた。
「梓さえ、おらんかったら」
言葉が、自然に溢れてくる。
「清音は、私を見てくれたのに」
あゆみの目から、涙が零れた。
でもそれは、悲しみの涙ではなかった。
もっと黒く、もっと重い感情。
「どうして……どうして梓なん?」
あゆみの声が震える。
「私じゃ、ダメなん?」
答えは、返ってこない。
ただ、夕陽だけが、あゆみを照らしていた。
その光は、まるで血のように赤かった。
あゆみは顔を上げた。
涙で濡れた頬が、夕陽を反射する。
その目には、もう悲しみはなかった。
ただ、燃えるような憎しみだけが宿っていた。
「梓さえ……おらんくなったら」
その言葉が、教室に響く。
誰も聞いていない。
ただ、夕陽だけが、その言葉の証人だった。
あゆみは立ち上がった。
涙を拭う。
鏡を見る。
顔は、いつも通りだった。
笑顔を作る。
完璧な、明るい笑顔。
誰も気づかない。
この笑顔の裏に、何が渦巻いているか。
あゆみは教室を出た。
廊下を歩く。
笑顔で、手を振る。
「またね」と言って、友達と別れる。
誰も、何も気づかない。
あゆみの心が、壊れていることに。
あゆみの中で、愛が憎しみに変わったことに。
夕陽が沈んでいく。
闇が、村を包み始める。
あゆみは一人、家路についた。
その影が、長く伸びている。
まるで、何かに追われているように。
いや――。
追っているのだ。
あゆみは、もう決めていた。
梓を、この世界から消す。
そうすれば、清音は自分を見てくれる。
そうすれば――。
あゆみの笑顔が、登り始めた月明かりに浮かび上がった。
その笑顔は、どこか歪んでいた。
美しく、そして――恐ろしかった。




