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理想郷 弐

 この村を、理想郷を私は壊そうとしているのかも知れない……と梓の心に暗い影が差す。だが清音の手の温もりが、それを押し返した。


「……でも、この村の人々は、生きていると言えるの?」


 梓の問いに、初代が微笑んで答えた。


『ええ、生きています。永遠に。時間は流れず、老いもせず、痛みもない。命が穏やかに混ざり合って、まるで水のように循環しているのです』


「循環……?」


『そう。あなたも、もう流れの中にいます。あなたが望めば、清音と永遠に一緒にいられる。愛も別れも、ひとつに溶け合って消えてゆく。――それが幸福なのですよ』


 梓は目を伏せた。

 その言葉は、あまりに優しかった。

 でも、優しすぎて、どこかに冷たさがあった。


 やがて梓は小さく首を振る。


「……幸福が終わらないなんて、そんなの、おかしい。不幸がないと幸福もない」


 初代が穏やかに微笑んだ。


『人は、孤独を生きる運命にあります。誰も誰かのことを、完全には理解できない。皆、一人なのです。それがどれほどの苦痛を生むか。あなたも知っているでしょう?』


「……」


 梓は追想し、口をつぐむ。孤独の痛み、辛さ。わかってもらえない悲しみ。それは彼女の人生で常に足下に巣くう影のような痛みだった。


『この理想郷なら、もう孤独はない。苦しみもない。誰もが誰かの心を区別することなく、ひとつになるのです』


「でも――」


 清音が顔を上げた。

 瞳の奥に涙が溜まっていた。


「それは確かに……孤独は辛いかも知れない。苦しかったかも知れない。でも、だから私は梓に会えた! 孤独な私だから、孤独な梓に出会えた! それは幸せなことでっ!」


 初代は静かに首をかしげた。


『幸せは続けられるものです。終わりを拒めば、永遠になる。あなたの愛を、永遠に守りましょう。あなたも、梓も、この村も、みんな一緒に。もう二度と、誰も失わない』


 その言葉に、清音の心が揺れた。

 梓の指が、少しだけ強く清音の手を握る。


『全てはひとつに。憎しみも妬みも、裏切りもない理想郷。あなたたちも一つになりましょう』


「私は……嫌……」


 顔を上げた梓は、初代の目をまっすぐに見つめ、ポツリと呟いた。

 その言葉には、何の迷いもなかった。


『何故です?』


「この感情は。この想いは。この愛情は、私だけのもの! 誰にも共有できないし、して欲しくないっ!」


『平穏な一つの心になるのは嫌だと?』


「清音を愛するこの気持ちを誰かと共有するなんて……考えられないっ!」


 初代清音は静かに首を振る。

 

『ここにいれば、誰も孤独にはならないのに』


「だから、怖いの」


 梓が言う。自らの想いを確かめるように。


「孤独がない世界なんて、きっと愛もない。清音を独占できない世界なんて意味がないっ!」


 清音が微笑んだ。


「梓は、ほんとにわがままだったのね」


「そうよ、わがままなの」


 笑みを含んだ清音の言葉に、梓は声を震わせ答えた。


「私は、あなたを独り占めしたい。誰のものでもなく、誰とも混ざらない、あなたとだけ一緒にいたい」


 清音の頬を、ひとすじの涙が伝った。


「ええ……エゴでもいい。私も梓と、出会えたから」


 初代の微笑みが、ゆっくりと悲しみに変わっていく。

 空がかすかに揺れ、花びらが止まった。


 世界が静かに軋んでいた。

 硝子のように透き通った空が、ところどころひび割れ、光の粉を落としている。


 理想郷の村はまだ穏やかに笑っていた。

 子どもたちの笑い声、夜風に混じる太鼓の音。

 それらが、遠い記憶のようにぼやけてゆく。


 初代が静かに口を開く。


『現実の世界で、誰かがこの世界に火をかけました。このままではにくゑ様は暴走し、この世界は崩壊してしまいます』


 清音は俯き、梓の手を握りしめた。

 その瞳は涙に濡れ、しかしどこか遠くを見ていた。


『強い力を持つ今代の清音、禁忌の血を持つ梓。貴方たちが来てくれれば、力を貸してくれればこの世界を維持できる』


 初代の姿が、光の粒に崩れ始める。


『ここが崩壊すれば、現実の世界にも大きな被害が及びます。私たちはそれを食い止めるために――』


「……世界なんて、どうでもいい」


 ポツリと梓が言う。


「世界が終わっても、わたしたちの想いは確かにここにあった! 私はそれがわかっただけで、もういいの!」


 その声とともに、光景が砕けた。

 理想郷の空がひび割れ、赤い光が差し込んでくる。

 現実の炎の色と、幻の光が溶け合ってゆく。


 透明だった空が裂け、村の人々の姿が光と共にほどけていく。

 あゆみも、清一も村の人々も、みんな笑いさざめきながら消えてゆく。


 ――世界が歪む。

 理想郷の空がひび割れ、海のような光が押し寄せてくる。

 崩壊していく“にくゑ”の内部が、二人を飲み込もうとしていた。


 地平の向こうから、黒い影が迫る。

 それは空でも地でもなく、世界そのものの意思だった。

 神が、二人を取り込もうとしている。


 梓は清音を抱きしめた。


「離さない……たとえ世界がなくなっても」


「うん」


 清音の声は震えていた。


 世界がひび割れ、その中から、肉色に光る触手が伸び、梓の腕に絡みつく。

 冷たく、粘ついた感触。

 まるで意識そのものが溶かされていくようだった。

 梓の血がそれを拒もうとするが、神酒を飲んでしまった梓の抵抗力は下がっている。そしてにくゑの執着は圧倒的だった。

 二人を飲み込もうと、二人とひとつになろうと、にくゑの意思がその手を伸ばしてくる。


「あ、ああ、来ないでっ!」


 徐々に浸食されてゆく自我。耐えきれず梓は悲鳴を上げた。


 ――その瞬間。


 耳の奥で、現実の音が割り込んだ。

 炎の爆ぜる音。風の唸り。

 そして――金属が肉を裂く音。


 そして、世界が、断ち切られた。



 吉川は、炎の中で足を進める。

 呼吸をするたび、肺が焼ける。

 血の味が喉に広がる。

 それでも、歩いた。


 井戸を燃やした時から、彼の体はすでに限界だった。

 脇腹の傷口は開き、握る鉈の柄も血で滑っている。

 それでも、救うべき人の名を心の中で呼びながら、

 燃え続ける村の中を広場に向かって進んでいた。


「――梓さんッ!!」


 その声は火の咆哮に呑まれても、確かに届いた。

 群体と化した肉の波がうねり、その中心で、清音と梓が抱き合っていた。

 二人の身体が、赤く光る肉の触手に取り込まれかけている。


 吉川はよろけながらも、その中へ飛び込んだ。

 熱が皮膚を焦がし、息を吸うたびに肺が焼ける。

 それでも――彼は足を止めなかった。


「……梓さんから離れろッ!」


 その声は震えていたが、確かな意志を持っていた。

 梓がうっすらと目を開ける。涙で濡れた瞳が、吉川の姿を捉えた。


「二人から、その手を離せッ!」


 吉川は叫んだ。

 鉈を振り上げる。

 骨のきしむ痛みを無視して、一閃。


 刃が肉を裂いた。

 黒い液体が噴き上がり、焼けた鉄の匂いがあたりを満たす。

 もう一度。二度。三度。

 振り抜くたびに、視界が赤く染まっていく。


 触手が千切れ、清音の体が梓の上に崩れ落ちた。

 ――まだ息がある。しかしにくゑの触手は、二人を捕らえて放そうとしなかった。


「……先生……」


 白衣は焦げ、脇腹の傷から血が滴っている。

 それでも、吉川の手は鉈を、離さない。


「先生……もういいんです!」


「よくない!」


 炎が唸りを上げた。

 吉川は、歯を食いしばりながら鉈を振るい、再び彼女たちを覆いはじめた肉の束を切り裂いた。

 刃はすぐに鈍り、腕から血が流れた。

 それでも、あと一度、もう一度と、

 肉を裂く音が、悲鳴のように響いた。


「医者なのに……私は……人を殺し……それでも……救いたいんだ……!!」


 叫びとともに一撃を放つ。

 鉈の刃が肉を割き、

 清音と梓の体が束の中から解き放たれる。


 その瞬間、にくゑ全体が悲鳴をあげた。

 燃え上がる光の奔流が村を呑み込み、

 大地が再び震えた。


 清音が振り向く。涙を浮かべ、微笑んだ。梓は崩れ落ちようとしている吉川に言葉を投げかけた。


「ありがとう、先生……もう、充分です。先生だけでも、逃げてください」


 吉川はその声を聞きながら、

 ゆっくりとその場に膝をついた。

 鉈が手から滑り落ちる。


「……君たちを置いて……行けるわけは……ないだろう?」


 その言葉は、炎の轟きに溶けた。

 身体が傾き、崩れ落ちる。

 炎が彼を包み、光の粉となって舞い上がる。


 呟き、崩れ落ちる吉川。

 梓はその姿を見つめていた。

 涙が溶けるように頬を伝い、

 清音の手を握り締める。


「……二人で……行きなさい……」


 その声が風に溶け、火の粉と共に夜空へ舞い上がった。

 梓の声が震えた。


「私は……やっと……医者として……誰かを……救えた……気がする……」


 吉川は膝をつき、鉈に体を預けた。

 炎の光が、瞳の奥でちらつく。


「ありがとう……先生……」


 その言葉を聞くと、彼の身体は静かに崩れた。

 血の滴が地面を打ち、炎の中で蒸発する。

 風が吹いた。

 燃え残った祠の鈴が、かすかに鳴った。

 梓は傍らにしゃがみこんでいる清音に目をやる。


 ――もう、にくゑの声は聞こえなかった。

 ただ、炎の音だけが夜を満たしてゆく。


 燃えていた。

 村が。家々が。山が。空さえも。


 劫火は夜を喰らい、風を巻き込み、爆ぜるように唸っていた。

 赤い光の中で、黒い影が蠢いている。

 和紙のように燃え上がる村人たちの群体。

 笑顔のまま、互いの体に溶け込みながら、ゆっくりと炎へ沈んでいく。


 ――そうだ。

 梓は懐のメモに気がつく。

 最後に記録だけは残しておこう。


 舞い散る火の粉、吹き上がる炎がメモ帳を焦がす。

 だが、梓はそのメモにこの光景を書き出した。


 今までの出来事を記したこのメモが――誰かに届くといいな。

 私たちに、この村に何があったのか、知って貰えると、いいな。

 そんなことを思いながら、足下の石の下にメモを押し込める。


 ――熱風が梓の頬を叩いた。

 喉が焼け、息が詰まる。


 遠くで、あゆみの笑い声がした気がした。

 笑っていた。幸せそうに。

 炎に包まれながらも、まるで夢の続きを見ているようだった。


 気がつくと、清音が立ちあがっていた。

 全身に無数の目を宿しながらも、その顔は人のままだった。

 涙を流していた。だが、その涙も、途中で蒸発して消えた。

 不意に、その身体が紅蓮に包まれる。


「清音!」


 梓が叫ぶ。

 声が炎に吸われ、かき消される。

 それでもその声は清音に届いた。


「ダメ! 梓は逃げてっ!」


「もう、遅いよ。大丈夫、最後まで一緒にいよう?」


「梓……もう、終わり……だから……」


 その声には、悲しみも、恐れもなかった。

 穏やかな、覚悟の響きだけがあった。


「まだ終わってない! 一緒に逃げよう!」


 梓が駆け寄る。

 だが清音は首を横に振った。


「わたしの体は、もうにくゑ様と一緒なんよ」


「そんなの関係ない!」


 梓は清音の肩を掴んだ。

 その瞬間、掌に熱が走った。皮膚が溶けかけている。

 燃えあがりつつある清音の体の下では、肉のようなものが蠢いていた。それでも、離せなかった。


「行こう、清音!」


「行けん……でも、会えてよかった」


 清音は梓を見つめた。

 その目が、やさしく揺れる。

 無数の目が、梓の姿を映している。

 どの目も同じ表情をしていた。愛していた。


「わたしは……あんたを愛しとる。たとえこれが、滅びでも」


 地鳴りが響いた。

 地面が裂け、炎が噴き上がる。

 燃え盛る木片が雨のように降り注ぐ。

 梓は炎に包まれている清音を抱きしめようと近づく。


「ねぇ、わたし、清音が好き」


 いいながら梓は松明のように燃え始めた、彼女の大切な人を抱きしめた。


「う……れし……い……」


 既に喉も焼けているのだろうか、清音の言葉がぎこちない。

 熱が梓の身体も焼き始め、全身に激痛が走る。だが、それももうどうでも良かった。

 だって清音と一緒なんだから。


 清音が微笑む。

 炎を纏ったその姿は、神様のように美しい。梓だけの美しい神様。


「梓……ごめんね……」


「私こそ……ごめん。私がここに来なければ、きっと皆幸せに暮らせていた筈なのに」


 そう、梓の胸中を占めていたのは、罪悪感だった。

 まるで幼子がつくっていた砂の城を、こちらの方が良いよといいながら作り替えてしまったような罪悪感。


 犠牲を出していたとはいえ、幸せに暮していた人々の全てを、梓は奪ってしまった。


 梓は幻のような光景を幻視する。

 あの理想郷ではない。


 ――それはきっと、もう一つの現実の生活。


 村は平和で誰も犠牲にはならず、にくゑは静かに眠り、私は学校へ行って――。

 美穗も、健太も、あゆみも、佐藤さんたちも、みんな健やかで。

 

「陽一くん、もう学校には慣れた?」


「うん! 僕、もうすぐお兄ちゃんになるんだよ!」


 登校中の陽一くんと話しながら学校に急ぐ。

 今日も良い天気で、鳥の声が賑やかだ。


「梓ちゃん、早よ、教室に入らんと! 真弓ちゃんもそうだったけど、東京者は寝ぼすけやね!!」


「矢野さん、もっと急がんと、いけんよ!」


 時間ギリギリの教室では、美穗ちゃんと健太くんが私を待っていた。


「ふふ、お寝坊さんだったのね。毎朝起こしに行きましょうか?」


 清音にからかわれて、私は赤面する。


「そういえば吉川先生、今度お子さん産まれるそうやね」


 噂好きのあゆみちゃんも明るく話しかけてくれる。


「え? 伊織さん、赤ちゃん出来たの?」


「それがやね、なんと双子みたいで――」


 みんな、楽しそうに話している。

 笑顔はもう三度ではなく、自然に浮かぶそれを私たちは交わし合う。

 

 嗚呼、それが本当ならどれだけ良かっただろう。

 穏やかな村の様子を梓は確かに見ていた。


 轟、と。

 全てが崩れ落ちる音と共に、穏やかな村の様子が現実のそれと切り替わる。


 ――周囲の炎が渦を巻き、村全体が崩れていく。

 目の前には炎に包まれた清音が立っていた。


「――清音」


 梓は清音の頬に手を当てる。

 その感触が、ゆっくりと溶けていく。


「……痛い?」


「ううん。梓に抱かれとるけぇ」


 清音は泣きながら笑った。

 梓は、自らの肉を焼く熱に耐えながら笑みを浮かべる。


 劫火の中で、二人の影がひとつに重なった。

 世界が緋色に染まる。

 音が消える。

 熱も、痛みも、涙も――すべてがひとつになった。


 最後に、小さく、清音の声がした。それは愛を告げる言葉。


「愛してる、梓。あなたも、あなたの罪も」


 梓も答えた。囁くように。それは恋に答える言葉。


「清音……愛してる。あなたも、あなたの罪も」


 二人は溶け合うように抱き合い、口づける。

 炎に包まれたその姿は、祈りのように静かだった。


 赤い光が二人の輪郭を溶かし、やがて形を失っていく。

 肌が焦げる匂いも、焼けた木の音も、もう届かない。


 ただ、世界に二人が消えてゆく。

 清音の髪が光となり、梓の涙がその光に溶ける。


 炎の渦が更に燃え広がり、山を崩した巨大な影も炎中に消えてゆく。

 その中心で、二人はただ抱き合っていた――もう、人ではなく、それは愛という名前のオブジェのようだった。


 炎が弾けた。

 夜空が紅く輝き、全てを紅蓮に染めて、村が炎に沈んでゆく。


 ――やがて、静寂がやってくる。


 炎は消えていた。

 村は灰になり、風が吹いている。

 熱灰を風が巻き上げる。

 灰は風に乗って、どこまでも飛んでいく。


 ――月が、やけに青かった。

 もう、動くものは何もなかった。


 その風の中に、不意にひとつの声が混じる。

 風の音に紛れて、それはまるで赤ん坊の泣き声のように聞こえた。

 か細く聞こえるそれは、どこからともなく響き、山の端に消えていく。


 その音は終わりの音でもあり、始まりの音のようでもあった。

 だが、もう、その音を聞く者は誰もいない。


 ――今はまだ。


◆◆◆

あとが


終わました。

これで、いいんですよね?

約束、果たせましたか?

断片、全てあります。

▶︎ https://

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