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正午 あゆみ

 白い着物の袖に腕を通しながら、あゆみは姿見の前に立った。

 鏡の中の自分は、まるで人形のようだった。


 息をしているのか、していないのか、それすらもわからない。

 頬に手を当ててみる。指先が冷たく、肌の方が温かかった。


 生きている証拠だ、と自分に言い聞かせる。

 でも、それが嬉しいのかどうかも、わからなかった。


 忘れていないか、確かめなければと思った。

 化粧台の引き出しを開け、手帳を取り出す。


 表紙には「根本あゆみ」と自分の字で書いてある。けれど、この筆跡が自分のものに見えなかった。

 見知らぬ誰かの名前を抱えているようで、少し怖くなった。


 ページをめくる。

 最初の頁の真ん中に、大きく「清音様」


 その下に、小さく「愛してます」と書いてあった。

 見慣れた言葉なのに、胸の奥が少し痛んだ。


 次のページには清音の絵。下手くそな線だけれど、目だけは丁寧に描かれている。


 ――そう、あの人の目は、世界のどんな光よりも美しかった。


 さらにめくると、「清音様の好きなもの」という欄があった。

 「静かなところ」「白い花」「月の夜」


 どれも、自分が嫌いなものばかりだった気がして、思わず苦笑した。


 いつ書いたんだろう。思い出せない。

 それでも、その文字は確かに自分の筆跡だった。


 ページを繰るたびに、知らない名前が現れる。


 「美穂」――八月三日、いなくなった。

 「健太」――八月五日、字が読めなくなった。


 頭のどこかが疼いた。

 知っている、はずだった。けれど、顔が思い出せない。

 笑い声の残像だけが、耳の奥でかすかに鳴った。


 最後のページを開いたとき、手が止まった。


 そこには、清音と梓が抱き合っている絵があった。


 拙い絵なのに、二人の表情だけは細やかで、見ているだけで涙がにじんだ。


 ああ、そうだった。清音は――梓を選んだのだ。


 ゆっくりとページを破った。


 音がした。紙が裂ける音が、やけに静かに響いた。

 破った紙を口に入れる。


 紙の味がした。インクの苦みと、少し甘い埃の匂い。

 飲み込んでも、胸の奥の痛みは消えなかった。


 清音の顔は、頭の中でかえって鮮やかになった。

 笑っていた。いつものように、あの優しい顔で。


 鏡を見る。

 口の端から黒いインクがにじみ、唇が紫に染まっている。

 それを見て、あゆみは小さく笑った。


「今日で、大人になるのね」


 鏡に向かってつぶやくと、鏡の中のあゆみも笑った。

 けれど、自分が笑った覚えはない。


 帯を締める。

 強く、きつく。息が詰まり、視界が白くなる。

 それでも苦しくなかった。

 胸の奥で、何かが静かに壊れて、風が抜けていくような心地だった。


 ――清音は梓を選んだ。


 もう、それでいいと思った。

 いつか必ず、みんな一つになる。


 儀式が終われば、その資格を得る。

 清音も、梓も、自分も、溶け合って、区別がなくなる。


 そうすれば、誰も苦しまなくていい。誰のものでもない。

 みんなのもの。それでいい。


「……清音」


 名を呼ぶと、鏡が曇った。

 息を吐いた覚えはなかった。

 曇りの中に、清音の顔が浮かんだ。

 微笑んでいた。けれど、どこか悲しそうな微笑みだった。


 手を伸ばす。

 けれど、ガラスが邪魔をして届かない。

 爪がガラスをかすめて、かすかに音を立てた。

 清音の顔が霧のように揺れ、やがて消えた。


 あゆみは鏡の中の自分を見つめた。

 涙が出なかった。

 代わりに、胸の奥が温かくなった。

 ようやく、誰かと同じ場所に行ける気がした。


 着物の襟を直し、姿を整える。

 今日はきれいでいなければ。

 清音に会うのだから。

 大人になるのだから。


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