早朝 沙織
縛られた手首が痛んだ。
沙織は薄暗い部屋の中で、壁にもたれて座っていた。麻縄が手首に食い込んで、もう何時間も同じ姿勢のままだった。足首も縛られている。
あれから廃屋に閉じ込められ、食事だけは差し入れられていたが他に何もなかった。
糞尿も垂れ流し、部屋の中は酷い匂いが充満している。
だが、今の沙織には関係なかった。痛みさえどこか遠くのもののように感じられている。
陽一がいない世界では、何もかもがぼんやりしている。
「あ、あはは……」
口から乾いた笑い声が漏れた。自分でも何が可笑しいのかわからない。
陽一の顔が浮かんだ。あの子の笑顔。お母さん、と呼ぶ声。小さな手が自分の頬に触れる感触。
――でももうない。全部、もうない。
「あははは……」
また笑い声。今度は涙も一緒に出た。
お腹が重い。中で何かがぐにゅり、ぐにゅりと動いている。普通の胎動とは違う。まるで別の生き物が入っているみたい。
目を閉じると、暗闇の中で声が聞こえた。
『おかあさん』
陽一?
『ちがうよ』
違う声だった。もっと低くて、湿った声。
『おなかのなか』
沙織は腹に顔を近づけた。
「あかちゃん……」
『おかあさん、うれしい?』
「うれしい……」
本当だった。陽一がいなくなって、世界に一人ぼっちだと思っていた。でもお腹の中に、新しい子がいる。
『もうすぐうまれるよ』
「いつ?」
『きょうのよる。おまつりのとき』
祭り。そういえば今日は村の祭りだった。太鼓の音が外から聞こえてくる。
『おかあさん、●●がうまれたら、みんないっしょになれるよ』
「みんな?」
『むらのひとも、おとうさんも、あのおにいちゃんも』
陽一のこと?
『みんな、ひとつになるの。たのしいよ』
沙織は微笑んだ。そうか、みんな一つになるのか。それなら寂しくない。
廃屋の隅で、俊夫がうずくまっていた。
しかしそれは、俊夫の形をした何かだった。皮膚の下で何かがうごめいて、時々ぷくりと膨らんだ。目は開いているけれど、瞳孔が縦に割れている。
それでも沙織には愛しい夫に見えた。
「俊夫さん……」
呼びかけると、俊夫の形をした何かがこちらを向いた。口元がにやりと歪む。
「ざ、おり……もうずぐ……だ……」
声も俊夫だった。でも音程が少しずれている。
「何が?」
「おまつり……みんなで……一つに……」
俊夫の形をした何かは、また壁の方を向いた。頭を壁にぶつけるようにして、こつんこつんと音を立てている。
沙織は気にしなかった。
お腹の中の子が、また動いた。
『おかあさん、もうすぐだよ』
「うん……」
『●●、げんきなあかちゃんだから、ね?』
「知ってる……」
無邪気な声を聞きながら、沙織は目を閉じた。
陽一達と四人で公園にいる夢を見た。俊夫が陽一を肩車して、自分は赤ちゃんを抱いている。みんな笑っている。
がらり、と扉が開いた。
早朝の眩しい日差しが屋内に入ってくるが、沙織は全くそれに気がつかない。
何人かの村人たちが入ってくる。
「酷い匂いじゃのぉ。祭りの前に清めんとな」
「ああ、久しぶりの贄じゃっけんな。にくゑ様に失礼があっちゃいけん」
猟師の庄一が沙織を引っ立てて行こうと手をかける。が、その瞬間、床に蹲っていた俊夫が庄一に飛びかかった!
「さ…………ざおりに…………でをだずなッ!」
僅かな間、人としての意識を取り戻したのだろうか?
怒りに燃えたその瞳は、確かにかつての俊夫のものだった。
「おお、こりゃイキのいいことじゃって!? 」
だが、庄一を始めとした村の男たちは、半ば獣と化した俊夫を、数人がかりで押さえつけた。いとも簡単に。
「まだ、汁が足りんようじゃなぁ。ほれ、飲んでおけ」
若い男が俊夫の口を無理矢理こじ開け、腰についた水筒から赤黒い液体を流し込む。
口から赤い液体を滴らせながら、俊夫は床に崩れ落ちた。
それには見つめながら村人達は口々に語り合う。
「こん男どうする?」
「放っておくとええ。これでもう、なんもかんも忘れて獣になれるじゃろ。祭りの後の良い引き出物になるじゃろうて」
三度、笑いながら村人たちは沙織を引き立ててゆく。
祭りの舞台へと。
沙織はされるがままになりながら、ぼんやりと考え事をしていた。
そうだ、あの人にお弁当をつくってあげなきゃ。
陽一にもご飯をつくってあげないと…………
でも変ね、陽一の顔がぼやけて見えない。思い出せない。
いつの間にか、笑い声だけが残った。
「あははは……あははは……」
縄で縛られた手が、血で滑っていた。




