11月〈1〉再び倒れる・2
「わあっ!?」
俺は、まるでバネ仕掛けのおもちゃのような勢いで飛び起きた。
「だ、大丈夫かい!?」
俺が叫んだのにつられたように、紺野先生が大声を出した。目を見開き肩で息をする俺を、きょとんとした顔で見つめる、そっくりな姉弟。
「あれ? 紺野先生……と、かがり先生? 珠希さんは?」
「ん? ここには僕らだけだけど……」
先生たちは不思議そうに俺を見ている。
「……あれ?」
全身がべとべとに汗ばんでいて、パジャマが張り付いて気持ち悪かった。しかしそんな不快な状態とは裏腹に、身体はずいぶんと軽くなって、喉の痛みも嘘のように消えている。
かがり先生に促されるままに汗を拭って、水分をとって、検温すると、熱は平熱まで下がっていた。
「うんうん。今は解熱薬が効いてるみたいね」
「えっ、あれ……? ああ、はい、だいぶ楽になりました……」
いや、解熱薬を飲んだ記憶はない。いや、飲んだっけ? はっきりしない。俺は昼飯の後からずっと寝ていて、それで。珠希さんが来て。ん? 違う、部屋に来たのはかがり先生か。
今朝からの記憶が熱で変形しているようで、時系列がよくわからなかった。それでもなんとか思い出そうと首を捻って考える俺の横で、かがり先生はファイルを開いて何かを書き込んでいる。そもそも先生たちはいつからここにいて、俺のことを見ていたんだろう。
「……なんだい? もしかして、幸せな夢でも見ていたのかな?」
かがり先生と紺野先生を交互に見ていると紺野先生がにやっと笑った。
「ちっ、違います! そんな目で見ないでください!!」
俺はまた変な寝言を言ってしまったのだろうか。前に熱を出した時にも、めちゃくちゃ恥ずかしい思いをしている。
しかし、今回はかがり先生が紺野先生をすかさず睨んだ。
「ちょっと、ともくん。病気でしんどい子を揶揄わないの」
「ごめん」
かがり先生に叱られて、紺野先生が一歩下がる。かがり先生は俺の方を見ると、優しい声で言った。
「もしかして、変なものが見えたり、聞こえたりしたの?」
「そ、そうかもしれません」
とはいえ、実は内容まではよく覚えていないのだ。珠希さんがいたような気がする、という程度で。かがり先生はファイルを閉じ、眉を寄せて少し難しい顔になる。
「熱せん妄かなあ……」
「なんですか、それ?」
初めて聞く言葉に目を見開いた俺に、かがり先生が丁寧に説明してくれた。
特に発達が未熟な子供に多いらしいのだが、高熱を出した際、普通では考えられない言動を取ったりすることもあるらしい。それが変な夢を見たり、おかしなことを口走るくらいで済めばいいが、実際にありえない行動をとってしまう……たとえば、窓から飛び降りたりすることもあるんだとか。
小さい子に多いというのも単なる傾向の話で、大人でもたまにあるそうだ。しかも原因ははっきりわからないらしいので、ホラー映画の観賞後がごとく、ゾッとするばかりだった。
「……部屋に珠希さんが入ってきたような気がしたんですよね」
かがり先生が帰った後、紺野先生には正直に白状した。先生はおそらく赤面している俺を見て、おかしそうに笑った。
「あはは、やっぱりね。まあ、実際に雪寮のスタッフさんが何度か出入りはしただろうからねえ。それを見間違えたんじゃないかな」
「ですよね」
魔術で鍵開けした可能性も一瞬浮かんでいたが、珠希さんが堂々と校則違反はしないだろう。俺じゃあるまいし。とにかく、現実との区別がはっきりとつかないなんて、本当に恐ろしいことだと思う。
それから一夜明け、土曜日になった。
『夜中になったら熱がぶり返すかもしれない』と、かがり先生に言われていたがそんなことはなかった。
俺はいつも通り風呂に入ってからしっかりと夕食を食べてよく眠り、いつもの時間にすっきりと目覚めた。もう普段となんら変わりないというか、むしろ快調なくらいだった。
俺より少し遅れて起きてきた紺野先生に、運動着を着ているのはどうしてかと尋ねられる。朝食後にはいつものようにランニングに行こうとしていると言うと、苦笑いで制止された。
「環くん。『熱が下がっても、今日一日は静かに過ごすこと』って、かがり姉さんに言われたよね」
「そ、そうでしたね」
枕元に置いたままだったスマホのディスプレイをつけた。通知は何もない。母親には後で体調が回復したという連絡を入れることにして、まずは紺野先生と朝食を食べるために雪寮の食堂に行く。
朝食を食べながら、先生といつも通り会話を交わす。このあと紺野先生は街に買い物に行くらしい。『何か買って来るものがあれば頼まれるよ』と言われたのでどうするか考えていると、後ろから軽く肩を叩かれた。
「香坂くん、もう具合はいいの?」
「ああ。心配かけたな」
声をかけてきたのは森戸さんだった。長い髪を後ろでお団子に纏め、ゆったりとしたトレーナーとジーンズ姿。いつもの休日のスタイルだ。だが今朝は、彼女は珍しくひとりでいた。そう、ひとりなのだ。いつもは珠希さんと一緒なのに。
「ちょっとだけ時間いいかしら?」
「ああ」
紺野先生は空になった食事のトレイを手に取って立ち上がる。そのまま空いたほうの手で俺の分も持つと、にっこり笑った。
「じゃあ、街でおつかいして来るものがあったら、メモがわりにメッセージをくれるかな。僕は先に寮に戻ってるから、気にせずゆっくりしておいで」
「ありがとうございます」
森戸さんは去り際の紺野先生に一礼すると、先ほどまで先生がいた席に代わりに座った。両手で頬杖をつき、俺をじっと見る。
「元気になってよかったわ。昨日のノートが必要なら言って」
「ありがとう。助かるよ……そういえば、珠希さんは一緒じゃないのか?」
「あ、やっぱり知らなかったのね? 珠希さんね、昨日の夕方に倒れちゃったのよ」
「えっ!? どうして!?」
驚きでつい立ち上がりそうになった俺に、森戸さんは眉をひそめた。
「ひどい風邪だそうよ。受診したあとそのまま別室隔離になっちゃって、私も昨日の夕方から会えてないの」
ひどい、と聞くとなんだか不安で動悸がする。森戸さんも似たような気持ちなのか、硬い表情のままさらに続けた。
「……まあ、私もだけど、クラスの子たちも今のところみんな平気らしいわね」
「そ、そうなんだ」
「ねえ」
森戸さんは俺をじっと見ると、急に声を絞った。何を言われるかは何となく予想がついて、半ば反射的に身構える。
「……イチャイチャするのはほどほどにしなさいよね」
「あ、ああ」
まあ。俺の次に彼女がとなれば、やっぱりそれを疑われるだろうとは思った。確かに、風邪がうつってしまいそうなことをすることもあるけれども……森戸さんに怪訝な目で見られながら、頭をかく。恥ずかしい。
とはいえ、だ。ここ数日、珠希さんとは教室で言葉を交わしただけだ。他のクラスメイトと変わらない距離でしか接してない。その程度でどうにかなるというなら、一年四組は今ごろ全滅しているはずだ。
珠希さんとは昨日、夢というか幻覚でなら会ったが、それで感染症がうつるなんて話は聞いたことがない――
――待てよ?
昨日、部屋に彼女が訪ねてきたのは本当に夢だったのか?
いや、もしそうだとして、こんなにすぐに発症して倒れてしまうものなのだろうか。潜伏期間、というものがあるだろう。珠希さんが昨日の夕方に倒れたならなおのこと、直接は関係ないはずだ。
まあ、たまたま、だよな。と結論した。
「というわけで、今日は暇よね?」
「うん……まあ、そうなるな。残念だけど」
本音を言うと珠希さんの様子を見に行きたいが、俺は残念ながら寮の居住エリアには入れないことになっている。
「千秋さんがボードゲームしないかって誘ってくれたんだけど、どう? これなら病み上がりでもできるでしょ」
「……わかった、付き合う」
座ってサイコロを振ったりコマを動かすだけなら、ちゃんと大人しくしているうちに入るはずだ。と言う訳で、ふたりとは昼食後に雪寮の談話室で落ち合うことにして、俺は食堂を後にした。
◆
お腹が膨れたからか、眠くなってきてうとうとしていると、静かにドアが開いた。
「本城さん、様子はどう? 朝食は食べられた?」
「いただきました。ありがとうございます。薬も飲みました」
「うん、完食ね。ちゃんと食べられてよかった」
スタッフさんはサイドテーブルに置いた水差しを取り替えて、朝食のトレーを下げてくれる。卵でふんわりとじられたお雑炊はとっても美味しくて、病気じゃなくても食べたい味だった。幸せ。
「はい。すごくおいしかったです」
「様子はちゃんと見に来るけど、何かあったらすぐ教えて。実家にいると思って、どんどん甘えてくれたらいいからね」
「……はい」
スタッフさんは枕元に置いてある呼び出しボタンを指してから部屋を出て行った。
部屋にひとりになったので、再び布団にくるまった。
ここは隔離室。仰々しい名前がついているから牢屋みたいな部屋なのかと思っていたけれど、机やクローゼットを置かなくていいぶん狭くつくられているだけで、寮の部屋としつらえはほぼ同じ。
ここは感染症にかかったとか、魔力の暴走を起こしてしまった子なんかが一時的に入ることになる部屋だ。どちらも周りの子に悪い影響を及ぼしてしまうから、こうやって個室に引き離されるというわけ。
私は高熱のため、昨日の夕方からここに隔離されている。
こんなに高い熱を出すのは久しぶりだ。頭だけではなくて、喉と、膝も痛くてつらいけど大丈夫。だって、実家にいたら間違いなく放っておかれるところ、ちゃんと看病してもらえるというのがどれだけ心強いか。
昨日、色々検査をした結果、これだと名前のついてる感染症ではなく、いわゆるただの風邪らしい。けれど、なんだかタチが悪そうだとお医者さんが言っていた。
昨日の環くんが、ものすごくつらそうだったのも納得だ。
「実は、香坂くんもおんなじような症状で寝込んでるのよ。同じクラスだし、うつっちゃったのかなあ。流行らなければいいけど」
お医者さんはこう言っていたけれど、症状が同じなのは当然だよね。
本当は風邪がうつったわけではなくて、『自分の病を乗り移らせる』魔術の術式を反転させて、環くんの病気をそのままもらってきたんだから。
これは実家仕込みの、良からぬことに使うために教えられた魔術だけれど、反転させると擬似的な治癒術に使える。まあ、こんなふうに、自分が病気や怪我を引き受けちゃうことになるけれどね。
鍵を開けたことも合わせて、もちろん許可外の魔術使用で規則違反だ。けれど、環くんは私を見たことを夢だと思ってるし、ただ風邪を拾っただけにしか見えないから、いちいち細かいことは調べられないと思う。
ひとりで苦しそうにしている姿を思い出すと、胸がギュッと絞まる。あなたが望んでくれたように、私もあなたにはずっと笑っていてほしい。そのためなら自分が代わりに傷ついても構わないとさえ思う。どうせもうボロボロなんだから、傷がひとつふたつ増えたところで、変わらない。
でも環くんは、私が勝手に病気をもらい受けて寝込んでいることを知ったら、きっとすごく怒ると思う。『あなたが苦しむことなんかない』って、澄んでいて綺麗で、まっすぐな目で言うんだろう。
誰かに大切に思われることには、未だに戸惑うばかりだ。
やっぱりどう足掻いたところで、私はこの身に流れる血に逆らえない根っからの悪い人間だから。




