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にくゑ-禁断の因習村百合ホラー-  作者: カクナノゾム
第十一章 二人の夜
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古井戸

 森の奥は、静かだった。

 風も止んでいて、虫の声すら聞こえない。清音は灯を持たずに、月明かりだけを頼りに山道を歩いていた。


 梓はその背中を追いながら、何度も息を呑んだ。闇の中で清音の髪が白く浮かび上がっている。まるでこの世のものではないような光を帯びて。


 さっきまで、この髪に触れていた。この髪の匂いを嗅いでいた。梓の指先には、まだ清音の感触が残っている。冷たくて、柔らかくて、震えていた肌。抱きしめたときの体温。唇を重ねたときの吐息。


 すべてが、まだ生々しく残っている。


 けれど今、目の前を歩く清音の背中は、どこか遠かった。もうこの世界の住人ではないみたいに。梓の胸が締め付けられる。


 村の端。祠のある洞窟に向かう小道を脇にずれる。するとそこには、古い石組みの円があった。元々は社務所であったであろう廃屋が、井戸の向こうにその影を見せていた。


「――ここ?」

「ええ、見せたいものは、この井戸」


 地面に沈むその口は、夜の海のように黒い。「危険・立入禁止」と書かれた札が錆びた針金で結ばれて、風に揺れている。


 音がした。

 ごぼ、ごぼ、と。

 底の見えない闇から、泡が弾けるような音が響いてくる。


 近づけば近づくほど、空気が冷たくなっていった。夏の夜なのに、ここだけが冬みたいだ。梓の足元で霜が光っている。草が凍りついて、白い結晶を纏っていた。


 息を吸うと、鉄の匂いと、蜜のような甘さが鼻を刺した。


 吐き気がこみ上げる。梓は喉を押さえた。それでも足は止まらなかった。引き寄せられるみたいに、井戸へと近づいてゆく。


「ここは、封じの井戸」


 清音が囁いた。その声は、どこか遠くから聞こえるみたいだった。


「変わりきれなかった者たちを、封じる場所」


 梓の足が止まる。


 井戸の縁から、細い水蒸気のようなものが立ちのぼっていた。白く、ゆらゆらと形を変えながら、夜気に溶けていく。その中に、人の顔のようなものが見える。歪んだ口。溶けた目。叫んでいるみたいな表情。


 梓の背筋を、冷たいものが走った。


「変わりきれなかったって……?」


 梓の声が震える。


「にくゑ様とひとつになれなかった者たち」


 清音が振り返った。月光に照らされた横顔が、涙に濡れている。


「儀式が終わる前に暴走してしまった子供たち。順化の途中で失敗した大人たち。中途半端に変わってしまった、哀れな魂」


 清音の声が震えた。


「彼らは、にくゑ様とは繋がれない。でもにくゑ様と同じように永遠を生きる」


 梓の喉が渇く。


「永遠? 不死……なの?」

「いいえ、火で滅することは出来るわ。そうすれば死ぬ……でもそれは出来ないの。彼らはにくゑ様と繋がっているから」

「繋がっている?」

「ええ、彼らを滅することは出来る。でもそれをすると、にくゑ様が抑えきれなくなってしまう」


 清音の目が、虚ろに井戸を見つめた。


「だから殺せない。封じるしかない。この井戸の底に、永遠に」


 永遠に、という言葉が、梓の胸に重く沈んだ。


「それって……さっきもそういってた……でもそんなこと……」

「寛永の頃の子供が今でもここに出現することがあるわ」


 清音が悲しげに首を振った。


「彼らは死ぬことすら許されない。ただ、闇の中で再生と崩壊を繰り返すだけ」


 それでは、自分が見た、あの子供は――。

 梓は震えた。想像しただけで、吐き気を覚えた。


 自分の身体が崩れてゆく。痛みに悶えながら、再生する。また崩れる。また再生する。終わりなく、永遠に。


 見てはいけない。近づいてはいけない。直感がそう叫んでいるのに、足が動いた。一歩、また一歩と井戸に近づいてゆく。

 覗き込もうとした瞬間、清音が梓の手首を掴んだ。


「見てはだめ」


 その指先は氷のように冷たくて、骨ばっていた。

 さっきまで、この手が私を抱いていたのに。

 梓は首を振った。


「知りたいの。あなたがずっと抱えてきたものを」


 清音は黙った。その瞳に、深い悲しみが宿っている。


「美穂ちゃんと、健太くん」


 梓の声が掠れる。


「二人も……ここに?」


 清音が目を伏せた。


「いいえ」


 その声が震える。


「二人は、まだ間に合った」

「間に合ったって……?」

「あのままなら、二人はなりそこなうところだった」


 清音の手が、梓の手首を強く握る。


「順化に失敗して、中途半端に変わって、そして――この井戸に封じられるはずだった」


 梓の息が止まった。


「だから、その前に」


 清音の声が途切れる。


「眠らせた」


 ――眠らせた。

 その言葉の意味が、ゆっくりと理解できてきた。


「永遠の苦しみを味わわせないために。人の心が残っているうちに、せめて安らかに」


 涙が、清音の頬を伝い落ちる。


「それが、私にできる唯一のことだった」


 梓の胸が、激しく痛んだ。清音は、二人を殺した。でもそれは――。


「他にも、たくさんいた」


 清音が井戸を見つめる。


「歴代の巫女候補。順化に失敗した子供たち。大人になってから崩れた村人たち」


 風が吹いた。


 井戸の蓋の隙間から、白い指が一本、ゆっくりと伸びてきた。


 関節がいくつも、いくつも連なっている。普通の指の三倍はある長さ。骨が透けて見える。爪の先に、小さな口がある。


 その口が、声にならない声で呻いた。


 あ……い……し……て。


「時折、井戸の結界を抜け出して村を徘徊することもあるわ。皆には見えないようにしているけれど」


 梓の喉が凍りついた。


 次の瞬間、もう一本。また一本。


 白い指が、何本も何本も這い出してくる。それぞれの指先に口があり、目があり、耳がある。すべてがばらばらに蠢いて、呻いて、叫んでいた。


 たす……けて。

 いた……い。

 さむ……い。

 ころ……して。


 梓の膝が震える。


 その指の一本が、梓の足元に這い寄ってきた。ぬめぬめと地面を這う音。湿った肉の匂い。腐った果実のような甘ったるさ。

 冷たい。生きているのに、死んでいるような冷たさ。

 梓は後ずさろうとしたけれど、足が竦んで動けなかった。


 指が、梓の足首に触れた。

 その瞬間――映像が脳裏に流れ込んできた。


 少女の顔。泣いている。


(お母さん、痛いよ)


 身体が歪んでゆく。背中から、何かが膨れ上がる。骨が軋む音。肉が裂ける音。皮膚が破れて、その下から白い塊が溢れ出す。


 目だ。無数の目が、少女の背中から生えている。

 少女が悲鳴を上げる。


(やだ、やだ、やだ!)


 村人たちが少女を取り囲む。誰も助けない。ただ、見ている。冷たい目で。諦めた目で。

 少女の父親が、娘を抱き上げた。泣きながら。


(すまん……すまん……)


 井戸の縁に立つ。少女が父親にしがみつく。


「お父さん、お父さん!」


 父親が、娘を手放した。

 闇の中へ、落ちてゆく。


 お父さん!

 助けて!

 痛い、痛い、痛い――!


 水音。そして、肉が潰れる音。

 でも、死なない。再生する。また崩れる。また再生する。


 永遠に。


「やめて!」


 梓が叫んだ。涙が溢れて止まらない。

 指が離れて、映像が途切れる。梓は膝をついた。震えが止まらない。胃の中のものが、口から溢れそうになる。


 清音が梓の前に立った。その背中に、小さな目がいくつも浮かび上がる。制服の布地を通して、うっすらと輝いている。


「下がって」


 清音の声が響く。

 白い指が、一斉に清音へと向かった。でも清音に触れる直前で、ぴたりと止まる。まるで清音を恐れているみたいに。


 いや――清音を、認識しているんだ。巫女として。にくゑに選ばれた者として。


 指の一本が、おずおずと清音の足元に触れた。まるで、犬が主人に媚びるように。

 清音がゆっくりと手を伸ばす。指の先端が、清音の掌に触れた。


 清音の目が、一瞬光った。青白い、冷たい光。

 白い指が、するすると井戸の中へ引っ込んでいった。他の指も、それに続く。まるで潮が引くみたいに。


 やがてすべての指が消えて、井戸は再び静寂に包まれた。ただ、ごぼごぼという水音だけが響いている。


「不思議ね。梓にも見えたのね? 彼らの記憶が」

「……うん」


 梓は膝をついたまま、震えていた。

 清音が振り返る。その瞳には、もう人の色が薄かった。月光を映して、どこか透明に見える。


「これが、封じの井戸」


 清音の声が静かに響く。


「なりそこないたちの、墓場」


 梓は震える手で清音の裾を掴んだ。


「大人でも、なりそこなうことがある」


 清音の声が続く。


「一度は順化できても、何かの拍子に崩れる。心が、にくゑ様を拒絶してしまう」


 清音の肩が震えた。


「そうなったら、もう止められない」


 梓は立ち上がって、清音の手を握った。


「あなたは……大丈夫なの?」


 清音が微笑んだ。その笑顔が、あまりにも儚くて、梓は泣きそうになった。


「私は巫女。完全に変わることができる」


 でも、その声は震えていた。


「なりそこなうことはない。ちゃんと、にくゑ様と一つになれる」


「一つになるって……」


 梓の声が掠れる。


「それって……」

「そう」


 清音が梓を見つめた。その瞳に、深い恐怖が宿っている。


「私という存在が、消える……この身体は消えてしまう」


 梓の息が止まった。


「にくゑ様に飲み込まれて、溶けて、混ざって――もう、私じゃなくなる。そして次の巫女が産まれるまでにくゑ様の中で支えるの」


 涙が、清音の頬を伝い落ちる。


「それはとても幸せなこと、そう教わってきた。でも――」


 梓は清音を抱きしめた。冷たい身体。けれど、確かに生きている。心臓の音が聞こえる。遅くて、弱々しいけれど、まだ打っている。


「嫌だ」


 梓の声が震える。


「そんなの、嫌だ」


 清音が泣いた。


「でも、それが定め。それに私が消えても、次代の清音はもういるから――」

「次代の?」

「ええ、虚木の傍流で女の子が産まれるの。その子がきっと次の清音になる」

「だから、私の役割ももうすぐ終わるわ」


 その声が掠れる。


「巫女は、にくゑ様に捧げられる。それが、この村の掟」

「逃げようっ!」


 梓は清音の手を強く握った。


「この村から、遠くへ。二人で」


 清音が首を振った。


「無理よ」


 その声が、諦めに満ちている。


「もう、私の身体は……」


 清音の袖がはだけた。その腕に、無数の目が浮かんでいる。さっきより、数が増えていた。ぎっしりと、びっしりと。それぞれの目が、梓を見つめている。


 梓は息を呑んだ。


「もう、止められないの」


 清音の声が震える。


「祭りが終わる頃には、私は完全ににくゑになる」


 清音が梓を見つめた。その目に、必死の懇願が宿っていた。


「あなただけは、覚えていて」

「清音……」

「私が、清音だったことを。人として、あなたを愛したことを」


 涙が、止まらない。


「本当は……怖い」


 清音の声が掠れる。


「消えるのが。あなたのことを忘れるのが」


 梓は清音の涙を拭った。


「忘れない」


 梓の声が震える。


「絶対に、忘れない」


 清音が声を上げて泣いた。子どもみたいに、しゃくり上げながら。


 梓はただ、その背中を撫で続けた。さっきまで愛し合った背中。にくゑの目が宿る背中。それでも、愛おしかった。


 どれくらいの時間が経ったのか分からない。清音の泣き声が、少しずつ収まっていく。


 遠くで、太鼓の音が響いた。祭りの始まりを告げる音。


 闇の底で水音が応えた。ごぼ、ごぼ、と。まるで何かが呼吸をしているみたいに。


 いや、呼んでいるんだ。清音を。


 違う、と梓は首を振った。清音は、あんなところには落ちない。巫女として、完全に変わる。でもそれは――。


 梓の胸が、激しく痛んだ。

 清音は梓の手を握って、静かに言った。


「もうすぐ夜が明ける」


 その声は震えていた。


「祭りが終われば、すべてが終わる」


 梓は清音の手を握り返した。


「だから――最後まで見届けて」


 清音の指に、力が込められる。


「私が、どうなるのか」

「誰にも、ならないで」


 梓の声が震える。


「清音のままでいて」

「……ごめんなさい」


 清音が囁く。


「それはきっと、できない」


 井戸の底から、また水音が響いた。今度はもっと大きく、もっと深く。まるで、何かが目を覚ましたみたいに。


 月が雲に隠れた。井戸の闇が広がって、世界の輪郭が溶けていく。


 風が止んで、森のざわめきも消えた。残ったのは、水音と、二人の鼓動だけ。


 梓は清音を抱きしめたまま、その音に耳を澄ませた。


 これが、封じの井戸。永遠の地獄。でも、清音はここには落ちない。もっと別の、もっと恐ろしい場所へ。


 遠くで、夜明けの鳥が一声、鳴いた。その響きが、哀しげに森に木霊した。


 清音が囁く。


「これで全て話したわ……後は」


 清音の言葉を継いで、森の奥から誰かが姿を現した。


「後はわしの仕事じゃな」


 それは神官服を纏った、清音の父親。いや――梓と清音の、父親。

 虚木清一だった。


◆◆◆

あとがき。


二人は結ばれました。

次章「封じの井戸」で、全ての謎が解き明かされます。

書いていると、腹の奥が温かくなります。

誰かが、いるような。


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