夕刻 吉川
もうすぐ日が落ちる。
最後の光が山の稜線に掛かり、村は金色の光から闇のあわいに包まれようとしていた。
風が強く吹き始めていることを吉川は感じている。
まるで一枚の薄布のように村全体を覆っていた、山を包む霧が、ゆっくりと晴れてゆく。
診療所の外では、祭りの準備が進んでいるようだった。白い着物に着替えた村の女たちが、竹の幟を立て、子どもたちが笛を練習しているのがわかる。きっと去年と同じだ。誰もが笑顔なのだろう。
その笑顔の下で、何が行われるのかを、皆わかっている。それでも笑っているのだ。
「通過儀礼……か」
独りごとのように呟き、吉川は窓辺から離れた。
机の上にはカルテが積まれている。美穂、健太、そして陽一。
彼らの名前に指を触れると、紙の感触が指先にざらりと残った。
指の温度で、紙が微かに波打った気がした。まるでまだ生きているように。
外からは太鼓の音が響いてくる。
一定の拍子が、心臓の鼓動と重なる。
吉川は息を吐き、眼鏡を外してテーブルに置いた。
「みんな忘れてしまったのだろう……」
子供達が消えたことを。
両親や家族、友人すらも、全て彼らを忘れてなかったことになる。
それは、何と無惨なことか。
笑い声が窓を震わせた。
その声に、去年の祭りを思い出す。
あの時は何も知らず、単純に祭りを楽しんでいた。楽しんでいることが出来た。
そう、子供たちは白い着物を着て、舞台の上で微笑んでいた。
今日は梓とあゆみも、あの白い着物を着せられるのだろう。
梓の顔が脳裏に浮かぶ。
そして彼女との計画も。
吉川は机を離れ、診療所の地下へ降りていった。
電球の灯りが壁を照らす。湿気と油の匂いが鼻に刺さる。
吉川は地下室の隅に立てかけられた木箱をどけた。
その奥に、発電機用の燃料缶と古びた鉈が並んでいる。
鉈は薪を割るためのものだ。冬の間、何度か使ったことがある。柄の部分は手に馴染んでいた。万一のこともある。最低限の武装はしていこう。あれに出会ってしまえば、効果はないかもしれないが、人間相手には有効だろう。
吉川はためらいながらも、それを腰に差した。
人を救う手で、人を傷つけることを前提に刃物を持つということの重さを感じながら。
燃料缶のふたを開けて、中を覗いた。灯油の匂いが立ちのぼる。
これだけあれば、あの井戸までは燃やせる。
その後はどうなるか……洞窟にいたあの化け物まで燃やし尽くすことができれば、問題ないのだが。
梓から聞いた情報、井戸のなり損ない達とにくゑは繋がっていて、彼らを焼却すれば、にくゑは暴走する。それに賭けるしかあるまい。
上を仰ぐ。
天井の向こうで、祭りの笛が鳴っている。
「……そろそろ、行こうか」
独りごとのように呟き、缶を抱え上げた。
重かった。だが重さは確かだった。人間の罪の重さのように。
◆
そして夜がやってくる。
村の中心では、火が焚かれ、笛と太鼓の音が夜空に昇っていく。
女たちの歌声が、まるで祈りのように響いていた。
吉川は人目を避けて裏道を歩いて行く。
燃料缶の中身が波打つたびに、手に伝わる感触が変わる。
森の小道を抜け、村の外れにさしかかる。
この先には洞窟。道を外れると目的地の古井戸だ。
暗がりの中で、井戸の影が見えてきた。その奥にはあの廃屋。
目をやると、廃屋の影が揺れた気がした。
まさか……沙織さんたちは、またここに?
燃料缶を地面に下ろす。
吉川は、目を凝らし、廃屋の方向を見つめ歩き出した。
風は止み、木々のざわめきさえ消えている。夜気の奥で、何かが地を這うような音がした。
吉川は足を止めた。
懐中電灯を持つ手が自然と震える。
暗闇の奥に、低いうめきがある。
獣の声ではなかった。人間の呻き声だ。
それも、どこかで聞き覚えのある声。
「……俊夫さん?」
そうだ、この声は俊夫だ。佐藤俊夫。あの惨劇を、吉川は脳裏にくっきりと思い浮かべた。
あの後、村人たちに連れて行かれて――。
唸り声に向け、灯りを当てる。
崩れた土壁の隙間から、四つん這いの男が這い出してきた。
佐藤俊夫だった。
かつて診療所で、赤い薬を投与された男。
息子を喰い、蔵に閉じ込められた、あの男だ。
俊夫の肌は赤黒く膨れ、血管が浮き上がっていた。
片目が白く濁り、もう片方は異様に赤く光っている。
その口から、血と泡が交互に溢れ出していた。
「さ……おり……」
その唇が動く。
声の形だけが、まだ人間のものだった。見ている間にその姿はねじ曲がり、人と言うよりは人を模した獣のように変化する。
歪な人に似せた肉塊。前進に口と目が生え、本来の口があるべき所には無数の牙が見えている。
ぼろ布を身に纏わり付かせ、俊夫だったものは四つ足で飛びかかってきた!
地面を蹴って飛びかかってくる。
その速さに反応する間もなかった。
ナイフのように伸びた爪が、吉川の脇腹を薙いだ。
布が裂ける音と、肉の切れる音が重なる。
熱い痛みが、刃物のように走った。
胸の奥から息が漏れた。
触れた手のひらに、どろりとした温かさ。
それが自分の血だと気づいたのは、少し遅れてからだった。
俊夫が再び突っ込んでくる。
吉川は腰の鉈に手を伸ばした。
柄の木肌が掌に食い込む。
「やめろ――!」
叫びと同時に、刃を振り抜いた。
鈍い音。
衝撃で腕が痺れた。
鉄の匂いが一瞬にして鼻を満たす。
刃が俊夫の首に食い込み、肉を裂き、骨に当たる手応え。
俊夫の体が大きくのけぞり、床に崩れ落ちた。
しばらく、その場に動きはなかった。
息だけが、荒く交互に響く。
吉川は自分の胸に手を当てた。
鼓動が速い。
脇腹から、血が流れ続けているのがわかる。
脇腹の奥が焼けるように熱い。
止血が必要だと、医師としての理性が訴えた。
だが、そんな時間はない。
あの子たちが、今夜、儀式に巻き込まれる。
俊夫の方へ視線を戻す。
男は仰向けに倒れ、もう息をしていなかった。
再生しない、ということは、にくゑの同類になった訳では……なかったのか。
「すまない……俊夫さん」
私は……人を……殺してしまった……。
吉川は、仰向けに倒れ、動かない俊夫を見つめた。
その顔には苦痛と安堵が同居しているように見えた。それは吉川の感傷だったのかも知れない。罪悪感が見せた幻なのかも。
しかし、彼には俊夫の目が、どこか穏やかに見えた。
手を当てて、瞼を閉じさせる。
吉川は膝をつき、そっとその手を握った。
冷たい。けれど、ほんの一瞬、指が握り返した気がした。
「……あなたを救えなかった」
言葉は風に消えた。
吉川は立ち上がる。
視界が赤く滲む。
足元がふらついた。
痛みはすでに遠のいていた。そのことで吉川は傷の深さを知る。
――もう助からないかも知れないな。
そんなことを他人事のように思ってた。それも仕方ない。だって私は人殺しなのだから。
傷口が疼く。熱も、冷たさも、同じ場所にある。
「止血……は、もういい。火を……」
燃料缶を抱え直す。
鉄の匂いが鼻を突いた。
肩にずしりと重みが食い込む。
それでも歩き出す。
息を吸うたび、胸の奥が泡立つ音がした。
祭りの太鼓が、遠くで鳴っていた。
一定の拍子が心臓と重なる。
ひとつ叩くたび、血が抜けていくのがわかった。
それでも、足は止まらなかった。
――行かなければ。
にくゑが暴走すれば、あの子達が逃げ出す機会がつくれるかも知れない。
あの子達を、せめてあの子達を救わねば。
闇の向こうに、井戸の黒い縁が見えた。
その瞬間、意識が少し遠のいた。
でも、手の中の燃料缶だけは離さなかった。
それだけが、今の自分の役目だった。
井戸のそばに立つと、底から微かな呻き声が聞こえた。
息を詰めて耳を澄ます。
人の声だ。男の声。
「……先生?」
吉川は体をこわばらせた。
聞き覚えのある声だった。
これは……宗次だ。
「ああ、先生……わしゃ間違えてもうた……千鶴を……千鶴を……」
「宗次さん……千鶴さんは……」
吉川の声に応えるように声が井戸から響いた。
「……先生……吉川先生……」
千鶴……だ。
「千鶴さん……」
声が震えた。
井戸の中から、掠れた声が返ってきた。
「痛いんです……お願い……うちの人と一緒に消えれるなら、それでいいと思いました……でも……でもこれは……」
「ああ、すまね、すまねぇ! おめぇに会いたいとわしが願ったばっかりに……」
「いいんです……これを望んだのは私……でも、痛いんです……先生っ!」
井戸をのぞき込む。そこは肉の坩堝だった。幾十、幾百もの人とも肉塊ともつかぬものが、波打ちのたうっている。
「……先生……お願いです……」
彼女はもう、人間の声で喋っていなかった。
喉の奥に何か詰まったような、濁った音。
それでも、助けを求める響きだけは確かに伝わってくる。
吉川は井戸の縁に手を置いた。
冷たかった。湿り気のある石の感触が、掌の中に染み込む。
吐く息が荒い。傷口から命が抜けていくのがわかる。彼はしばらくそのまま動けなかった。
「千鶴さん……宗次さん……」
振り絞るように呟く。二人の顔が脳裏に浮かぶ。
笑いながら弁当箱を差し出す姿。
薬草の香り。
宗次の隣で見せた、あの穏やかな横顔。
「すまない」
吉川は燃料を井戸に流し込みながら呟いた。
灯油の匂いが夜気に混ざる。
「今、楽にしてあげます」
手の中でマッチが震えた。
擦ると、一瞬だけ橙の光が生まれ、指先の震えを照らした。
火が落ちる。
――肉が焼ける匂い。
千鶴の声が、一瞬だけ笑ったように自分の名を呼ぶのが聞こえた。
(ありがとう……直樹さん……)
ぼう、と音がした。
井戸の中が光で満たされ、次いで轟音。
炎が高く吹き上がり、赤い舌のように夜空を舐めた。
――あの時もそうだった。まるで乾燥した和紙のように、あの肉塊は燃え上がっていた。吉川は、脂と炎の匂いに包まれながら遠い過去と、あの日の診療所を思い出す。
吉川は顔を上げ、炎を見つめた。
涙が頬を伝って落ちた。
それでも、心のどこかで、ようやく“救えた”と思った。
宗次も、千鶴も。
――その時だった。
足元の土が盛り上がる。
地中から何かが蠢いている。
井戸の周囲の地面が波打つように動き、黒い塊がのたうった。
触手のようなものが、土を割って伸びる。
それは炎に包まれていた。
炎に包まれた何かは、地面を走り洞窟の方向へと向かってゆく。
地面の下から、微かなうねりと、何かが呻くような鳴動が聞こえてくる。
そして、一瞬の間を置いて、洞窟の中全てがオレンジの光に包まれ、炎が魔物の舌のように洞窟から吹き上がった!
低く鳴動していた地面が巨大な唸り声ををあげる。
今やそれは、隠すことも出来ない巨大な咆哮だった。
同時に、全てが崩壊するような巨大な揺れが大地を襲う。
地震? そう、地震だ。それも今まで経験したことがないような、天地が引っ繰り返るような大地震!
洞窟から伸びた炎の舌は、地面を這って森中に、村中に伸びてゆく。
炎に包まれた巨大な何かが、ゆっくりと山を崩しながら姿を現す。それは再び天を揺るがす咆哮を放った!
――遠くで聞こえていた太鼓の音が途切れる。
祭りの囃子が、不協和音に変わった。
世界が掻き回されるような振動に包まれ、吉川は為す術もなく地面にしゃがみ込む。
村一面、地面から盛り上がってくる炎の列に彩られ、夜空が赤く染まってゆく。
吉川は後ずさり、炎の向こうを見た。
村の方角もまた赤く染まっていた。
太鼓の音が止まり、代わりに悲鳴が響いた。
吉川は燃料缶を捨て、よろよろと走り出した。
「梓さんのところへ……!」
その声は夜風にかき消される。
燃え上がる全ての炎が、彼を照らしていた。




