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9話 甘い

 「太陽の娘」からの帰り道、ヴァイオレットはぞわぞわする指の隙間をずっと撫でていた。ランドルフの太い関節の指を思い出す。唇に指が触れたとき、キスはこんな感じなのだろうかと思った。


 「どうしよう…。適当に練習って言っても…」


 無意識に唇に触れていた。銃のように的に撃てばいいわけじゃない。ランドルフに試す前に練習する相手が必要だ。


 「は? キスの練習? やだよ。ランドルフに殺されるじゃん」


 「いいから、早く眼鏡を外してください」


 相手が思いつかなかったので、第二課の中でもよく話すエイドリアンに練習を頼んだ。しかし彼は抵抗のように煙草を吸い続け、眼鏡を外さなかった。


 「別にランドルフはお前をハニートラップ要員としては育ててないだろうし、無理に会得する必要もないだろう。そのまま箱入りお嬢様を演じてろ」


 エイドリアンとヴァイオレット以外に第二課のオフィスに人はいなかった。課長は湖水地方に出張に行ってしまっている。ランドルフは今日は非番だった。


 「ランドルフ様のお役に立ちたいんです」


 「ランドルフが、色仕掛けもできるようになれって言ったの?」


 エイドリアンの言葉にヴァイオレットは黙った。早く大人になろうとするのはランドルフの役に立ちたいという願いも本当だったが、その裏に醜いエゴが隠れていることをヴァイオレットは自覚していた。


 「ヴァイオレット、俺はお前が可哀想だよ」


 急な同情の言葉にヴァイオレットは固まってしまった。ソフィアからの憐れみの目線を思い出して、身体が拒否反応を示すかのように鳥肌が立つ。


 「確かに、お前は孤児でランドルフに拾われてなかったら教育は受けられなかっただろう。でも普通の女の子としての幸せや人権を失わなきゃいけないなんて、可哀想だ」


 エイドリアンの言葉には自分ではどうにもできない無力さが滲んでいた。ヴァイオレットのような少女を軍務に就かせて人殺しをさせる異常さに疲れているようだった。あのままランドルフに拾われずにストリートチルドレンのままだったら、どこかで野垂れ死んでいたかもしれない。


 「私は自分が可哀想だなんて思ったことありません。ランドルフ様に拾っていただいたのは、幸福だと感じます」


 胸を張ってそう言えた。汚泥の中に沈んでいくしかなかったヴァイオレットに光を与えたのはランドルフだ。


 「そうか。お前がいいなら、それでいいんだけどよ。とにかくキスの練習はしない。今日はお前も非番なんだから早く帰れ」


 しっしっと犬を追い払うように手を振って、エイドリアンはヴァイオレットをオフィスから追い出した。ヴァイオレットはいつもの癖で休日も、銃を携帯しなければ落ち着かなかったから、ヴァイオリンケースを片手に街を歩いていた。


 地形を把握するのも兼ねて、ヴァイオレットは知らない場所を散歩する。いつもランドルフがいるはずなのに今日は一人だから心細い。


 ちょうど近くに手押し車で販売しているアイスクリームが通りかかった。人が周りを囲んでいて、盛況なようだ。ヴァイオレットはランドルフがご褒美に甘いものをくれることを思い出していた。


 今日は一人で、何もご褒美をもらうようなことはしていないが、どうしても食べたくなった。ランドルフに自由に使うようにお金を持たされているが、服や食べ物などは支給されるものがあるので、今まで何となく買わずにいた。


 「すみません、紅茶味を一つください」


 なぜか身体が勝手に動いていた。今までランドルフが食べろというものを食べてきた。自分で選んだのは初めてかもしれなかった。


 冷えたアイスクリームは舐めると舌先が痺れたかのような錯覚を受ける。紅茶の茶葉の深みが出ていて、ミルクの濃厚な味も楽しめた。ランドルフに隠れていけないことをしているみたいだ。


 だが、甘いはずのアイスクリームもなぜかランドルフから与えられたキャンディほど甘くない気がした。


 「それ、食べないの?」


 ヴァイオレットは驚いて横を見た。同じくアイスクリームを手にした栗色の髪の青年がにこやかに話しかけてくる。


 「ごめん、可愛いから話しかけちゃった。一口食べただけでずっとアイスクリーム見てたから気になっちゃって」


 ヴァイオレットはいつも人の気配に敏感であれと教えられてきたのに、青年が殺気を向けてこないから気が抜けていたのかもしれない。


 「アイスクリームはキャンディより甘くないと思っていただけなの」


 ヴァイオレットがそう答えると、青年はおかしそうに笑った。


 「どっちも甘いだろ? 君のは紅茶味だから、甘さ控えめなのかも。俺、アダム。寄宿学校に通ってて、今は外出許可とってるんだ。君は、王立音楽学校の生徒?」


 第二課は年上ばかりだから、同年代と話す機会がなくヴァイオレットは緊張している自分に気づいた。アダムの指差す先にはヴァイオリンケースがある。その中に銃があることを悟られてはならない。


 「まぁ、そんな感じ」


 王立音楽学校の生徒名簿を調べられたら、ヴァイオレットが生徒じゃないことなど一発でわかってしまうが、一般人はわざわざそんなところまで調べないだろう。


 「私は…」


 名乗ろうとして、偽名か本名か迷った。


 「ヴァイオレット」


 しかし、偽名を名乗る必要性もないと判断し本名を名乗った。


 「ヴァイオレット、素敵な名前だね。君の瞳の色とお揃いだ」


 ヴァイオレットは自分の名前を褒められて悪い気はしなかった。きっとランドルフもヴァイオレットの瞳が紫であることからとってヴァイオレットと名付けたのだろう。ランドルフのセンスを褒められているようで鼻が高かった。


 「音楽学校ではどんな勉強してるの? 専攻はヴァイオリン?」


 アダムの視線がちらりとヴァイオレットの手にあるヴァイオリンケースに向いた。貴族令嬢の教養として、歌からピアノ、ヴァイオリンまで習ったことはあるが、結局どれも音楽学校の生徒を騙れるほど上手くなれなかった。


 ランドルフからは「付け焼き刃でもいいからそれを本物のように見せる努力を怠るな」と言われていた。


 「うん。ヴァイオリンだよ」


 ヴァイオリンケースを持っているのにヴァイオリン専攻でなければ違和感が出るだろう。


 「へぇ、すごいな。ちょっと弾いてみてよ」


 アダムの言葉にヴァイオレットの指先はぴくりと震えた。ヴァイオリンケースの中に入っているのはヴァイオリンじゃなくて銃だ。それを見せるわけにはいかないが、音楽学校の生徒であると騙ってしまった手前、「弾けない」と言い訳することもできない。


 「…上手じゃないから、恥ずかしいな」


 「謙遜しなくていいって」


 アダムは一歩も引く様子はない。ヴァイオレットはじわじわと追い詰められていくような心地がした。どうにか上手い言い訳を考えなくてはならなかった。


 「王立音楽学校の生徒として、学校や学校が指定した場所以外で弾いちゃ駄目なの。…ごめんね」


 本当に王立音楽学校にこんな規則があるかは知らない。今、ヴァイオレットがでっち上げたものだ。本物に見せる努力を怠らない。音楽学校の生徒はプロフェッショナルとして学校の名を汚すような場所では歌ったり演奏しないだろうと予想した。


 「そっか、無理言ってごめん」


 二人の間に微妙な沈黙が流れる。ヴァイオレットは空気を変えようと思って口を開きかけた時、思いついた。アダムにキスの練習相手になってもらえばいいと。


 一度会って二度と会わないような関係ならば、アンジェリカの言うところの適当な練習相手に最適なのではないか。


 「ところで、アダムのアイスクリームは甘い?」


 ヴァイオレットはアンジェリカの教え通りに、じっとアダムの目を見つめた。


 「俺のはレモン味。レモンピールが入っててさっぱりして甘いよ」


 「一口貰っていい?」


 アダムが頷いたのを確認して、ヴァイオレットはアンジェリカの仕草を真似しながら、顔を近づけて唇に触れるだけのキスをした。


 「う…え…えぇ…!?」


 アダムは林檎のように真っ赤になって目を見開いている。アダムはヴァイオレットのことを可愛いと言って話しかけてきた。少なくともヴァイオレットの容姿に好感を持っているのだろう。


 「ありがと」


 唇に残るレモンの香りはキャンディよりずっと薄かった。ヴァイオレットはアンジェリカ直伝の蠱惑的な笑みを浮かべると、そのまま真っ赤になっているアダムを置いてその場を後にした。

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